なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈5〉

最北のお召列車

初めて北海道を訪れた昭和43年9月は、明治2年に新政府が「北海道」と名付けてからちょうど百年に当たり、札幌で天皇・皇后の臨席のもと開道百周年の記念式典が行われました。そのあと道内各地でお召列車が運転され、私もC62重連と掛け持ちで撮影に励んだものです。事前には、蒸機を期待したものの、残念ながらDLによる運転で、数年後に各地で運転された蒸機お召に比べると、目立たないお召運転でしたが、いくつかの特徴がありました。

牽引機は、DD51 548〔旭〕、DE10 501・502〔名〕でしたが、それまでお召牽引の実績があるDLはDF50だけで、両形式とも、お召は今回が初めての牽引だったのです。さすがにDLだけでは不安があるのか、予備機のDL以外にも、“予備の予備”として、ピカピカに磨かれたC57を目撃しています。そして、もう一つの特徴は、最北の宗谷本線、天北線にも、お召が入線したこと、それまでの旭川までの最北の記録を塗り替えました。

宗谷本線音威子府~筬島、天塩川の対岸から、上川発豊富行きお召列車を撮る。DE10 501〔名〕+DE10 502〔名〕の牽引、製造番号から見てもSGなし500番代の1・2号車の重連となった。この時は、音威子府で下車、鉄鈍爺さん、ぶんしゅうさんの三人でヒッチハイクして現地に到着した。

DL重連の場合、“向き”を揃える方が、見た目には整っていると思うが、この重連は、1エンド側を両端、2エンド側で顔を突き合わせている。DE10の場合、点検蓋は1エンド側のみにしか無いから、点検の便を考慮して、あえて“向き”を逆にしたのだろうか。

撮影後は、一緒に写していた近くの小学校の先生のクルマに乗せてもらい、駅へ戻った。あまりの喉の渇きに、小学校へ寄って、蛇口からゴクゴク水を飲ませてもらった。冷たい水で生き返ったこと今でも思い出す。旅先の食べ物はほとんど思い出が残らないのに、各地で飲んだ水のほうをなぜか覚えている。

なお、この3日後に戻りのお召が稚内発札幌行きで運転された。これは稚内から天北線経由で運転されたのも特筆もので、お召の運転線区で、その後に廃止された線は、知る限りでは天北線しかない。さらに、ダイヤは稚内9時20分発、札幌17時33分着と8時間以上も運転された。お召列車は、明るいうちだけの運転であり、最大7時間台の運転は時々あったが、8時間を超した運転例も極めて珍しい。

天皇・皇后を迎える当日、朝の稚内駅前、キレイに掃き清められて、真っ白な歓迎柱が青空にまぶしかった(以上、昭和43年9月4日)。

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈5〉」への12件のフィードバック

  1. 北海道のお召し列車の紀行文、楽しくそして懐かしく拝読させていただきました。
    宗谷本線でDE10501がお召しを牽引したというのを、半世紀以上経過した今初めて知りました。
    同機は、昭和43年6月?、大宮機関区に留置中の姿を偶々撮影しておりましたので添付いたします。ピカピカの新車でした。
    なお、同年8月には、岩見沢でDD51548が牽引する試運転にも出会っております。旧型客車5連でした。この写真は改めて。

    • クモハ73106東ウラ様
      拙文をお読みいただき、ありがとうございます。旭川区でDE10501を撮った時に「昭和43年5月新製」の銘板を見ていますので、東ウラ様が大宮で実見されたのと符号しますね。SGなしの500番台は501~574の74両あり、SGのあった部分にはコンクリートブロックの死重を載せて重量を稼いでいるそうです。またつぎの写真、よろしくお願いいたします。

  2. やはりお召し列車は佳いですね~
    こんなお宝写真が出てくるとは!
    蒸機お召しで無かったたためか、写真はあまりみかけません。
    宗谷本線で、C57かC55でお召し列車が走っていたら、なんて「たられば」を夢想してしまいます。

    • コメント、ありがとうございました。ここで改めてお召の行程を書きますと
      9/1 千歳→札幌
      9/3 札幌→旭川→上川
      9/5 上川→新旭川→豊富
      9/6 稚内→札幌
      でした。たしかに鉄道雑誌でも顧みられることは無かったお召でした。“予備の予備”として用意された蒸機はC57で、苗穂区で、日章旗を付けたまま待機していたのを目撃しています(番号不明)。宗谷本線牽引のDE10が不調になったら、急遽、苗穂から駆け付けることも考えられていたと思います。

  3. 『お召し列車』は蒸機と同じく昭和を代表する鉄道の思い出です。
    飛行機と新幹線を使う現代の『お召し列車』は、我々の心に残る『お召し列車』とは別物ではないでしょうか。
    私も『お召し列車』は生涯二回しか撮っていません。
    そのうちの一コマがコチラ。
    旧二条駅で撮りました。

    • 米手さま
      生涯二回で、よくぞ素晴らしい写真が撮れたものと感心します。これは昭和37年4月、福井県の植樹祭の帰途、天橋立から二条まで運転されたものでしょうか。それにしても、よくこんな場所に入れましたね。

      • 入場券を買って入りました。
        対行の各停が待避線で長らく待っていました。
        C51牽引

        • 正規の入場とのこと、たいへん失礼しました。対向ホームにはC51が停まっていたのですか。当日はお召優先で運転されますから、交換列車は時刻変更がありました。駅に張り紙があって、それで、おおよその時刻を類推したものです。

  4. もう一枚がコチラ。
    京都駅の東、鴨川鉄橋を渡って京都駅へ到着です。EF5861
    新幹線が建設中で、橋脚だけができていました。

    昭和天皇は列車の旅がお好きなようで、歌会始の御製にも詠み込んでおられます。
    《国鉄の車に乗りて おほちちの 明治の御代を おもひみにけり》
    昭和六三年の御製です。これが昭和天皇の最後のお歌となりました。

    • こんな素晴らしい写真を隠匿されていたとは! 鴨川鉄橋も昔は恰好の撮影地なのですね。新幹線の進み具合から、これは、昭和38年10月、山口国体の際に、原宿から神戸まで運転されたものでしょうか。

        • なるほど、京都終着とすれば、昭和37年10月の岡山国体の時のお召でしょうか。新幹線開業2年前にもう鴨川の橋脚ができていたのですね。

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