別子鉱山鉄道を偲んで(2)

3.別子銅山記念館の保存車両

新居浜の市街地を離れ、別子銅山方面に向かいました。新居浜市街地から南を望むと、急峻な山が壁のように連なっています。まさにここを日本列島を貫く中央構造線が走っており、壮大な地殻変動の産物であることが実感でき、またその境界に熱変動で膨大な鉱物が集積したのもうなずけます。

別子の谷を流れ下る国領川が平野に出たところに、大山積神社があります。別子銅山の守り神であり、立派な神社です。その境内に別子銅山記念館があり、屋外に保存車両が展示されています。

令和4年5月29日 別子銅山記念館 クラウス1号機

今まで紹介してきた別子鉱山鉄道は下部鉄道と呼ばれ、路線図で示したものですが、この下部鉄道とは別に、上部鉄道がありました。江戸時代に採掘が始まったのは、標高1300mの峠を越えた先にある旧別子山村にありました。そんな高山にある銅山で粗製錬された粗銅は「仲持(なかもち)」と呼ばれた人夫が担いで峠を越えて運ばれ、のちに牛車道が作られて牛車で運ばれ、そして明治26年になって別子山村の石ケ山丈(いしがさんじょう)から峠越えをして標高1200mの角石原(かどいしはら)まで5.5Kmの上部鉄道が建設されて、輸送量は桁違いに増えました。そんな国内屈指の山岳鉄道に導入されたのがドイツ クラウス製の1号機から4号機でした。

銅の鉱脈は地中深くに伸びており、採掘技術の進展とともに下へ下へと掘り進むのですが、水平にトンネル(通洞)を掘ることによって、わざわざ峠越えをしなくても山麓に鉱石を運び出せるようになり、明治44年に上部鉄道はその役目を終えて、廃線となりました。そこで働いていたクラウスの4両も下部鉄道に移り、活躍を続けました。

ゲージは762mm

クラウスの銘板 1892年 製番2682

ところで、上部鉄道の開業にあわせて輸入されたクラウスの4両の製番ですが、      No.2679・・・・4号機                                No.2680・・・・2号機                                No.2681・・・・3号機                                No.2682・・・・1号機                                となっています。普通なら製番順に1号、2号と番号を振り当てるでしょうが、なぜか順番が狂って、No.2682が1号機になっています。先に紹介した湯口先輩の「レイル」の記事には、「1号機と4号機が振り替えられているとのこと」との解説があり、さすが湯口先輩らしく、現場でしっかりと取材されたのだろうと思います。クラウスの銘板が入れ替えられたのか、1と4の番号が貼り替えられたのかはわかりませんが、その気で見てみると「1」の部分に「4」が貼り付けられていたようにも見えなくもありません。

下部鉄道時代の1号機 湯口先輩撮影 「レイル」No.30より転載

後部は出窓のような作り。コールバンカーは無い。

この1号機は、昭和31年から昭和50年まで県立新居浜工業高校に保管されていました。また昭和38年10月には、国鉄四国総局が準鉄道記念物 愛媛県第1号に指定しています。「実は1号機とは偽名でしょう! 本当は4号機なのでは?」というような身元調査はしないことにして、素直に130歳の長寿を寿ぎたいと思います。1号機は立派な屋根の下に保存されていますが、その他の車両は雨ざらしです。しかし、しっかり手入れされ保存状態は良好です。

赤い電機はED104

下部鉄道は昭和25年9月1日に電化され、ED101~103の日立製20Ton電機が入線しています。ここに保存されているED104は昭和29年11月 自社製の20Ton機です。規模の大きい鉱山業は関連する業種も幅広く、鉱山機械から発して現在も超精密大型工作機械で有名な住友重機械や、荒廃した山林の保全から始まって高級木造住宅で有名な住友林業、公害防止や肥料製造から始まった住友化学など裾野の拡がりを改めて感じます。先に紹介したかわいいB型電機や日立製電機を模したED104などは難なく自社で作れたのでしょう。

26号電機 軌間508mmの坑内用6Ton機

No.10  鉱車?

No.8 人車 坑内作業員用

転轍機(通称 ダルマ) よく見ると帝国車輛工業の文字が。帝車はダルマも作っていたとは!

4.廃線跡の様子

大山積神社と国領川をはさんだ対岸に内宮という神社があります。その参道が廃線跡を横切っている筈なので、行ってみることにしました。生子橋(しょうじばし)を渡ります。

生子橋

生子橋の説明看板

この看板を見ると、「大鉑祭」という新年行事のことが書かれています。帰宅後に調べてみると、「鉑(はく)」とは黄銅鉱のことで、正月元旦に、前年中に採掘された最良質鉱塊を厳選し、それに特別な注連縄をかけ、法被鉢巻き姿の百余名の山の男たちが担ぎ棒に載せ、荘厳な「大鉑の歌」や囃子とともに山から大山積神社まで担いで運び、神前で新年事始めの神事が行われていたそうです。ある時期からは鉱山鉄道の端出場駅から山根駅まで特別列車で山を下り、山根駅からは生子橋を渡って「大鉑」がかつがれて神社に奉納され、神事のあと、再び列車で港へ、そして船で四阪島の製錬所に運ばれて、正月2日の溶鉱式で1年が始まったそうです。

元禄4年、住友家が経営していた備中の吉岡銅山の支配人 田向重右衛門一行が別子山で富鉱帯を掘り当てて歓喜の声をあげ、その坑道が「歓喜坑」と名付けられて現在でも見学できるそうです。鉱山(ヤマ)は、ひと山当てれば百万長者、一つ間違えば命取りという厳しい世界のため、神仏を大切にする独特の文化や行事があることを改めて知りました。

生子橋を渡って、内宮の参道を登ってゆきます。

内宮の参道入口。290年前 享保17(1732)年寄進の鳥居がさりげなく立っている。享保17年と言えば瀬戸内海沿岸では「享保の大飢饉」があった年だが、ここは富み栄えていたようだ。

参道と線路跡を少し上から見おろす

石段を少し登ると、立派な狛犬が迎えてくれます。そこが線路跡であり、昔は踏切があったのでしょう。写真右手にあるコンクリート製の蓋が並んだ構造物が、坑水路です。線路跡はきれいに整備され、木漏れ陽がまぶしい遊歩道のような雰囲気です。

廃線跡。右手の1段高い部分が坑水路。

多くの場合、このような廃線跡はサイクリングロードや遊歩道になって残ることが多いのですが、ここは立入禁止です。

立入禁止の看板

立入禁止はいかにももったいない感じで、「危険」な雰囲気は全くありません。多分線路跡は今も住友金属鉱山の私有地で、坑水路のメンテナンス用にこのようにきれいな状態で維持されているものと思われます。下流側に行ってみます。

水処理施設

水路の少し先には水処理施設がありました。山根集銅所です。鉱山は廃鉱になっても、湧水は永久に続くため水処理をやめるわけにはゆかず、ライフサイクルコストは想像もつきません。多分この湧水からレアメタルなどを集めるような技術開発が行われていることでしょう。そう考えると、原発の行く末はどうなるのだろうと頭をよぎりました。

徹底した湧水の処理についの説明看板

またクルマに戻って上流部に向かいます。途中、吊り橋があり、渡れそうだったのでクルマを停めて吊り橋を渡ってみました。久しぶりにユラユラする吊り橋を渡りました。水面からさほど高くないので大丈夫でしたが、もっと深い谷の吊り橋は、もうダメです。昔は何ともなかったのに、歳をとると高所恐怖症になっています。

国領川に架かる吊り橋

対岸を登ると廃線跡に出るだろうと進んでみましたが、民家の敷地に入ってしまうので引き返しました。あとで調べると道を間違えたようで、プラットフォームが残る黒石駅跡やトンネルを見ずに引き返したのが悔やまれます。

(続く)

 

別子鉱山鉄道を偲んで(2)」への5件のフィードバック

  1. 数年前に、今は亡き友人夫妻に誘われて、鉄分抜きで二泊三日の四国バスツアーに参加した。途中、別子銅山上部軌道を見る機会があったので撮った写真がこれです。
    予備知識も興味もなく撮ったので、説明は西村さんにお願いします。

    • 米手作市様
      コメントありがとうございます。さすがに、全国くまなく網羅されていますね。投稿頂いた箇所は、これから(その3)でご紹介致します。

  2. 西村さんが撮ったのは、きれいに塗装されていましたが、私が見たのは坑道に展示されてサビ放題の蓄電池機関車でした。

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