関西の蒸機を巡る ~草津線~  ①

桜の開花も近いというのに、投稿はいっこうに進まず、デジ青の論戦にもついて行けません。体調も万全でなく、何をするにも“身体が資本”を改めて感じる毎日で、本日の長良川鉄道イベントも参加が叶わず、家で悶々としていましたが、地道に投稿を続けていきたいと思っています。

まずは古典ネタで入るのが高齢趣味者の定めと言うことで、しつこく蒸機ネタから始めます。1月の写真展「煙の記憶」、多くの皆さんに来場いただきましたが、改めて感じたのは「蒸機の時代は遠くなりにけり」です。現役蒸機の時代を知らない世代が、来場者の約半数でした。その方たちの眼は、北海道のC62重連や、九州の流麗なC57よりも、山陰本線京都~園部など身近な線区に注がれます。前回、本欄で小浜線のC58を連載した時も、予想外のコメントをもらいました。近郊の線区は、蒸機形式や沿線風景において、北海道、九州と較べると見劣りすると思うのは高齢者だけで、その時代を知らない世代にとって、そんなことは関係がなく、蒸機の時代と、現在の風景を対比して興味深くご覧になっていました。 やはり地元の写真を、きちんと載せて行くことが大事だと感じ、今回は草津線を採り上ることにしました。

草津線の蒸機を初めて撮ったのは意外に遅く、昭和44年2月のことだった。この時、DRFCで近江鉄道彦根車庫の見学があり(西村さんが、近江の白帯貨車を載せられていた)、早めに草津へ行って、駅で京都へ向かう蒸機を撮った。この時は亀山区のC58 240が牽いていた。駅構内は、50年後の今もそれほど変わっていないが、右手には関西鉄道由来の煉瓦庫がホームと隣り合っていて、駅前の再開発工事も途上だった。

途中の駅は、ほとんどが交換可能な広い構内を有していた。ホームに桜のある駅も多く、長い貨物がゆっくり通過して行く光景が見られた。甲賀 昭和47年4月東海道を通じて京都へ物資を供給していた歴史のせいか、草津線は京都との結びつきが強く、朝には京都へ直通する客車列車が設定されていて、長い編成に客を満載して行く。D51 441 石部~三雲 昭和47年4月

 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ①」への20件のフィードバック

  1. 昨日の研修会で、カラー写真よりモノクロ写真の投稿に反応が多いのは何故だろうか?と話題になっていました。年寄りのノスタルジーと言うことでしたが、私もその一人として反応します。と言ってみたものの、草津線の写真は皆無でした。理由は変化のない風景、D51ばかりと言うことらしいのですが、今となっては残念至極です。たった一枚がこれです。草津発和歌山市行きが無くなるのでその前に乗っておこう、と言うわけで1900生氏、K氏と一番電車で草津駅に行って出発前のD51を撮ったのですが、暗闇が明けかけたところなのでこんなものです。でも思い出に残る楽しい旅でした。

    • 米手さま
      「なんでも投稿せぇ!」という米手さんの叱咤激励に応えました。たしかに草津線には“華”がありませんが、加太の行き帰りには、よく行きました。たった一枚の写真も、よくぞ公開していただきました。この和歌山市行きの乗車は、某コンテストで推薦に入賞され、グランフロント大阪にみんなで見学に行った時の写真を撮られた時のものでしょうか。

  2. 1972年1月2日石部-三雲間で撮りました。山に大きい岩があった所です。現在の甲西-三雲間のちょうど中間ではないかと思います。画面手前の住宅が並んでいる道は東海道ですね。

    • 井原さんらしい写真、楽しみました。とにかく高いところから撮るのが好きでしたね。この場所はどうして見つけられたのですか? 信楽線でも、同様の撮影地がありましたが、その付近から方角を変えて撮れるのでしょうか。草津線は、街道の東海道とほぼ並行して、宿場町を結んだことが、この写真からも伺えます。

      • 汽車の窓から山の上に大きな岩が見えましたので、そこに行くと良く見えるだろうと思って行ったら良く見えたのです。信楽線の展望台とは別の場所です。
        ところで、石部駅ホームの桜は秋に咲くことで有名でしたね。

  3. 京都のSL少年(今では高齢者)に馴染み深い、草津線をお待ちしてました。柘植行きの気動車から、三雲や甲賀、甲南で次々にすれ違う蒸機列車にカメラを向けたものです。ただ沿線では撮る機会に恵まれず、昭和47年10月のダイヤ改正を迎えてしまいました。総本家様の草津線シリーズで、どんな写真に出会えるのか、期待が高まります。
    さて、草津線内で撮った写真は少なく、こんなモンしかありません。昭和46年4月29日、貴生川駅で撮った1792列車です。草津線の貨物列車は編成が長く、冷蔵車が何両も繋がれていました。

    • 紫の1863様
      お久しぶりです。先日の京都市電展も、身体の調子が悪くて、お会いできず申し訳ありませんでした。ベテランのKさんと会われたようですね。
      私も草津線で一日中粘ったのは最終日ぐらいで、加太の行き帰りに立ち寄った程度ですが、回数を重ねると、そこそこの点数となりました。撮られた写真、私も同じ位置から撮っていました。たしかに、この時期の貨物量は多かったですね。

  4. 時は流れて平成23年9月、久しぶりに訪れた草津線は電化され、貴生川駅も新しくなっていました。あまり好まれない地域色の113系も、ひとつの時代の記録かもしれません。下校時間帯だったのか、ホームにはたくさんの高校生の姿が見られました。

    • はい、抹茶だのタクアンだの、色のことは言っておられません。113系など、国鉄種が絶滅の危機にあります。ただ、オリジナルのカラーに馴染んだ身には、やっぱり撮りに行く気は起りませんね。

  5. 高い所から撮ったものばかりではありません。レール面に近いものもあります。甲賀です。

    • 井原様
      高いところも、低いところも、お好きなんですね。線路横断のシーン、いいタイミングです。この甲賀のアングル、私も撮ったことがありますよ。たしか、F本さん、T田君の3人で行ったはずですが‥。

  6. 1964年5月4日草津駅9時36分にEF58146牽引の東京発大阪行き145列車が到着しました。その10分後に亀山発725列車がC57121[亀山]牽引で到着しました。この後、方向転換のために支区に戻り再びそれを撮りに行きました。

    • 準特急さま
      さすがに、ひと世代違います。草津線の旅客は、もっと昔はC51、準特急さんの時代はC57だったのですね。私の時代はC58、D51で、次第に魅力が薄れて来ました。草津線は、加太へ行く途中に蒸機を見たことはあるけれど、降りて写したことはない方が多かったのではと思います。実は、「鉄道ファン」で、列車ダイヤが載っている別冊のなかに、なぜか草津線がありませんでした。それだけ認知されていない線区であること、改めて知りました。

  7. 草津の煉瓦庫の遺構は私も初めて見た時に「関西鉄道ゆかりの」と直感して記録に写しておりました。いま一部でも残しておいたら、貴重な近代化遺産になっていたでしょう。撮影は昭和60年の3月です。

    • おお、よくぞ撮っておられました。実はこの角度の写真、以前に探していました。ある鉄道本の編集で、どうしても、この煉瓦庫の写真を使いたいのですが、なかなか見つかりません。よく見ている施設ほど、撮っていないこと痛感しました。結局、草津駅のホームから上半分だけが見えた写真で、代用せざるを得ませんでした。私にとっては、探し求めていた一点です。

      • ありがとうございます。この元の煉瓦庫は東海道本線の車中からも大変気になる存在で、後から鉄道史を研究すると、大私鉄の関西鉄道は、最初が草津線の建設から始まって名古屋を目指したというのは、本来の東海道の宿場沿いの豪商らが、失地挽回を図ったのではと思います。
        近江商人の意地で次々と片町線や関西本線の前身になる私鉄を吸収して、湊町ー名古屋間に直通急行を走らせて、東海道線に一泡吹かせたという歴史は何回読んでも興味が尽きません。
        こんな場所が関鉄揺籃の地だったというのは面白いですね。
        また、この機関庫の目立つ存在感には、「目に物」感がありすぎて、100年後の我らにもアピールしているようでした。

        • 草津駅の煉瓦庫のそばにはもう一つ気になる建築物があり、この木造の鋸屋根の建物は、吹田工場の戦時疎開目的の車両工場と聞いた記憶があります。
          これも残っていませんし、調査もできなかったことが悔やまれます。

  8. 草津線普通列車を牽引するC57の写真感激しました。私は昭和31年に滋賀県甲南町(現甲賀市甲南町)に生まれました。小学校から高校までは長野県の木曽福島で過ごし大学から平成3年まで京都にいました。現在甲南町在住です。鉄道好きの少年でした。高校2年までは現役の蒸気が走っていました。祖父の家のある甲南と木曽福島を年に何回も往復していますので草津線、関西線、中央西線でどのような機関車が牽引するかいつも楽しみでした。中央西線はD51ばかりでしたが関西線はスマートなC57が見れて楽しみでした。小学生のころ草津線の客車列車はD51とともにC57が運用についていたのを子供心に覚えています。祖父と乗った朝の草津発和歌山市行722列車は集煙装置を付けたC5726が牽引していたのを覚えています。カメラを持ち始めた中学時代んは旅客列車もすべてD51になっていました。中学時代親しくしていただいた元亀山機関区機関士さん亀山発草津線直行列車を牽引するC51225の写真をもらいました。多分加太、中在家間で写したものだと思います。この機関士さんはC51でいつも草津(昔は京都)まで乗務したとの事です。私の宝物です。

  9. 準特急様、特派員様
    私も草津線のC57を撮っていました。1966年6月26日 C57148で給炭転向所にほど近いカーブです。転向所には信楽線に入るC58が休んでいます。

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