50年前の撮影地を歩く -4-

東海道新幹線開業前日の山科大築堤

50年前の今日、昭和39年9月30日は、翌日に東海道新幹線の開業を控えた日だった。引き換えに、日中、東海道本線を走る特急・急行列車はほぼ全廃となった。すくすくと?鉄道少年の道を歩んでいた私は、当然のごとく最後の記録に向かった。この日は平日で、午後2時すぎに中学校から帰宅すると、カバンを掘り出し、ハーフサイズのカメラだけ持って、一目散に三条京阪へ掛けつけた。京津線御陵駅で降りて南へ行くと東海道線をくぐる。横に築堤へ登る道があって、14時50分には難なく築堤へ到達することができた。暗くなるまでの2、3時間撮影に臨んだのだった。
東海道本線には、151系12連ほかによる電車特急が東京~大阪間に9往復、153系12連の昼行の電車急行が同区間で6往復、計15往復のほか、東京~中京圏、大阪~中京圏の特急・準急も運転され、これに夜間となる山陽・九州方面行きの特急・急行も加わり、その運転頻度はまさに新幹線並みで、想像もできないほど多数の優等列車が上下していた。
下りつばめsy築堤に着いて、すぐに通過したのが東京発広島行「第一つばめ」(14:53通過)。東京9時発の伝統の特急だ。「つばめ」の151系電車化は、昭和35年6月改正からで、昭和37年6月からは電化が延伸した広島まで延長運転された。


上りつばめsy続いて上り線を通過したのが広島発東京行「第二つばめ」(15:07通過)。前記のように、電車特急「こだま」が走ってからも「つばめ」は客車で残った。「こだま」のほうが快適なはずなのに、頑なに「つばめ」に乗り続ける客もいたと言う。特急の格式・伝統がまだ生き続けていた時代だった。他の特急のサインは白地に墨文字だけだが、「つばめ」だけは上下に薄いグレー地が引かれており、「つばめ」の矜持を感じさせた。そんな151系「つばめ」だったが、わずか4年で消えてしまった。
六甲sy下り線を行く東京発大阪行「六甲」(15:20通過)。昼行特急は全廃されたが、急行は「せっつ」が消えただけで、ほかは新幹線開業後もそのまま残った。しかし、、改正のたびに減らされ、写真の「六甲」は、結局、1年後には廃止されてしまう。
ひびきsy大阪発東京行「ひびき」(15:57通過)。混雑する電車特急の救済として、日光線の座席指定準急で使っていた157系を転用して、東海道線臨時特急「ひびき」が走り始めたのは昭和34年9月で、昭和36月10月改正からは2往復になった。ほかのように愛称が「第一」「第二」ではなく、一本は不定期のため、「ひびき」「第二ひびき」だった。
第一富士sy宇野発東京行「第二富士」(16:07通過)が最後部にパーラーカーの大窓を見せて、上り線を通過して行く。結局、私は東海道線時代の電車特急に乗ることは叶わなかった。I原さんが、大枚はたいてパーラーカーに乗って東京へトンボ帰りしたのとは、大きな違いだった。
当日は曇りだったせいもあって、17時も過ぎると薄暗くなってきた。数人いた撮影者は、あらかた帰ってしまって、築堤上にいるのは、ほんの2、3人だった。つぎはいよいよ上り電車特急の最終となる「第二こだま」の通過だ。意気込んでカメラのフィルム巻上げようとすると、ン、動かない! 倍も撮れるはずのハーフサイズを持ってきたのに、なんと最後のコマを写し終わっていたのだった。もちろん、予備のフィルムなど持ってきていない。万事休す、節約して撮ったらと悔やんでも後の祭り。こうなったら、自分の目に焼き付けるしかない。
17時7分、夕闇のなかを3つのライトを輝かせて、東海道本線最後の電車特急がやってきた。赤とクリーム色の車体が流れて行く。後部を追うと、赤いテールライトが大カーブの向こうに遠ざかって行った。後部の運転室から身体を乗り出して撮影している人物も確認できた。
撮った写真はショボイものだが、東海道新幹線の開業前日、電車特急・急行が行き来する東海道本線最後の数時間を、天下の名勝、山科の大築堤上で見届けたのは、自分ではひそかに誇りに思っている。

 50年前の撮影地を歩く -4-」への4件のフィードバック

  1. 東海道在来線黄金時代最期の写真を拝見し、懐かしく思いました。ありがとうございました。最初の「つばめ」のクロ151のスカートは翌10月1日からの九州乗り入れ用にジャンパ栓の穴が開けられていますが、これはやはり無い方が美しいですね。話は脱線しますが、交通公社の国鉄監修時刻表昭和39年10月号62ページの下り1M「つばめ」は、門司までしか時刻が掲載されていません。まるで門司が終着のようです。(本文242ページには博多まで時刻が掲載されています)昔の時刻表はこんなミスがあっておもしろいです。
    クロ151に乗って神戸から東京へ行ったのがちょうど半世紀前です。これは旧掲示板【1478】Re:151系の思い出 クロ151の切符  に投稿しましたが、その時お世話になった運転車掌の新井実氏はお元気でしょうか。

  2. 井原さま
    コメント、ありがとうございます。さっそく旧掲示板を検索し、井原さんの50年前の思い出を読んでいました。神戸駅の1番ホームから「第一富士」のパーラーカーに乗り、車掌に親切にしてもらいながら東京へ着き、すぐ急行2等車に乗って戻られたという、すごい贅沢な冒険でしたね。
    時刻表のミスですが、誤植だけでなく、活字がひっくり返って印刷されるなど、活版印刷ならではの懐かしいミスもあり、それはそれで時代を語っているようです。

  3. 総本家様

     東海道本線が一番華やかなりし頃でしょうか!?
     北陸の田舎者にとってはあこがれのシーンの連続です。高校時代そのあこがれをこの目で見るため、友人と米原経由、醒ヶ井~近江長岡間で伊吹山をバックに、あこがれのシーンを撮ったものです。私もオリンパスペンで・・・
     「こだま」を撮ろうと思って、フィルムを使い切って無い。さぞかし残念な思いだったことでしょう!目に焼き付けたと書かれておられますが、目への焼き付けと、悔しさとのコンプレックス、これは一生ものですね。

     この稿とは違いますが、湖西線シリーズ有り難うございました。普段当たり前にサンダーバードで行き来することがありますが、湖西線のお陰で故郷が近くなりました。地元ではいろんな事が行われていたことを知り、感慨を新たにさせて頂きました。
     ただ、これから季節風が吹き出すと「安全第一」で湖東回りや運休になります。これは何とかならないものでしょうか?

  4. マルーンさま
    コメント、ありがとうございます。
    我々の世代、新幹線開業前の東海道本線には、人さまざまな思い出があるものですね。当時の先端の車両が走って、それが鉄道趣味を育んでくれたと思います。私も愛用したオリンパスペンですが、倍撮れるだけあって、フィルムサイズは半分となり、写真にすると仕上がりはイマイチですが、最近のデジタル化はホントに進化したと思います。最初の「つばめ」など、ハーフサイズとは思えない仕上がりでしょ?
    湖西線に関しては、その前身でもある江若も含めて、今後も発信を続けたいと思っています。もう少し先になりますが、西村雅幸さんとともに発表の場を持つことになりました。またご案内させていただきます。

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