924レ はやたま号

はやたま号には、昭和58年の3月と8月、2度乗ったことがある。といってもオハネフ12の寝台車ではなく座席車だけだったが。この頃、国鉄では鈍行列車で寝台車を繋いだ夜行列車として、この、はやたま以外にも、からまつ、山陰、ながさきを運行していたが、はやたま以外は乗ったことがない。昭和50年代の終わりにあれよあれよと無くなってしまった。後のブルートレインもそうだったが、そのうち乗っておこうと考えていたものが、消えるときはあっという間に消滅する。後で悔いても仕方ないのだが、今もってその教訓?は活かせていないような気がする。最後尾のオハネフ12

さて、はやたま号は、概略すると、もともと天王寺-名古屋を紀勢線まわりで走る鈍行列車で、昭和53年まで南紀と呼称していたのを、紀勢線電化でその名称を名古屋口の特急に譲り渡し、はやたまになった。昭和57年には、区間を亀山までに短縮、昭和59年1月には、寝台車の連結を止め、はやたまの名称も廃止となり、旧型客車から12系化された。日本交通公社の時刻表、昭和59年6月号を見ると、盆休みの8月10日から16日まで、はやたまを名乗る9922レが、924レの少し前の時間帯で運行されている。指定席マークのみなので12系だと思うが、どの型式を用いていたのか不明である。ご存じの方からご教示いただければ幸いである。昭和61年からは、165系電車化され922Mとなり、平成11年まで存続した。なお、165系になってからも一度乗ったことがあるが、筆者も1990年代は鉄分が薄くなっていた時代で、勤め先の仲間との海水浴利用ということもあり全く写真を残していない。さて、話は戻るが、昭和58年の3月13日から14日にかけて、はやたまに乗って、伊勢市まで足を延ばし、さらに引退直前の飯田線の旧型国電を撮っている。何分乗るのが主体で、高校生時分の拙い写真で恐縮だがご笑覧いただければ幸いである。

和歌山で撮影。何とももったいないが、機関車のEF58は撮っていない。

オハネフ12

尾鷲で東京からのブルートレイン紀伊と交換。50ミリの標準レンズしかなかったのでこんな写真になったと思われる。

紀勢線は、尾鷲も過ぎると結構山中の景色となる。DD51でこの煙なので蒸気だったら、大変だっただろう。

新宮でオハネフ122両が切り離されたので、最後尾となったオハフ33

和歌山からしばらくは、釣客がたくさん乗っていたが、夜が明けるとこの状態

亀山からキハ35で新宮まで乗り通すときついだろう。今もJR東海のキハ25はロングシートだが、新宮まで運用されている。 川添

鳥羽で休むキハ55

近鉄高性能車黎明期の1460 鳥羽

クハ47の0番台 新城

クモハ53008。結構中間に挟まれていた記憶があるので出してみた 豊橋

クモハ53008の車内。張り上げ屋根で残った007番は淡緑の塗りつぶしだったが、008はニス塗りだった。

最末期なので、80系は引退し、119系に代っていた。その119系も数年前に引退した。右は、クモニ13026以下5連の辰野行き 豊橋

 

 

924レ はやたま号」への9件のフィードバック

  1. はやたま号には私も2回乗っています。どちらも天王寺発新宮行です。昭和48年(1973年)の3月25日と3月30日です。昭和48年3月25日と言えば名鉄谷汲駅で連接車のモ400型を撮っています。ちょっと変ですね。どうしたんでしょうね。謎は深まるばかりです。その時の切符の写真を載せておきます。

  2. どですかでん様
    コメント有難うございます。往きが名古屋なら日中に谷汲線で撮って名古屋から夜行で辻褄が合いそうですが。鈍行でもB寝台とは羨ましいですね。今となっては寝台車自体が忘却の彼方ですが、軽量客車で乗っておけばよかったです。

  3. ブギウギ様
    文中「はやたま」はもともと天王寺-名古屋を紀勢線まわりで走る鈍行列車とあり、それらしきものを撮っていましたのでご報告いたします。1964年3月26日関西本線永和-蟹江間を行く名古屋区のC5745牽引の914列車で10系の客車も見られます。この列車は前日22時40分に天王寺を出て名古屋には12時34分に着きます。

    • 準特急様
      コメント有難うございます。貴重な写真拝見させていただきました。旧型客車は何とか間に合いましたが、無煙化時代の前の蒸気牽引列車や戦前の寝台車、食堂車となるともう想像の世界で、それらに親しんだ先輩方を羨ましいと思うことがあります。

      • ブギウギ様
        鉄道ファンは「もう少し早く生まれておれば」とよく言います。私もそうでして人間国宝、須磨の大老、乙訓の老人等々諸先輩の作品を見て羨ましく思ったものです。ところが総本家さんはそうは思わないと言われたことを覚えています。それぞれに与えられた時代を存分に楽しんだ方がいいということだと思います。誰も自分の育った時代やその前後の時代の車両や風景に最も興味が行くのでしょう。高齢のファンはJR化後の車両や新幹線にあまり興味を持たないのもそういうことだと思います。そして今風の歌は全然興味がなく、懐メロや懐かしい漫才が好きなのも同じようなことだと思います。

        • その通り!
          蒸機はC59、客車はスハ43、歌は三橋美智也、漫才はダイマルラケットや!

          • 追伸
            駅弁は博多の中華弁当、尻内の小唄寿司!モンクあるか?

  4. みなさまコメント有難うございます。
    そうですね。今、旧鉄道院、鉄道省の木造電車や客車、はたまた旧満鉄車両について、学術的な観点は別として趣味として意見交換するネットのコミュニティは恐らくないでしょう。(いやあるかもしれない。)私も松田聖子など80年代のタレントはだいたい判りますが、今どきのアイドルの○△48などは判りません。同様に平成のロクサンとも称されるJRE209系以降の私鉄も含めた派生形式はどうも覚えられません。

  5. 1970年頃はEF15か57の凸型が牽引していたように思います。
    その頃は各地の夜行普通客車の列車には名前は無かったような、、、。

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