北海道では石北本線常紋と並んで函館本線仁山はスイッチバックの名所であった。総本家青信号特派員さんの綿密な常紋の報告の最後にお前も仁山の報告をせよとのお達しがあった。仁山はこれまで鉄道ピクトリアルに掲載してもらったことがありさらに総本家さんの紹介で江上英樹さんという最近の最高傑作「スイッチバック大全」の著者にも同誌で仁山を紹介いただいた。従ってこれまでのデジ青を含めダブリの写真も多いが敢えて投稿させていただく。
仁山を簡単に説明すると函館本線は渡島大野(現在は新函館北斗と改称)から大沼(1964年までは軍川)にかけて20%の勾配が続き仁山越えの難所があった。仁山スイッチバックは戦前には旧仁山信号所の南北に引き込み線がある通常型であったが私の訪問した1966年には北側は撤去されて南側の引き込み線(加速線)のみが使われていた。その私の訪問時は狩勝旧線廃止の直前であったのでこれと同じ時期に仁山に行ったようだ。この時は函館本線のバイパスとして藤代線が使われることになり、仁山経由は函館方面に向かう上り線専用となって実施上スイッチバックは使われなくなる予定であった。
言い訳になるが当時の函館本線は長大列車が多く仁山の地形では重連の場合は工夫して何とかなったものだが後補機付きの場合の見通しが悪く後補機は煙だけというのが多かった。撮影は1966年9月12日でカラーは45年後の2011年6月25日である。
この日はD51710[五稜郭]は補機運用だった。D51710の前補機+Ⅾ52136本務機の下り重連貨物で本務機の白い煙で前補機D51710の姿が綺麗に写った例である。▼
俯瞰できるのはこの程度であるが、D52138+D52140の重量級の重連の下り貨物の到着で前後のカマの煙が一致しないがまあ我慢できる記録である。▼
スイッチバックして加速線に入った同列車。ここでの撮影は一粒で2度も3度も美味しいグリコのようなものだ。▼
加速線上のD5127。普通客車列車はD51の単独運転であった。函館11時15分発123列車小樽まわり札幌行きで札幌到着は20時57分であった。牽引機は倶知安機関区所属のナメクジD5127でクルクルパーが気になるがナメクジは一般にボイラ端面が丸く給水温め器が煙突の後ろにないので正面から見るとC61に似た風貌で好みであった。▼
東日本大震災の後の2011年6月25日45年ぶりに現地を訪問してみた。加速線(引き込み)線は草むらに埋もれて使われた様子はない。▼
本務機D51575[五稜郭]の下り貨物の後補機D51710[五稜郭]。本務機は少し見にくいが右にカーブした仁山駅にしさしかかるところである。▼
45年後の仁山駅の下り4833D森行きキハ40840+キハ40831。現地の人に訊いた話だが熊は出るとのことだった。クマに注意の看板はこの時には既に駅前に出ていた。▼
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夕刻16時前にはC6227[小樽築港]の106列車函館行き「ていね」が坂を下ってきた。食堂車にはマシ35が入っているはずである。この日の105列車小樽まわりの札幌行き「ていね」はC6230[小樽築港]+PC+D52201[五稜郭]で山陽路の「かもめ」のセノハチを彷彿させるものだった。後になって恐縮であるがD52は全て五稜郭機関区の所属である。▼
45年後の同じ坂を下る駅よりの上り線のDF200-110[鷲別]の貨物である。草が繁茂して同じ様なイメージがない。▼
以上ひと昔前の大型蒸機があえいでいた仁山のスイッチバック風景を45年後の同地点と比較してみたが次回は気動車を中心に出してみたいと思う。


準特急さま
待ってました。既に1966年に仁山を徘徊されていたのには頭が下がる想いです。小生は1年後輩ですが仁山訪問は8年後でした。それも狂化合宿時に小沼湖畔で撮った後で一人山を越えて峠下へ降り、藤代線で何本か撮影の後仁山駅から乗車しただけでした。その後2004年に末期のDD51(D51ではありません)を撮りに訪れましたが、仰るように開けた場所ではなかったため、写真のように前方からしか撮れずガッカリしたものです。なぜ仁山へ行ったのか不思議ですが、その時に見た駅舎の入り口にはまだ仁山「信号場」の看板が掛かっていました。
引込線が北側にもありましたか。現地を見る以前から南側の加速線は知っていましたが、最近は列車からでは線路わきの草でもう殆どわかりません。カラー写真のように駅側から見ればまだ痕跡がわかるのですね。
加速線といえば昔から時刻表で気になっていました。仁山→大沼間の所要時分が列車によって微妙に異なっていました。旅客か貨物か単機が補機付きかでも変わってくるのだろうくらいの認識でしたが、ある時の改正からそれまで9分だったDCレにほぼ30分かかる列車が現れ、はじめは誤植かと考えましたが、数度の改正を経ても変わらなかったので大いに疑問が付きました。答えは加速線に引き上げたのちに、約20分間数本の上りレを交換待ちしていたのでした。
総本家青信号特派員様
「雨あがりのスイッチバック」は始めて見ました。トライXの粒子の粗さの活用、機関車のとらえ方など見事ですね。
それを中3の目で見て良さを判断できるものも凄いです。ただ1日ボケーと撮っていた私とは違いますね。1900
準特急様
私の気ままな願いを叶えていただき、ありがとうございます。仁山の加速線のある独特のスイッチバック風景を楽しませてもらいました。準特急さんの仁山は、ピクや江上さんの著書で知っていますが、今まで未発表も多いのではと思います。ナメクシの牽く旅客は貴重ですね。江上さんに「スイッチバック大全」の写真選定の基準を聞いたことがあります。当たり前ですが、写真の中に高低差がうまく表現されていることだと言います。改めて準特急さんの写真には、スイッチバックらしい高低差が巧みに表現されていますね。
ここからは私の仁山ですが、鮮烈な印象を持ったのは、昭和39年のピクトリアルの写真コンクールでした。特選が仁山でD51、D52重連の交換を撮った「雨あがりのスイッチバック」でした。余分なものは一切切り捨てて蒸機だけに焦点を当て、重連次位は前部だけと言う徹底ぶりでした。今まで鉄道写真とは、編成全体を入れるものと思っていたのに衝撃の構図でした。しかもトライXの増感で、粒子が出た粗い画がいっそう迫力を出しています。ほかの入選作と較べると、特選も納得です。その時はまだ中学3年生、行く術もなく、仁山への憧れだけを胸にしまい込んだままでした。やっと北海道へ行けたのは、その4年後になりましたが、その時はすでに藤城線の開業後で、仁山で下車しようとすると、ずいぶん不便になり、蒸機の交換も無くなっていて、結局、仁山は車窓から見るだけに留まりました。私にとって、仁山は、その前になくなった狩勝(信)とともに、“あと3年早く生まれていたら”の口となりました。
総本家青信号特派員様
「雨あがりのスイッチバック」は始めて見ました。トライXの粒子の粗さの活用、機関車のとらえ方など見事ですね。
それを中3の目で見て良さを判断できるものも凄いです。ただ1日ボケーと撮っていた私とは違いますね。
総本家青信号特派員様
「雨あがりのスイッチバック」は始めて見ました。トライXの粒子の粗さの活用、機関車のとらえ方など見事ですね。
それを中3の目で見て良さを判断できるものも凄いです。ただ1日ボケーと撮っていた私とは違いますね。
コメントの順番を間違えてすみません。
1900生様
確かに仁山は藤城線が開通してからは面白い場所ではなくなったようですね。私が布原や常紋を敬遠したのはただ単純にD51の貨物列車中心に行く意欲がなかっただけです。今思えば一度は行っとくべきだったと思います。
準特急さま
なんやD51か、やめとこ、と私も同類でしたよ。餘部などちょっと無理をすれば行けたはずなのに、結局保津峡止まりでした。C58も申し訳がないカマでした。ぷるぷるさんに誘われて西村さんたちと奈良線を撮りに行ったくらいです。D51はのちに8㎜で加太ほかの関西線と山陰線の西部区間を撮っていますが、興味を持った芸備線と福塩線のC58はついぞ叶いませんでした。そのくせC56は九州山野線を除いてほかの線区、中でも信州各線へは足しげく通いました。小生のSLと模型の原点が非電化ローカル線で、C56とキハ07からスタートしましたから、大型機の開眼は相当遅くなりました。大型機に関しては私もあと数年早かったらの類です。
1900生様
人の好みはそれぞれでしてとやかく言うことはできませんが、1900生さんのC56好きは以前から存じ上げていました。先輩方には「小海線を愛する会」というグループを結成し、厳冬の現地でテントを張ってC56を待ち構えた猛者もいたくらいです
C58は日本の鉄道に最も合った機関車と聞いたことがありますが1067ミリゲージならあの程度の大きさで丁度いいのかも知れません。当時の蒸機ファンからは「C58はどこにでもいてあまり撮る気がしなかった」ということはよく聞きました。DRFC狂化合宿でC58の走っていた小浜線の若狭高浜や高山線の猪谷がありましたが行かれましたっけ。藤本さん達と行った宮津線等今思えば行ってよかったと思います。奈良線のC58なども探せばいい場所あったのに撮っておらずキハ17系含めて何をしてたのかと思います。D51もどこにでもいてC58と同じように後回しになった機関車です。しかし、D51は今になって思うに均整の取れた綺麗な機関車と思います。C62の限界一杯のあの大きさは太り過ぎに見えますがこれが特急や急行を引っ張って走り去る姿はD51の貨物よりも見ていて感激性があったのも事実です。本当はC62の平凡な写真<心を打つC58だと思います。
準特急さま
なかなか含蓄に富んだ解説を有難うございます。宮津や若狭高浜での合宿がありましたね。残念ながら私は参加しておりませんでした。信州のC56詣でで遠征資金を使い果たしていたのだろうと思います。根が凝り性なもので、後年特派員様に案内して戴いた上目名でC62に開眼したのですから、もっと早く大型機の魅力に目覚めるべきでした。
準特急さん、
私も仁山で撮っていました。
「まりも」の上下交換です。
米手作市様
「まりも」は「ニセコ」「ていね」の前の山線経由の客車急行で滝川からは根室本線で釧路まで運行されていました。食堂車は全区間連結、札幌-釧路間は夜行のため寝台車を連結した代表的な急行列車でした。恐れ入りますと共にこれだけの記録はコメントではなく是非単独投稿をお願いしたいと思います。
ありがたいお言葉、感涙にむせんでおります。
が、これはついでに撮った写真で、本命は、かつて撮り損なったマシ35を撮るための旅行でした。釧路まで行ったのに肝心のマシ35は検修庫の中、従って今だマシ35のマシな写真は撮っていません。