雑誌か何かで読んで、自分で見たくなって行ったのだと思いますが、平日の早朝に2本運転されていた奥羽本線八郎潟始発秋田行の通勤通学列車を、秋田から八郎潟まで回送するのに自力回送ではなく営業列車の後ろに連結して持って行った列車2本+αを紹介します。
2本の列車とは
①秋田(始発)5:20→6時前頃八郎潟着 弘前行1629レ・・・・・八郎潟6:45→7:24秋田2620DとなるDCを連結
②秋田(始発)6:15→6:55前後頃八郎潟着 大館行1631レ・・・・・八郎潟7:05→7:44秋田2622レとなるEL+PCを連結
①は、客車列車の後ろにDC2両が連結され、②は、2列車分の客車の前後にELが付いているという、おもしろい編成です。
1992年8月24日撮影、撮影場所は、大久保-羽後飯塚間です。
画像は撮影順です。変色がひどいのはご容赦ください。


↑ED75 755[秋]が牽く①の1629レです。PC3両全部オハフ50の後にキハ40が2両連結されています。1編成全車に乗務員扉がある点でも珍しい列車です。


↑EF81 114[敦]が牽く特急日本海1号4001レです。

↑特急鳥海2021レです。

↑秋田新幹線がまだない時代で、東能代発盛岡行特急たざわ4号3004Mです。

↑②の1631レです。最後尾のED75 752[秋]は尾燈が点いていて、2622レになった時に後パンタになるように上がっています。客車は合計11両です。
井原実さま
素晴らしく楽しい列車たちですね。5両全てが乗務員扉付きとは。かつては客車にDCがぶら下がるレがいくつかありました。現認したのは盛岡発沼宮内行の客車4両に大館行の花輪線DC3両が付いたレだけですが。
小生、1年後の’93年10月に同じ大久保~羽後飯塚間を訪れていますが、前年までこんな楽しいレがあったとは知りませんでした。主な狙いはやはり雑誌で知った50系客車の10両編成秋田行を撮るためでした。余談ですが山形行にも10連があったのでこの旅行で撮っています。大久保まで秋田から始発で行ったと記憶しますが、ご紹介の八郎潟分割折返しレはもうなくなっていたと思います。ウロ憶えですが、10連50系レは八郎潟始発だったはずで、恐らく秋田から回送されていたのではと思っています。当時は数時間居ただけでご紹介写真のブルトレのほか、定期運用が東北線盛岡~青森間のはつかりに数本だけになっていた583系による急行「津軽」(この時点で485系化されていたが、GWなどの繁忙期にははつかり増発用に回すため、津軽を置き換えていた)や、ED75やEF81更には五能線運用のキハ40も合わせて、東北地区を走っていた殆どの形式が撮れる価値あるポイントでした。
1900生さま
コメントをいただき恐れ入ります。
50系客車を撮られたのでしたらぜひ見せてください。
私は当時は秋田発下りの一番列車が1629レでしたので、秋田駅前のホテルで朝早くというより丑三ツ時に起きてタクシーで行きました。またどういうわけか2620Dも2622レも撮っていません。たぶん眠くて早く帰りたかったのかもしれません。
鉄P誌1992年4月号の特集が50系客車で、45頁の「秋田-大館間の1631レは秋田-八郎潟間では秋51+秋61+秋41の11両編成で、ローカル客車列車としては最大連結両数を誇っているが、後部の7両は回送で八郎潟で切離され、八郎潟から折返し秋田行き2622レとなる」を読んで行ったのではないかと思いますが、1629レのことはどうして知ったのか不明です。
井原実さま
小生はムービー派なのでビデオですが、50系客車は未だ編集できておりませんのでもう暫く時間を下さい。編集の暁には真っ先に観ていただきますので。50系客車と聞くと発車時のあの独特のガ~ンとくるショックを想い出します。列車でムチ打ちにならないかと心配したものでした。
ありがとうございます。お待ちしております。
1900生さん仰られる客車にぶら下がった気動車を撮っていました。時は1966年9月1日東北本線浅虫-野内間です。渡道する前日に浅虫温泉に泊まり当時残り少なくなっていたC60、C61を夢中で撮っていました。そんな中で1枚ぶら下がり気動車がありました。尻内(現八戸)7時57分発533列車青森行きで大畑(この駅は今は廃駅)6時47分発のキハ22を野辺地で533列車の後ろに連結して青森に10時49分に到着する列車です。折角のC6019[盛岡]牽引の客車列車に余計なものがひっついて興醒めだった記憶があります。
準特急さま
貴重な写真をお見せ戴き有難うございます。それにしても「興覚め」とはちょっと。SL+客車主体の写真であれば致し方ない捉え方だと理解はしますが、列車としてみれば非常にユニークでありかつ貴重な列車です。大湊線と青森間には検査のために2往復のDCレが設定されていて、そのうちの1本がこのぶら下がりでした。ふと気づいたのですが連結器はどうなっていたのでしょうかね。DC用の密連と客車の自連は連結出来たのでしょうか?双方をこの連結のために改造するなんてことは非現実的ですしあり得ないことだと思えます。長年この趣味をやっていて、今まで気が付かないとは我ながらいい加減なことです。
1900生様
興醒めは少し大袈裟ですね。客車列車のバリエーションの一つと見て貴重な写真と見ておきましょう。連結器迄頭に廻りませんでした。これは定期列車ですから毎日のことなのでそれなりの工夫がされていたと思います。1900生さんのお好きな北海道のキハ22はこの頃北東北にはあちこちに配属されていましたがそんなことはとっくに知ってたとお叱りを受けそうですね。
井原さんは客車、それもゲテモノの大家で回送列車にご執心でしたので的外れのコメントを失礼します。
準特急さま
まずお詫びを。大湊線と青森間の直通DCレは写真を撮られた昭和41当時には午前の青森行と午後の青森発の1往復に減っていました。訂正して不確かな情報をお伝えしたことをお詫び申し上げます。
キハ22の配置南限は山形でした。一時的に郡山配置もあったように思います。何故北東北に配置があったかですが、もちろん同地方にも必要性があったのでしょうが、本州向け一般車も多く配置されていたことからすると、寒地向車が必須条件ではなかったと思料します。将来北海道で寒地向車が必要になった場合に備え、配置の柔軟性を確保する観点からではなかったかと思います。
さすが準特急様
蒸機と60系で見事に統一された美しい編成ですから、余計なものがひっついて興醒めと感じられたのはわかりますが、素晴らしく貴重ですね。目の保養になりました。ありがとうございました。
井原実様
久し振りのご登場有難うございます。過分のお褒めをいただき恐縮です。
失礼ながら秋田での丑三つ時の格闘など貴兄の変人ぶりを垣間見た感じです。ここで客車の鬼と言われた米手作市さんがまだ出てこられないのが残念です。
お誘いありがとうございます。
しかし、客レにDCを連結したなどというものを見たことがないのでポカンとして見るだけです。
と、言ったものの何かないかと暑い中探し回って見つけたのがこれ。
糸崎行の各停に繋がった回送気動車らしいが、詳細は不明
米手作市様
この列車は、昭和40年代前半通学途上の大阪駅3番ホームでよく見かけました。車両の所属は天ナラとなっていて奈良運転所の気動車が担当の高砂工場に入場する時に配給回送される車両だったようです。連結器の強度の関係からいつも最後部に連結されていました。加古川で車両を切り離し、高砂線を工場のある高砂駅まで自走したのでしょうか。上りはどの列車に連結されていたか確認できていません。
快速つくばね様
ご存じの方がいたとは驚きです!
中学生の時代、午後はいつもこの辺りで列車を眺めていました。14時頃に出る糸崎行各停はよく利用しました。でも気動車が付いているのは知りませんでした。
ありがとうございます。
これで準特急氏に罵倒されずにすみます。
井原 実様、
貴重な写真をお見せいただき、ありがとうございます。
早朝に上りが必要ならば、前夜に営業の下りがあって、その滞泊後というのがパターンかと思うのですが、なかなかうまくいかないものですね。列車ダイヤの難しさを思い知らされます。
1900生様、
DCの小型密着自連とPCの自連は連結出来ます。但し、DCの小型密着自連は各車がエンジンを搭載している前提のため強度が小さいので、DCの後位に連結できる両数は限られてきます。また、ジャンパは異なりますし、MRPも不連結で、八郎潟ではBPを切るだけかと思います。1631レも同様で、4両目と5両目でMRPは不連結とし、最後尾のED75から供給しているのだと思います。
「全車に乗務員扉」の言葉が引っ掛かり、少し調べてみたのですが、四国では休日の129レ(タト~トヨ)と回129レ(トヨ~ノエ)の2列車がありました。けん引機がDE10なので、全部が車体側面とはいきませんが。写真はないので、運用表を添付いたしておきます。
コメントいただきありがとうございます。前夜に下りを運転しても需要があまり見込めなかったのでしょうか。とすると、早朝の下りでぶら下げて行った方が合理的ですね。八郎潟に乗務員用の宿泊施設も必要ありませんし。
1編成全車に乗務員扉がある場合を考えますと、一般型の気動車ならキロやキサハが入っていなければ、1編成全車に乗務員扉があることが多いですが、旧型客車のフにはもともと乗務員扉がありませんでした。電車でもたとえば流電には当初乗務員扉がなく、テンダー式蒸機でも密閉式でないものが多かったので、昔は1編成全車に乗務員扉が1つも無い列車が多くあったといえます。本稿の場合はPC3両が全部オハフ50で、DCが2両ともキハ40で、ELも含めて6両全部の側面両端に乗務員扉があるコンプリートな編成で珍しいと思います。四方さんご紹介の129レはDE10ですのでコンプリートといえないのがなんとも惜しいですね。DF50というわけにはいかないでしょうか。
井原 実様、
50系客車が高松運転所に配属された1982(昭和57)年1月時点では、DF50は既に客レから引退しておりました。DF50と50系客車の組み合わせは、松山気動車区持ちの四6仕業(7B)と1983(昭和58)年9月25日に運転された「さよならDF50土佐路」号(5B)のみですが、いずれも偶数目の車両がオハ50となり、該当しません。また、50系客車使用開始前までの間、列車乗務員の講習や疎開目的でDF50けん引の貨物列車に連結しており、一般貨車のない場合は、もしやとは思ったのですが、車掌車(この当時、四国では九分九厘ヨ8000でした)が連結されていますので、こちらも該当せず、結局DF50けん引分での「全車に乗務員扉」列車はなかったと思われます。
四6仕業の運用表を添付いたしておきます。
オハフがきれいに飛び飛びに入っていて、車掌はドア扱いが助かるでしょうね。
井原様、
普通気動車列車と同等に、全車に戸締めスイッチを付けさせたい組合と、新製費を少しでも抑え、輸送力を減らさずに減車させたい当局とのせめぎ合いの結果ですね。
井原 実様
難しいことは分かりませんが、どの写真を見ても、心が安らぐというか、懐かしさというか、そうそう、田園風景と列車という安定した情景にとても旅情を感じます。
気持が安定しますね。残暑の中一服の清涼剤を有り難うございました。
マルーン様
恐れ入ります。変退色が激しく申し訳ありません。
画面にゴチャゴチャ雑多なものが写っていないのは好きです。ついでに架線柱も無かったら良かったのにと思います。
井原 実 様
八郎潟のほんまに広い田んぼの中での面白い画像と記事、楽しく拝見しました。
雑多なものや架線柱のない八郎潟の画像を撮影してました。代わりに蠅たたきが並んでますがご辛抱ください。Y先輩のお供で狩勝峠へ向かう途中に八郎潟へ寄りました。カンジキを履いて小山に駆け登りひたすら列車を待っていました。1967年1月1日に凍える指でシャッターを押した一枚です。
大阪通信員様
これこれ。鉄道はこれでなければいけません。寿命が10年延びた気がします。ありがとうございました。