少々古い話であるが、どですかでんさんより、平成24年5月11日【20260】で「一円電車」に関する書込みがあった。今年の1月3日神子畑に住んでおられた方から貴重なコメントがあり、改めて「デジ青」が関係者以外にも多くの方に見ていただいていることを認識した次第である。
46年前の昭和44年2月、準特急氏、竹中 修氏と3人で訪れた時の記録を記憶があるうちに纏めておきたい思い書込みをした。
卒業を目前に控えた準特急氏より、「一円電車」に行こうという提案があり、1学年下の私と、1回生でローカル私鉄に興味を持っておられた竹中 修氏が参加した。
KAWANAKA氏と逗子の旦那は、途中の天橋立まで同行され、日帰りで帰られたと思うが、半世紀近くも前の事であり記憶違いがあるのかも知れない。
当時、日帰りで明延まで往復するのは無理があるため、1泊2日で計画し、初日は福知山機関区と加悦鉄道を訪れた後、天橋立のYHで宿泊して、翌日「一円電車」を訪れることにした。
昭和44年2月22日、京都駅7時50分発綾部行(125D)で出発し、綾部で乗換え10時48分に福知山に到着した。
機関区に行く途中の踏切で、バイクに乗った実家が福知山の同じゼミ生から声を掛けられ吃驚したが、相手はもっと吃驚したであろう。
機関区で撮影後、11時43分発敦賀行 (957D)で西舞鶴へ、12時39分発豊岡行 (325レ) に乗り天橋立で降りて39616牽引の貨物列車を撮影した。
KAWANAKA氏と逗子の旦那はここでUターンされたと思う。
15時42分発豊岡行 (341D) に丹後山田まで乗車したが外は雪になった。加悦鉄道は直ぐの接続で、キハ51の車内元荷物室部分に石油ストーブが設置されていた。
折返しの16時50分発の列車まで降りしきる雪の中で撮影した。
丹後山田17時24分発京都行 (328レ) で天橋立まで戻り、船で対岸の一の宮に渡り、雪の中を歩いてYHに到着した。ちなみに328レの京都到着は5時間29分後の22時53分である。
YHの同宿者は、一人旅の京都外大生だけであったが、この季節に丹後半島を観光するのは余程物好きの部類に入るであろう。
京都~綾部間を乗車した125D キハ2512+キハ26226/綾部
39616の牽く貨物列車/天橋立駅付近
準特急氏、川中氏、逗子の旦那とDRFCの写真の大御所が揃っていながら何故このような場所で撮影したのか判らない。寒さに負けてつい日よってしまったのかも知れない。
翌朝は、昨日の雪は止み晴天であった。YHから「天橋立」が綺麗に見えた。朝食後、バスで岩滝口駅に出て7時42分発豊岡行 (335D) に乗車、丹後山田でC58327の牽く京都行 (322レ) 、丹後神野で丹波3号大阪行 (2716D) 、久美浜でC58223の牽く西舞鶴行 (326レ) と交換して9時12分豊岡に到着した。
直ぐの接続の9時13分発急行「丹波3号」 (716D) に乗り、和田山で直ぐ接続の播但線姫路行 (656D) に乗り継ぎ、「一円電車」の入口駅の新井には10時10分に到着した。
現在のように情報網が発達していないため、「一円電車」の運行状況やダイヤ等がさっぱりわからなかったが、ここに来て全但バスの神子畑(みこばた)行のバスに乗れば必ず接続していることが判り、直ぐに接続するバスには乗らずに、1本後の2時間後のバスに乗ることにして、それまでの間、駅周辺で撮影した。
12時20分発神子畑行のバスは、いすゞの中1扉のリヤエンジン車で、初老の車掌が乗っており座席はほぼ満席で発車した。道路は舗装されていたがカーブが多く30分で到着した。
「一円電車」ののりばは更に山道を上がったところにあり、トンネルに挟まれたような場所であった。程なく前後を機関車に挟まれた客車2両と荷物車1両の編成が到着し、数人の乗客が降りた。
機関車は前後に付いているが、総括制御ではなく機回しを省略するためのもので、力行するのは先頭の機関車だけである。
我々3名と他に5名の乗客を乗せた列車は、直ぐにトンネルに入り、暗闇の中を30分も走り、パッと明るくなったところが明延であった。
帰りの列車まで1時間あり、構内に停車中の車両を撮影して時間を過ごし、再び長いトンネルを抜けて神子畑に戻った。
新井から16時51分発和田山行 (667D) に乗車、和田山から篠山口行 (742レ)、 福知山から西舞鶴行 (939レ) 、綾部で京都行 (138D) と乗継ぎ、京都駅に21時27分に到着した。
近鉄東寺駅から徒歩で帰るべく、近鉄ホームに行くと「予備特」が停まっていた。
C5797の牽く姫路行 636レ
機関車の次の客車はオハ二3628
和田山行659Dの到着、隣のDF50は新井~生野間で貨物列車の補機として使用
「あかがね」
運転台が神子畑寄りにある片運の電車で座席は3方シート(後部はバスのような車体幅一杯の座席がある)
「一円電車」の車両は相当数が周辺に保存されており、一部は動態で定期的に動いているようである。
何時の日か一度ゆっくり訪ねてみたいと思っている。
宮津線はC58とキューロク。特にC58はD51に似て給水温め器が煙突の前にありますが、何となく小型で中途半端な感じであり、撮影意欲が今一わかない機関車でした。逗子の旦那も豊岡でずらりと並んだC57を見て「やっぱ、C57の方がええ」と言っておられたような記憶があります。デジ青見てましたらコメントいただきたいと思います。
脚の短いのがこんなポーズで写真撮っていたとは。それにしても一円電車は狭いトンネルの中だけを走り怖かった印象があります。また、新井駅からのバスで廃線跡を見たような記憶もあります。
準特急様
コメント有難うございます。
断片的なメモと消え消えの記憶を基に書き込みしました。
仰せの通り、C58は人気が無く、C58が主力の宮津線、小浜線は、夏の96の海水浴臨時列車が走る時期以外訪れる人は少なかったと思います。
一円電車は98%がトンネルで、明延まで往復して神子畑に帰り着いたにはホッとしました。
何分にも半世紀近く前のこと、記憶が飛んでいる部分、記憶違いの部分等が少なからずあると思いますので、ご一緒された方からのご指摘、コメントをお願いします。