今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ① 》

N電を見送る

最近の京都市電に対する、展示、出版には目を見張るものがあります。京都市交通局の市電関係の簿冊が京都市有形登録文化財に指定されたこと、そして、今年がN電こと北野線が廃止されてから60周年と言うことも関係しているのでしょう。先ほど何気に考えたら、今日7月31日は、まさに京都市電北野線の最終日に当たり、あわてて投稿を立ち上げました。直前のデジ青欄でも、米手さんが撮られた、千中交差点の素晴らしい夜景が披露され、思わず、私もナマ写真を見せていただくよう、おねだりしたところです。

60年前と言うことは、N電廃止をしっかり体験しているのは、70歳台以上の世代でしょう。かく言う私も、辛うじて、自分の手で撮影ができた世代です。たった数枚ですが、いまも鉄道アルバムの最初のページにしっかり貼って、記憶に留めています。最終日の7月31日は、前にも書きましたが、小学校6年の臨海学校で若狭へ行っていて、最終日に立ち会えなかったのは、いまとなっても残念な思いに駆られています。ただ私は、先輩の皆さんから、N電関係の写真、ネガを譲り受けて保管しています。お蔭で、「レイル」のN電特集号でも、先般の関テレの報道番組でも、依頼があれば、写真を提供することができました。理解ある先輩に恵まれたと思いますし、これを大切に引き継いで、機会を見ては発表・発信していくのが、私の使命だと思っています。最近も、別の方から写真、ネガを貸していただきました。そこで、7月31日に当たり、まだ発表できていない写真の一部をご紹介します。最後の一週間、装飾を施した普段とは違う最終らしい写真で構成しました。中立売橋を渡る。最終日の一週間前から、ほとんどのN電がモールで飾られて、側面には廃止告知の横幕が掲げられた。中立売橋はいろいろな角度で撮られ、著名な方の名作も生まれている。この写真で興味深いのは、見物人のほとんどがカメラで写していること、カメラ・スマホ全盛の現在でも、あり得ないようなシーンだ。この時代になると、35ミリカメラが普及していることが分かるが、N電のすぐ右で、二眼レフを覗いている少年がいる。ちょうど私と同じ世代に見える。どこの家でも、使っていないオヤジの二眼レフが転がっていたものだ。少年も、この特別の日に、オヤジから使い方を聞いて、写しに来たのだろう(以下、神戸市Nさん撮影、昭和36年7月)。

22号は、復元車として、正面窓を取り払い、開業当初の塗装に復元して「壱号車」とした。記録映画にも使われた。▲▲西洞院通を行く。

 

 

最終日に装飾なしのN電も数両走っていた。お馴染み、七条西洞院の交差点。N電と店舗の間は人一人分しか開いていない。左手スクーターに乗ったオッサンが8ミリカメラを回している。

何とか7月31日に投稿すべく数点だけの掲載となりましたが、ほかにもまだあります。明日以降続けます。

 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ① 》」への3件のフィードバック

  1. 米手さんが千中のお店の前で撮られた最終日の晩の写真、おねだりして、データをお借りして、私なりに、レタッチしてみました。当時の千中の賑わいが伝わってくる写真ですね。胸が熱くなりました。

    • ありがとうございます。
      貴重な記録写真は、個人だけでなく広く共有して後世に伝えたいものです。

  2. 趣味的にも、民俗的にも貴重な写真だと思います。
    大丸がスポンサーになった広告電車は、ピク122号の表紙にもなり、多くの記録が残されています。しかし、夜間の写真は見たことがなく、照明が点いていたとは米手様の投稿を見るまで知りませんでした。その気になってじっくり見直すと、確かに電球らしきものがあるようですが、夜間撮影なら一目瞭然です。
    千本中立売は「千ブラ」の中心地で、北側の西陣京極、南西の五番町が付近にあって、夜は賑わったことでしょう。京聯タクシーの営業所は、昭和20年代後半のタクシーがいわゆる「流し」よりも、直接迎えに来てもらう営業形態を重視していたことがわかります。
    最も印象的なのは、多くの市民が電車を見送っていることです。場所も時期も違いますが、市電が全廃された昭和53年9月30日の深夜、塩小路高倉で最後の烏丸車庫行電車を見送りに来た、エプロン掛けのおばさんたちを思い浮かべました。

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