京都市電の移送完了

出張から帰ってきて、予約の歯医者へ行くため山陰線の高架下にさしかかったとき、金網にしがみついて写真を撮る不思議な男を見つけた。そこは永いこと下水工事をしていた旧山陰線線路跡で、現在は市電が7台保存された小屋がある。見たら、なんとトレーラーに乗せられた1600型と2000型が出発寸前ではないか!あわてて携帯を取りだしたが心許ない。
現場で撮影していたテッチャンに聞くと、新聞に竹田車庫へ移動して売店に改造するとでていたそうだ。以前報告した市電のたたき売りが始まったのだ。

すでに旧1型や500型、700型などは移動して、最後の二台だそうだ。ビューゲルは外されていたが、2000型の方向幕には、「ワンマンカー」「烏丸今出川」と往年の表示がくっきり。

以前、交通局へ乗り込んで、局長さんに直談判したときの話では、交通局に金がないばかりに建設局の予算で運搬他、全てを依存しているため、10年間は公園で売店勤め公開するしかない。しかし、シートなど部品は交通局がしっかり保存するので安心してくれ、とのことだったが10年後には立派に復旧してもらいたい。そのためにも交通局が黒字化してほしいと思った。

来春には梅小路公園内に電池式のN電と、ハンバーガーやポップコーンを売る700型や500型が並ぶでしょう。

市電移動

京都市電の移送完了」への2件のフィードバック

  1. 会長さん、ご苦労さん。私は西院東貝川町の今はない某大手ゼネコン資材置き場を仮置き場とし、元烏丸車庫から移送された保存車据付作業を、ゼネコン京都営業所の窓からしばらく眺めました。その時はいずれ安住先が出来るものだと期待しておりましたが、その後は皆さんご存知の通りとなりました。文化遺産と位置付ければ予算計上に方法が編み出されたのではないか、とも思うのですが、元お役人さんのご意見など拝聴いたしたく存じ上げる次第でございます。

  2. 公営交通に限らず、一般に鉄軌道が廃止された際、保存の意思で「とりあえず」車輌等を保管した例は多い。置き場があっての話だが、その時には熱心な人がいても、何年か経つ間に退職や転職で、そのうち昔のことを知る人がなくなり、何だこのガラクタは、となる。バスしか知らない人たちは、電車を残す意義さえ理解できないのである。事例は山ほどあり、例えば旭川工場ではホハ12000形式を、座席も綺麗に復元(正確とは言えなかったが)していたが、その内影も形もなくなった。吹田の教習所にあったC5343,65(奈良区六検入換機)、555(播丹鉄道再買収機)は、C53だけ復元し、あと2両はスクラップ。西大寺の梅鉢製単端式車やボギー客車、有蓋貨車等に関しては先述した。
    神戸市交通局も複数の市電を保管していたが、ハーバーランドに開店したレストランに売ったり。京阪とて、台車を外してもよくぞ「びわこ」を復元したものである。阪急は割合保存車が多い方であろう。
    かつて小海線が独自に近い管理形態の支所で運営されていた折、小生も戦前先輩が訪ね、撮影した竹筋コンクリート造りの野辺山駅写真等が掲載されている「鉄道趣味」誌を何冊か寄贈したことがある。資料収集にも熱心だった支所長が退職したら、すぐ棄てられてしまった。
    話は飛ぶが、JR分割で、各JRは自分のところしか関心がなくなった。大宮の鉄道博物館は、あくまでJR東日本の博物館で、愛知県を走った国鉄バスなんぞは引き取らなかった。JR東海は負けじとリニヤを看板に博物館を作ったし、JR西日本は梅小路に弁天町を併合(それはそれで正解だろうが)する。いいような、悪いような縄張り根性が露骨である。

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