総本家青信号特派員氏に地図を供する

特派員氏の「まんぽ」散歩は緻密な取材でなんとも愉快です。ぶんしゅう氏の路面電車旅行や西村氏の旧跡探訪とともに安楽マニアの私にとっては想像の翼が広がる大好きなシリーズです。

そこで、つい調子に乗って私もお付き合いさせて頂きたくなりました。
以前に乙訓の長老から「古い地図があるから見せてやる」とお借りした地図を、必要と思われる部分だけをコピーしておいたのです。それは旧東海道線の位置が今の塩小路通付近に通っていたと聞いたことがあり、それを確認するためでした。

まず、明治初期の古地図を資料館で手に入れて、長老の地図と現在の地図を同じ縮尺に換算し直して重ねてみました。そうすると梅小路付近の変遷が分かったのです。
先日も特派員氏の記事に地図を入れましたが、拡大できないことや90°曲がっていたなどで参考にもなりませんでした。そこで改めて地図をご覧に入れます。

まずは桂川を西へ渡った、現・桂川駅付近

明治22年

▲ 右上から左中央へくねくねと走る道は山陰街道で、現在の七条通から八条を経て桂離宮の南を阪急桂駅方向へ、川嶋村を西へ老ノ坂峠へ至る現国道9号線。半円形を描いているのが開通したばかりの東海道線。牛ヶ瀬村付近では盛り土で、所々に避溢橋の表記が見られる。桂川は未改修で、氾濫はよくあったらしい。この付近は別名・牛が窪とも言う。

現在の桂付近

▲ 現在は桂川が改修され氾濫はなくなったが、代わって171号線の車の洪水に襲われている。

明治22年京都駅西

▲ 明治22年の京都駅付近
左下から緩やかに上がってくるのは、上が東海道線で、右端に京都駅が見える。下が九条通。東海道線は、ほぼ塩小路通りを東西に走っている。まだ山陰線や梅小路機関区はない。中央を南北に貫いているのが朱雀大路、今の千本通。七条通から梅小路村を通って唐橋村を経て九条へ至るのが御前通で、東海道線との交差点が「車が暴走する危険なマンプ」である。

明治42年京都駅付近図

▲ 明治42年になると、ほぼ現在に近いが、東海道線は東に進まず南下している。現在の奈良線が旧東海道線だった。拡大すれば大宮陸橋東側に「おほみや」の駅名が見えるが、いまは旧梅經中学校の敷地である。中央を左回りに南下しているのは近鉄ではなく奈良線である。なぜ官鉄の奈良線が近鉄奈良線になったのかは、各自でお調べ頂きたい。中央北部に「京都競馬場」があるが、もともとここにあったのが火事で焼け出されて淀に引っ越した。現在は京都市中央市場となっている。

新旧東海道線の位置

▲ これらを元に旧線の位置を現在の地図に落とし込んだのがこの地図だ。
起点となる古地図のポイントから線路までの距離を測り、縮尺を換算して現地図に書き込んだが、どの地点を起点にするかは甚だいい加減であるのは仕方が無い。つまり道路の拡張が北側か南側かは分からず、線路位置も中心点か犬走りかも不確実だから数メートルのズレはやむを得ないが、出来た物を見ればほぼほぼ大差ないと思う。

特派員氏のレンガに触発されて、古い資料が恥ずかしそうに出てきたことをお許し願いたい。

総本家青信号特派員氏に地図を供する」への3件のフィードバック

  1. 米手さま
    古地図を供していただき、ありがとうございます。たしかに前回のものは拡大できず、私は画像保存して、出力して確認していました。今回は、拡大してモニター上で見られますので好都合です。私も乙訓老人から地図を預かつていますが、こんな古い時代のものもお持ちだったのですね。この付近の調査のために、米手さんと府立資料館まで地籍図を見せてもらいに行ったことを思い出します。その時の記事が、デジ青欄でもう見られなくなっています。改めて、紹介したいと思っています。

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