私と江若鉄道

総本家青信号特派員さまの記事に、当時を思い出して資料をあさってみました。

私も1030日、111日と撮影に行っていました。当時高3で、30日は木曜日、授業が終わって出かけたのか、浜大津駅付近で撮影、111日は三井寺-滋賀の間と最終のサヨナラ列車を浜大津で撮影していました。沿線風景もなくお見せできるような写真はありませんので、江若鉄道にちなんだグッズを紹介させていただこうと思います。

廃線の日から何日か経ったある日、父が大きな紙包みを持って帰ってきました。何かと思って開けてみると、江若鉄道のサボと三井寺下駅?にあった「危険品ご注意」の看板、それに乗車券が何枚か入っていました。父の知り合いに江若鉄道の本社の事務の方がいて、私が鉄道趣味だということを知ってくれたのです。

サボは写真の3種類、1枚は総本家青信号特派員さまも「江若あれこれ話しその1」で触れられている快速「ひら号」、裏面が、冬のスキーシーズンに同様に運転された快速「マキノ号」、もう1枚はただの快速となっていますので、朝の浜大津行き、夕方の近江今津行き各1本定期運行されていた(廃止時)快速に使われていたものと思います。

危険ご注意の看板は上に鎖、または針金でぶら下げるようになっているので、改札口の上にあったのではないかと思います。

また、切符はいろいろありましたが、面白いものをあげてみました。上段左は当時の国鉄との連絡切符、江若は昭和22年から40年まで膳所駅に乗り入れしていましたが、本数少なく、この切符の連絡は大津駅、徒歩で15分程度かかる離れた駅を連絡する切符でした。上段右は、普通の硬券ですがよく見ていただくと運賃20円と書いた上に運賃変更のスタンプが押してあります。日付は昭和441026日となっており、いつから運賃改定されたのか分かりませんが、昭和424月の時刻表見ると既にこの区間運賃は30円となっていて2年以上経っているのにまだ以前印刷したものが残っていたのです。

左中、下段は京阪との連絡切符で、これは浜大津の駅が京阪、江若で隣接しているため、本来の形かと思いますが、近江木戸は快速も止まらない駅で、わざわざ大阪からの連絡切符を作るような需要があったとは思えません。また、右中、下段は駅名が記入できるようになっているのですが、本来は中段の形で、堅田駅に常備されていて、発売の際に行き先をスタンプ、または手書きで書いたと思われますが、下段のものはどの駅に置いてあったのでしょうか?

今回のイベント案内いただき、久しぶりに私の青春時代も思い出させてくれました。最後に廃止翌日の新聞の切り抜きを添付しました。当日楽しみにしております。

私と江若鉄道」への4件のフィードバック

  1. 大津の86さま
    本日は、ありがとうございました。
    こんな逸品を所蔵されているとは知りませんでした。実は、私も若干の江若グッズを持っていましたので、今日、展示して来ました。まだスペースは十分にありますので、良かったら展示お願いいたします。
    私がグッズを手に入れたのは、廃止後、京都市内のデパートで販売会があり、そこで手に入れました。まだグッズの販売会が珍しい時代だったのでしょうか、テレビが取材に来ていて、夕方のニュースで、バッチリ顔が映ってしまったことも思い出です。

  2. 総本家青信号特派員さま

    こちらこそ突然押しかけて失礼しました。
    久しぶりに諸先輩方とお会いでき、当時のことを思い出しました。
    今日、時間あれば会場に寄ってサボ等置いておきます。
    お役にたつようでしたらどうぞ使ってください。

  3. 大津の86様

    貴重なサボや切符の画像を有難うございます。
    私も切符類は自分で集めた入場券、廃止後会社の方からいただいたものがあったと思うのですが、実家の物置の段ボールの中です。雄琴温泉と新旭駅の入場券は、廃止の1年位前まで「5銭」のものに「運賃変更」のスタンプを押して堂々と売られておりました。

    近江木戸駅発行の天満橋までの京阪連絡乗車券ですが、近江木戸駅は「サンケイバレー」の最寄駅だったので販売されていたと思います。「サンケイバレー」は昭和40年に開業しており、マイカーの保有率が少なかった時代、京都、大阪から訪れるには江若鉄道の利用が一般的だったと思います。近江木戸駅から「カーレーターのりば」までのバスも開業に合わせて運転されていたのではないでしょうか。(この件は調べてみたいと思います)
    この切符のもう一つ注目すべき点は、浜大津~三条間は京阪バスと選択乗車ができたということです。当時、浜大津~三条間は共通乗車制で電車の切符でバスにも乗れました。バスも京津線の急行と同じ20分間隔で運転され、道路の混雑がなく、時間的に大差なく、四条大宮行や京都駅行もあり、主にグレードの高い車両で運転されていたため、バスを選択する人も多かったようです。

    ところでH.Nの「86」は「クハ86」「8620」それとも全然別の「86」でしょうか。

  4. 藤本さま

    いろいろご指摘ありがとうございました。
    近江木戸はなじみがなくて、当時の「サンケイバレー」は蓬莱からと思っておりました。高校生時代友人と何回か行ったのですが、もちろん車はないので江若鉄道で行ったはずなのに、当時の記憶はすっかり抜けてしまっていました。
    ご質問の86は「8620」の方でして、当時浜大津貨物線には8620が入っていて、確か晩の8時ころになると、汽笛が聞こえました。この思い出から、ハンドルネームにさせていただきました。

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