昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈1〉

今年は、昭和で換算すると、昭和100年に当たるとか。6月に入りタイミングを逸したネタですが、またぞろ「昭和」に回帰、昭和100年の半分、昭和50年に戻ってみることにしました。昭和50年と言えば、私にとっては社会人3年目、忙しくもあり、仕事の面白さも感じていた頃ですが、趣味活動も忘れることはなく、対象も多様化、バスや街並みにも関心が向いてきました。日本からは蒸機が消える頃で、ポストSLとして、特急や電機にも焦点が集まっていました。京都では昭和49年に烏丸線が廃止、その次は、昭和51年の丸太町・今出川・白川線の廃止までに2年間があり、昭和50年は京都市電においては、エアーポケットのような年でした。先ごろ昭和の時代を駆け抜けた長嶋さんが亡くなり、ひときわ“昭和”が喧伝されたものです。そんなときに、昭和50年を回顧するのも、あながちハズレではないと思います。まずはカラーポジのなかから、いくつかのテーマを選んでみました。私が最後に見た長嶋さんは平成時代のオープン戦、試合前に何かの表彰を受ける監督10年目の長嶋さん、右は入団4年目の松井秀喜と川相昌弘(1996年)。

岡山で583系を送る (昭和50年3月9日)

昭和50年3月に国鉄ダイヤ改正があった。新幹線の岡山~博多の開業がいちばんの目玉だったが、各地でも特急の増発、急行の削減が行われ、白紙改正級の変更だった。山陽本線はとくに激変で、岡山で新幹線接続していた、山陽・九州方面の昼行特急・急行39往復が全廃された。特急「きりしま」は、昭和45年10月改正で京都~西鹿児島の583系として誕生、時間帯から徳山~熊本は無停車で博多も通過したのが特徴。その後、新大阪~西鹿児島になり、改正後もスジは残るが、「明星」に愛称が統合されるため、「きりしま」の名は消える。この日は改正前日のため、岡山止めだった。

改正を翌日に控えた岡山駅、「きりしま」「月光」と両側に583系が到着する。ホームは、この賑わいで、平気で線路に降りて写していて、だれも制止しない。無秩序と言うか、大らかと言うか、これも昭和ならではだろう。ここでDRFCメンバー3人と遭遇、一緒に行動することに。

 

 

座席・寝台両用の581系の最初は、昭和42年10月改正で生まれた夜行寝台「月光」と昼行座席「みどり」の各1往復で、581系の別称も“月光型”になった。この時期の「月光」は2往復で、改正でで「明星」に統合されるため、栄えある「月光」の名も8年で姿を消すことになった。今号の「鉄道ピクトリアル」は何回目かの583系特集、今でもその人気は不動のようだ。戦後2番目の特急として誕生した「はと」も、この時期は、岡山~下関の特急となっていた。485系なのに、下関で折り返す、ローカル特急になっていた。この改正で廃止となり、以降、「はと」の愛称は復活していない(庭瀬~中庄)。昭和39年の設定当時から山陽本線一筋の「しおじ」、この時期は、新大阪~下関3往復、新大阪~広島が2往復で、向日町の受け持ちのため、新大阪で新幹線接続していたが、新幹線博多開業により全廃となった。急行も大活躍していた。その代表格の「山陽」は、上下17本も運転され、山陽筋の中都市をこまめに停車していた。153系10連で、これも新幹線に譲って、全廃となる(倉敷)。そして、バスも一瞥、松永駅下車すぐの鞆鉄バス松永営業所にボンネットバスが1両現役でいた。松永~西犬吠の専用、いすゞBXD30 福山く・・90で、ボンネットによく似合う塗装だった。いまも鞆鉄バスには、鞆の浦観光にボンネットバスが在籍するが、これは別物、この松永営業所も廃止された。

 

 昭和100年から 二分の一の時代に還ってみる  〈1〉」への1件のフィードバック

  1. 50年3月改正から半世紀。3月頃はあちこちのネットの投稿を期待して読んだのですが、期待はずれに終わり、総括するのが難しい話題だなと思います。
    新幹線の博多開業は、下関含め、門司と小倉にほぼ全列車停車だった北九州地区の命運が落日になり、あれから半世紀で完全に福岡市との立場が逆転し、衰退の前兆が始まった厳しい出来事でした。という個人的な感情は北九州市のファンクラブなどで話す程度。
    当時は中学3年から高校に上がる時期でした。
    乗り物の話題は今に通じますが、12年後に国鉄が終わるなんて。それも38年も昔のことになります。
    結局昭和50年代をどう生きたのか。最近よく考えるのは、その時代に大学に行けて、日本中の鉄道を乗りに行けたこととか、そちらの回顧もよく書きます。
    日本は豊かになれたのかというテーマも、その後の30年が衰退時期とか、結局は地方が思い切り切り捨てられて、そこに生き続ける人らは、諦め切った考え方になったこと。
    私ももう日本は地方創生は不可能に思いますし、個人も社会も目先の小さな幸福だけを手放さないように今を生きる。
    65年も生きてしまった自分としては15歳の頃は、こんな社会だったのだよと、平成生まれの息子に語る程度の毎日です。

    写真は50年1月の正月臨に投入された新車の485系非貫通車で、下関「あさかぜ」のすぐ前を、岡山に向けて「はと」の最終列車で出発して行きました。

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