私の撮った国鉄ラストナンバー蒸機

昨年12月にフェースブックなるものに私が撮った蒸機のファーストナンバーを投稿したがこのジャンルは趣味の世界の先輩で当時愛知県立高校の先生であられた方がラストナンバーについても「SL末っ子物語」と題して鉄道ピクトリアルに報告されている。先生はわざわざ目的のナンバーを求めて撮影され報告されているので私の様に旅先で偶然出会った該当機の撮影とは真剣さが違うが私も二番煎じになるがラストナンバーをデジ青に投稿する。ファーストナンバーと比べラストナンバーはその時はわからず自宅で改めてその記録に気づくこともある。ご笑覧下され。

私の蒸機の撮影対象が1750ミリの動輪を持つ大型旅客機であったこともありラストナンバーも大型機が多い。まずC62は49号機がラストナンバーであるが1949(昭和24)年4月汽車会社大阪で製造番号2575ボイラーD52104で製造(改造)された。東海道・山陽型に対して東北・常磐型は後の北海道型とともに軸重軽減がなされている。その生涯は平機関区を中心とした常磐線であった。C6249は引退直前に装飾されて記念運行されたようであるが保存には至らなかった。廃車は1968(昭和43)年である。写真は1966(昭和41)年3月20日特急「ゆうづる」の約2時間後に同じく青森からやってくる食堂車付きの急行「第4十和田」で牽引機はC6249[平]であった。7時40分過ぎの通過で「ゆうづる」の時よりも陽も上って条件がよかったがうまくとらえられなかった。▼

もう一つのハドソン機のラストはC6133[鹿児島]で1949(昭和24)年3月日本車輛名古屋で製造番号1511ボイラーD511148で製造(改造)された。写真は1967(昭和42)年9月8日鹿児島本線水俣駅の八代発123ㇾ鹿児島行き牽引のC6133[鹿児島]である。九州に配属されたC61は12、13、14、31、32、33の6両でそのメンバーは最後まで変わることがなかった。主に鹿児島区にあって特急「はやぶさ」牽引は印象的であった。▼

C60はC59の従台車を2軸従台車に替えて軸重軽減化した機関車で戦前型のラストナンバー改造機はC6039[青森](奥羽本線で撮影済み)であるが戦後型改造機C60108[仙台]をトータルのラストナンバー機とみた。C60108は1946(昭和21)年10月製造番号2008のC59173を1961(昭和36)年3月に浜松工場で改造してできた。写真は1965(昭和40)年9月3日一ノ関で530ㇾ盛岡発郡山行き牽引のC60108[仙台]が14時14分に到着するところ。ホームは下校の学生で賑わっていた。▼

C59は最もスタイルのいい機関車と思っているが特に戦後製の大型船底テンダーを付けたスレンダーなスタイルが好きである。呉線に最後まで残った3両のC59が有名であったがその少し前山陽本線電化で下関区のC59やC62の一部が糸崎に転出しそのうち一両がC59のラストナンバーC59196であった。写真は1965(昭和40)年4月3日広島機関区で次の仕業を待つC59196[糸崎]である。同機は1947(昭和22)年製造番号2021で日立製作所で製造された。▼

C57のうち戦後製の4次型(190~201)はC59に雰囲気が似ていてファンも多かったが九州、北海道にそのほとんどが配置されていた。ラストナンバーC57201は小樽築港区にあって同区の他のC57と同様に根室本線釧路迄のロングランが有名であった。写真はそのラストナンバー201号で1966(昭和41)年9月7日の444ㇾ釧路発函館行きで日本三大車窓を堂々と通過して行くシーンである。感激で後補機新得区のD51の番号を控え忘れた。▼

もう一つ1969(昭和44)年3月17日石狩川峡谷の景勝の地神居古潭の322ㇾ稚内発小樽行きのC57201[旭川]で交換するのは下り貨物D5138[滝川]である。▼

C57201はその後この景勝地に9600、D51と共に保存されており2013(平成25)年7月2日に現地で撮影したがこの当時はデジ青で「保存蒸機とその現役時代」と称して各地の保存機を撮っておりその一環である。順番が後になってしまったがC57201は1947(昭和22)年9月三菱重工業三原で製造番号530で誕生し晩年の旭川を除き生涯殆んどを小樽築港区で過ごした。1968(昭和43)年9月に廃車、翌1969(昭和44)年11月に保存された。▼

C56のラストナンバー機C56160は1939(昭和14)年4月川崎車輛兵庫で製造番号2099で製造され戦前は津山、戦後は鹿児島、横浜、上諏訪、小海、飯山、七尾等を転々とし1972(昭和47)年梅小路にやってきた。その後は各地でイベント列車などでお呼びがあったようであり北びわこ号などでも活躍した。京都鉄道博物館でもスチーム号の代行運用に就くことが多かった。写真は2022(令和4)年11月13日のスチーム号のC56160[梅]であるが現役時代の写真はない。▼C55のラストは62号機で1937(昭和12)年10月汽車会社大阪で製造番号1462で誕生した。大鉄(大阪鉄道管理局)梅小路機関区で使用開始したが、その生涯も関西地区の福知山区に長い間在籍した。後に播但線に使用のため同じ福知山管内の豊岡機関区和田山支区に移り1966(昭和41)年2月同支区で廃車となった。写真は1962(昭和37)年12月16日豊岡駅に進入する城崎発播但線経由日曜運転の大阪行き3606ㇾ準急「ゆあみ」牽引のC5562[豐岡]である。▼

 

C型から貨物機D型に移る。

D52のラストナンバーは468号機で1946(昭和21)年2月に三菱重工三原で製造番号502で製造された。名古屋、沼津、吹田等電化前の東海道本線で活躍したが姫路1区で活躍していた1960(昭和35)年遠く北海道の五稜郭区に転属し以降1969年に廃車された。函館本線、室蘭本線で活躍したがなかなかこの機関車に出会うことがなく1969(昭和44)年9月19日迄待たねばならなかった。大沼で撮影した下り貨物の同機を横からの撮影である。ブローニー版のためかろうじて番号が読める。▼

D62はD52の軸重軽減機でわずか20両が改造された。D6220は1951年3月に三菱重工三原製のD52462をバークシャー(車輪配置1D2)化し稲沢区で東海道、山陽筋で活躍していたが1959(昭和34)年9月に郡山工場で正式に軸重軽減化して東北本線用として一ノ関に配置され1966(昭和44)年10月に廃車された。写真は1965(昭和40)年9月3日一ノ関の庫の前で整備されるD6220[一ノ関]である。▼

D60はキューロク使用の丙線あたりの活躍を期待して1951(昭和26)年から1956(昭和31)年にかけてD50から78両改造されたが皮肉にもキューロクの方が長生きをした。D6078は1956(昭和31)年3月浜松工場でD5067より改造された。写真は1966(昭和41】年3月21日郡山機関区でのラスト機パイプ煙突のD6078[郡山]で磐越東・西線で使用されていた。蒸気機関車がまだまだ使われていた時代の機関区の給炭・給水中の姿で広い郡山機関区も特に許可なしで入ることができた。▼

D61はニシン漁で有名だった留萌の機関区に6両のみいた国鉄最後の蒸機の新形式である。北海道の鉄道巡りでは1回は行っておかねばならないある意味では聖地であり私も1969(昭和44)年3月17日に列車乗り継ぎの合間に訪問した。D61は1959(昭和34)年から1961(昭和36)年にかけて国鉄浜松、郡山工場でD51を改造して丙線用機関車としてつくられた。留萌訪問時には生憎トップナンバーは出払っており、ラストナンバーもご覧の通りの位置で成果はなかった。総数6両では6分の1の当選確率であまり嬉しくもなかったが空振りではなかったのでラストナンバーの最後を締めくくりとした。▼

B20、C10、C11やC12等のタンク機関車、ハチロクやキューロクのラストナンバーは気にしていなかったし今でも何番がラストなのか頭にない。C51はファースト、ラストどころか機関車そのものをほとんど撮っていない。

残念なのは九州志布志にいた戦後製のC58427と最大両数を誇ったD51の最終ナンバーを撮っていないことである。

お付き合い有難うございました。

私の撮った国鉄ラストナンバー蒸機」への20件のフィードバック

  1. 時代的に本当に羨ましいカマ達と遭遇されていることが、憧れの一言です。
    C55のラストナンバーが余生30年弱で廃車されたこと。信じられない思いですが、昭和41年というとSL淘汰が一気に始まり配置転換ができなくて54や51と同時期に、57が余るくらいならで、九州や北海道にも転出先が無かったのでしょう。DL増産の時期でも無いのに。

    話は変わりますが福知山区で働いた機関車は豊岡・和田山を含めて悲運に泣いた機関車が多かったように思えます。
    投入区間の路線が難区間が多く、さらに少数機や使いにくいカマが集められて、テストに使われたことも多く。
    それは本省からは「新鋭機の晴れある柿落とし」とか言われて、局長もどさ回りの人事で来た人が多かったのか。
    それを思ったのは故中島忠夫さんのネガ中に、生野の事故で転落廃車になったC54の物言わぬ骸の写真を見出した時です。庫内で撮影されていました。
    現場の中心、福知山区は、非常に責任の重い区間を任され、一方、福知山と米子は戦前軍都であったから、輸送は省の発想より国の国命でノーが言えない任務も多かったのでは。他の民間需要との件数比較も含めて。

    生野のC54でも未明の逆行運転で臨時列車回送という、やりたくない仕事の途中で窒息事故が起きました。戦後でも組合があまり強く無かった職場かもしれません。
    DD54でもDF50でも含めて、いっぺん、福知山で苦闘した機関車達の顕彰と慰霊でもまとまった本が出ないかと思ったくらいです。
    尼崎の20年前の事故でも、山岳区間で無いのにまだこんなことが起きるのかと絶句したことを覚えています。
    余計な話をしてすみませんでした。また新しいご投稿をお待ちしています。

    • K.H.生様
      深夜・夜明け前の投稿有難うございます。
      私は高齢者で多くの病気持ちのためDRFC-OBの活動が鈍っておりますが、高齢者故に鉄道趣味の世界では強みとなる昔(と言っても大昔のことではなく佐竹さんや中島さんの頃のことです)の記録、記憶が若干残っておりそれを発表したまでです。
      福知山は明智光秀の城下町でありある種憧れの地でした。C51を始めC54、55、57というライトパシフィックの故郷(ふるさと)でもありました。大阪や京都の大都会では見られない古き懐かしき時代の国鉄を感じていました。
      国鉄や国の方針のことはよくわかりませんが福知山や米子などは本線系統とは別に扱い難い機関車の墓場だったのかもしれません。
      私の乗車した準急「ゆあみ」は本務機C5562の前にDF5064が前補機につき生野の峠を越えて行きました。C54もC51からC55、C57など近代蒸機に続く過度期の機関車と言えば聞こえはいいですが17両で終わったことは扱い難い機関車であったことは推察されます。しかし、こういう両数の少ない車両は得てしてファンの注目の的になるものです。私は福知山線でC5410の牽く列車に乗ったことがありますが、1964(昭和39)年3月にC54最終配属地の浜田区へ行ったことがあります。既に廃車された後のことで間に合いませんでした。
      日本三大車窓風景は何れも機関車1台では上れません。最近は地球温暖化の影響で大雨、洪水、強風、積雪などでよく列車が止まります。そういう場所は風光明媚な場所であることが多いこともわかってきました。それにしても不便な時代、アナログの世界が懐かしいです。

  2. 準特急様
    C61 33は、鹿児島機関区の主的な存在でした。鹿児島電化直前に熊本-鹿児島間を数回訪問しましたが、いつも元気な姿を見ることができました。写真は1968年3月28日の上伊集院駅です。車内は阪神・名古屋方面への集団就職をする生徒で満員でした。井沢八郎さんの「あゝ上野駅」の時代です。
    「福知山」の話が出ていますが、1959年ごろの国鉄の地方組織として新潟、中国、四国の3支社と札幌・旭川・釧路・青函・盛岡・秋田・仙台・水戸・東京・千葉・高崎・名古屋・静岡・長野・金沢・大阪・天王寺・福知山・岡山・米子・門司・熊本・鹿児島・大分の24の(船舶)鉄道管理局が設置されていました。規模の大きかった東京鉄道管理局はその後1969年に東京北、東京南、東京西の3局(東京3局)に分割されましたが、それぞれ特A、A、B、Cの4ランクに格付けされ、人事、設備、車両、運転計画の自由度などで差別化されていました。特Aランクは東京・大阪・門司の3局でしたが、確か天王寺や福知山はCランクだったと思います。そのあたりが試験的な車両の投入に影響しているのではないでしょうか。

    • 快速つくばね様
      いつもコメントをいただき、またC6133ラストナンバー機の写真を有難うございます。教えてもらうことばかりで恐縮しております。九州では門鉄デフを装備したC5711が特急「かもめ」専用機で10、65号が予備機であったように聞いたことがあります。常磐線の平ではC62の22と47号機が特急「ゆうづる」専用機であったように聞いたことがあります。鹿児島区のC61の特急「はやぶさ」は3回見ていますが門鉄デフの13と31、32でした。3回見たくらいでは何とも言えませんが特に「はやぶさ」専用機はなかったのではないでしょうか。
      当時の国鉄ではランク付けがあったことは間違いないと思います。因みに私の前職の某電鉄会社では国鉄や運輸省からのおえら方がおられましたが社長は九州のおえら方でその社長の葬儀の時は同僚であった元国鉄総裁が来られて私が案内したことがありました。また、常務で来られ後に傍系の百貨店の社長になられた方は元天王寺鉄道管理局長でした。天王寺や福知山はCランクとのことですがどうりで蒸機やオハ61などが私の好きな車両やゲテモノが多いと思いました。

  3. 準特急様
    C58 427は以前コメント欄に載せたことがありますのでお知らせいたします。機関車が小さくてすみません。

      • 伊原 実様
        本日井原様からは寒中見舞いを頂戴しました。有難うございます。機関車小さくても走行写真じゃないですか。立派なもんですよ。ケツから2番目の大分区時代のC58426は撮ってましたがC58は真剣には撮ってませんでした。。ゲテモノ、失礼レアな客車がお好きな井原さんにそれらしきものを探していますがノーマルな客車ばかりですみません。頑張って探してみます。

    • 井原 実様
      お名前を間違えてしまいました。お詫び申し上げます。お詫びにC58427ラスト機の前後賞として一つ前のC58426を用意しました。1963(昭和38)年3月28日大分発の416ㇾ牽いて熊本到着です。

  4. 準特急様
    またまたの遅れコメントで失礼します。ピクの「SL末っ子物語」、ありましたね。愛知県立高校の先生の記事を、私も改めて読み返しました。一号機関車は注目されているのに、ラストナンバーは注目されないのか、ラストナンバーこそ、製造終了に至った経緯もあって、むしろ重要であると説いておられました。
    私も改めて自分のラストナンバーを見返しました。最初はやはりC62 49です。尾久に配属されてから平へ転属し、一生、常磐線で働きました。関西在住者から見れば最も縁遠いC62の一両だったかもしれません。私も昭和42年8月、最初で最後の常磐線非電化区間の撮影で四ッ倉へ行きトンネルを飛び出す49号を撮りましたが、この一枚だけでした。常磐線蒸機の最終日には、急行「みちのく」を牽き、ラッパをデザインしたヘッドマークが印象的でした。ある本によると、この49号は使い勝手の悪いカマだったそうで、たしかに特急「ゆうづる」を牽く姿は発表されていないようで、「ゆうづる」専用機のような23号とは対照的でした。

  5. 総本家青信号特派員様
    すみません。コメントのコメントが大幅に遅れました。今日は、寒くて布団から出るのが10時頃でした。太陽は明るく日の出も早くなった今日この頃ですが、寒さは今が一番でしょう。水道も今冬初めて凍っていました。今日は東京半蔵門駅近くの日本カメラ館で広田尚敬さんの初期の作品であります草軽、九十九里、沼尻を見てきました。コメントが僅かですが時代を感じさせてくれる面白いコメントでした。
    さて、蒸機のファースト、ラストナンバーは順光で正面勝ちに撮るか、車両中心に撮るのが望ましいでしょうが、こんなことばかりやっているといい写真が撮れないのも事実です。私も同志社の学生でしたので東北、常磐よりは山陽、九州方面の方がよく行っていましたので常磐線のC6249は1回限りです。23号機が特急「ゆうづる」の専用機だったのかあるいは調子が良かったのか、検査時期の関係か、最後は糸崎に来て呉線を走っていました。見たことある私の写真と思いますが1968(昭和43)年3月31日須波-三原間で撮った常磐ガマのC6223の26ㇾ急行「安芸」東京行きです。

  6. 準特急様
    書店でも蒸機の写真を見かけることが少なくなりました。私の知る以前の時代の国鉄風景、訪れたことがなくても、とんでもなく懐かしさを覚えます。今はどんな駅風景になっているのか、ほとんどがかつての賑わいなくもの悲しくなるような光景でしょう。
    これからも国鉄の雰囲気を味わいたく、引き続き楽しみにしています。

    快速つくばね様の上伊集院駅風景、長編成の客車、いいですね。
    40年以上前の本ですが、手元の国鉄駅紹介本によりますと、上伊集院駅は、「もと饅頭石と呼ばれた駅で、桜島や開聞岳を見渡す景勝地」とあります。駅周辺から見えるのかどうか、途中下車してみたくなるような駅紹介です。景色を眺める機関助士、つかの間のホッとムードが感じられる光景です。
    私は、この写真の翌年3月、伊集院駅から薩摩松元駅方向へ途中まで歩いて撮ったC6133が唯一の出会った蒸機ラストナンバーです。

    • 高田幸男様
      駅にまつわる思い出話有難うございます。旅客用大型蒸機はよくナンバーを覚えているものです。ましてや自分の乘った牽引機や撮影したナンバーはなおさらです。ここらが若手の方々が蒸機に興味がない原因の一つかもしれません。快速つくばねさんは駅名の話題にも顔を出されるなど今や当会の常連です。今後は自主投稿をお願いできないものでしょうか。さて南九州の熊本以南は肥薩線経由であったり窓の開かない20系のはやぶさを利用したりして疎いものがありますが鹿児島交通が元気であった頃伊集院へ行ったことがあります。目的はC60、C61でした。最近は冬眠せず雪の中を走り回るクマの映像をよく見かけますが当会の加齢知識人も冬眠ばかりせずにたまには顔を出してほしいですね。

    • 高田幸男様
      準特急様
      コメントありがとうございます。「上伊集院駅は桜島や開聞岳を見渡す景勝地」であることは知りませんでした。鹿児島本線が電化・複線化される前に下り列車(EC・DC)の先頭に乗り前面風景を眺めていると広木信号場(現在の広木駅付近)を越えると車内から桜島が見えだし鹿児島に到着したことを実感できたことを思い出しました。
      午前中は鹿児島機関区を訪問し、このような写真を撮影していました。この機関区の区名札はナンバープレートと同じ材質の砲金製で作られ機関車に密着されていましたので、どこにも転籍しないぞと宣言しているようでした。

  7. 準特急様
    通りすがりの部外者です。最近は蒸機の写真を見る機会が随分少なくなりましたね。その点デジタル青信号では比較的よく見ることができ時々お邪魔して楽しませてもらってます。
    私はラストナンバーにはあまり縁がなくて、まともに撮れたのはC6133とD52468位で、D51、C58、C60は一つ手前の番号しか撮影できませんでした。C58426は鹿児島駅で出場試運転だったのか蒸機ダメのカバーが付いていませんでした。 ただ、日豊本線の国分付近で午前中撮影した後、隼人から急行「高千穂」に乗車田野に移動中、西都城の入駅中に発車待ちのC58を見つけましたが、それがC58427ラストナンバーでした。慌ててカメラを構えましたがキャブを撮影するのが精一杯でしたが、ちょうどタブレット授受の瞬間でした。手前に邪魔なワイヤーがあり、いい写真ではないですが貼り付けます。撮影は1971.6.1西都城です。

  8. 田中敏一様
    C58427の写真有難うございます。私は自分なりの感想を申し上げますが慌ててカメラを構えたとのことがキャブしか写っていないとのことでよくわかります。しかし、キャブだけでしたのでラストナンバーC58427が大きくよく見えますし、タブレットの交換がいい写真にしています。タブレット交換はタイミングもありますが当会にもその撮影の名人がおります。タブレットを受ける人が電線と重なったのは残念ですが気取っていない自然体のいい写真です。むしろ機関車の顔をとらえた平凡な写真よりもいいともいます。C58は日本全国どこにでもいてD51を小さくしたような姿が好みではありませんでした。その多数のC58の中ではこの写真に見られるような船底テンダーと台車を持った戦後製は好きでした。

  9. 遅ればせながら参加いたします。
    と、言っても、すでに手垢のついたものばかりで申し訳ありません。
    あまりナンバーに興味がなかったものですから手当たり次第に撮った中にあったものです。
    C57201

  10. C59196
    これは広島だったか下関だったかで撮りました。
    あまりいい写真ではないので準特急さんに叱られるかも・・

  11. 最後はC6133
    全検上がりのピカピカ
    修学旅行で鹿児島から熊本の途中の八代で特急待避です。

    • 米手作市様
      有難うございます。三つも撮っている人そう世間にはいません。古い人間には古い人間ならではのあんな話こんな話があるはずです。是非気張ってさすがと言われるようなデジ青ノーベル平和賞をとってください。

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