別子鉱山鉄道を偲んで(1)

多度津集合でクローバー会の四国ツアーが行われるという案内を頂き、まず頭に浮かんだのは別子鉱山鉄道跡や保存車両巡りのことでした。5月28日直前まで何かと忙しく、全く予習も何もせず多度津へ。事前のチェック不足で、坂出から多度津に向かうつもりの電車が土曜運休で大慌て、集合時間に遅れるというスタートとなりました。多度津の街歩きや本場の讃岐うどんを堪能し、午後は主力部隊と別れてK.H生さんと伊予西条に向かい、四国鉄道文化館でDF501などを見学し、夕方 丸亀に戻られるK.H生さんとお別れしました。コロナ禍で「旅」という非日常から遠ざかっていただけに、久しぶりの「鉄旅」とクローバー会の面々との再会は気分を高揚させるに充分でした。また西条の町を散策し、1人でフラッと入った居酒屋でのビールも格別でした。今回のツアーの準備や案内をして頂いた皆様に感謝致します。

さて、28日はそのまま西条駅前のホテルに泊まり、翌朝新居浜へ。レンタカーで新居浜市街や別子を巡りました。メインは別子鉱山鉄道ですが、関連施設も訪ねました。

1.住友化学愛媛工場の歴史資料館と構内用電気機関車

新居浜はとにかく「住友」の町です。その中の、住友化学愛媛工場に展示されている小さな電気機関車を訪ねました。工場敷地の隅っこに、明治34年に竣工した 元住友銀行新居浜支店の建物が登録有形文化財として残されています。現在は住化の歴史資料館となっていて、平日であれば 事前申し込みしておけば見学できるのですが、あいにく日曜日のため、入館はかないませんでした。しかしお目当ての電気機関車は屋外保管なので、ゆっくり見学できました。

令和4年5月29日 住友化学愛媛工場歴史資料館(右奥)。手前の道路は公道ですが、フェンスの向こうは工場内。見学者のためなのか、右手のフェンスが歩行者用に少しだけ開けてある。

この住友化学工業愛媛工場は、別子銅山の銅鉱石を製錬する際に発生する亜硫酸ガスの処理に苦心した末に、大正2年に燐鉱石と硫酸を反応させて過燐酸石灰(肥料)を生産するという技術を開発し、鉱山直営の肥料工場として出発したそうです。大正14年に住友肥料製造所として独立し、昭和9年には住友化学と社名を変更し、今日に至ります。かつて、燐鉱石を構内運搬するためのトロッコを牽引していた電気機関車が残されています。

資料館の左手にある電気機関車。

特異な外観の電機

説明版も銅色

足回りと銘板

昭和2年12月 別子鑛山機械課製。95年前の古強者。

正面から見たところ。必要最低限の機器のみ。天井の集電用ポールの竿はなかった。

資料館内の見学はできませんでしたが、電気機関車を見ることができたので満足して次のポイントに急ぐことにしました。

別子鉱山鉄道は昭和52(1977)年に廃止されていますが、総延長14.5Kmの地方鉄道でした。その路線図を、2013年6月講談社刊 図説日本の鉄道 四国・九州第2巻から引用させて頂きました。なお上記の資料館は下の路線図では、昭和橋駅と惣開(そうびらき)駅の丁度中間あたりの湾岸にあります。

2.星越駅跡

別子銅山は江戸時代 元禄4(1691)年に開坑し、昭和48(1973)年の閉山まで、283年間採掘が続けられた世界的にも有名な銅鉱山でした。採掘された銅鉱石から金属材料としての銅にするための「製錬」が必ず必要ですが、別子銅山の場合、当初、製錬所は坑口近くに設けられていましたが、明治21年には山を下った山根に製錬所が作られました。しかし煙害が問題となり、製錬所を四阪島に移すことになり、星越に選鉱場が設けられました。また星越駅付近には鉱山労働者の広大な社宅群が広がっていたようです。鉱山からは鉱石が貨車で星越の選鉱場に運ばれ、選別された鉱石は再び星越から港に運ばれる一方、星越からは客車が従業員を鉱山に運ぶという、鉱山鉄道の拠点が星越でした。車庫もここにありました。そんな星越駅舎が今もきれいな形で残っています。

旧星越駅舎  しっかりと整備されている。現在は倉庫として使われているようだ。

プラットフォームの上屋も残っている。

駅に隣接した選鉱場跡。壮大な城跡のような施設。

湯口徹先輩が昭和30年3月17日に当地に来られた際の写真が、「レイルNo.30」に掲載されています。

湯口先輩撮影の貴重な1カット。本線は電化されているが、まだ蒸機も健在だったことがわかる。左手後方に選鉱場の石垣が見える。

駅前に広がる社宅跡。かつて湿地帯だったこの一帯は、昭和元年から選鉱カスで埋立が行われ、住宅地として造成された。病院、学校などもある新居浜一の高級住宅地となったそうだ。

星越駅の西側から駅跡を望む。左手の2条のタイヤ痕があるところが線路跡。

鉱山に付き物は湧水です。かつて足尾銅山では湧水を渡良瀬川に放流したために鉱毒問題が発生し、下流に渡良瀬遊水地を作るなど事後処理に膨大な費用と時間を要したという苦い経験があります。ここ別子では湧水は一切川に流さず、専用水路(坑水路)を設けて下流部の水処理施設に導いています。上の写真でまっすぐ伸びるコンクリート道路のようなものがその水路です。この水路の水を田畑への散水などに利用されないように厳重に蓋がされているのには驚かされました。そして線路跡に沿って延々と続いているので、どこが廃線跡かをすぐに見つけることができました。

鉱山鉄道跡と予讃本線のクロス地点(電車の車窓から撮影)。左手の道路が線路跡。右手に坑水路が走る。

さて、星越駅を出て惣開(そうびらき)に向かう線路は星越トンネルに入ります。その手前に、弓なりになった跨線橋がありました。

跨線橋

この神社の参道のような跨線橋を歩いて渡ることはできますが、渡った先は行きどまりの藪で、この先に何があったのかわかりません。

星越トンネル東口

レンガ積みの立派なトンネルは、現役の水路も通っていることから、しっかり管理されているようでした。残念ながら木が邪魔をして全貌がよく見えませんでした。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

別子鉱山鉄道を偲んで(1)」への1件のフィードバック

  1. 先日はありがとうございました。興味深く記事を読ませてもらっております。
    住友家の歴史は、三井、三菱と異なり、銅の精錬が家業の柱でした。
    現在、京都市左京区に住友家の宝物を収めた泉屋博古館があり、3月と5月に「旅する絵画」展を二度見に行き、企画展の他に常設で展示する、別室の古代中国の青銅器のコレクションが圧巻で、住友家と銅山の歴史記述にも大変興味を持ち、展示資料を読んできたばかりです。
    また江戸期の住友家当主が、文人画の世界に遊んで来たことは、一方で木村蒹葭堂らの博物学の人物らと交流し、鉱山学と無縁ではない世界観を持っていました。

    今年の4月は三原と尾道を久しぶりに訪問しました。住友に取り内海貿易は銅の積み出しのため重要な仕事です。尾道には住友銀行尾道支店が、最近まで続いていました。明治28(1895)年に伊庭貞剛が尾道会議を招集して、製錬所の移転を決定し、住友の事業継続の運命を決定した重要な土地で、ここに都市銀行の支店が続いていたことは、住友の聖地なのかと思ったくらいです。

    こういった経緯に興味を持つきっかけは父の出身地である山口県柳井市に1990年代まで旧住友銀行柳井支店の建築が残っていたからです。内海の要港に支店を置いた住友家の鉱山経営と事業の分布には、興味が尽きません。記事の続きを読むことを楽しみにさせていただきます。

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