阪神電鉄国道線(2)

 1945(昭和20)65日、B29から投下された焼夷弾が東神戸の街に雨霰の如く降りかかりました。小生の御年5歳前の、神戸の大空襲。当時日本の大都市の中で、神戸は最大の被害を受けました。近くの六甲山麓にあった高射砲は全く届かず、弧を描いて落ちるばかり(昼間は見えないが、夜間に見た大人の話)。

 神戸市灘区徳井町の我が家も全焼、自宅庭の防空壕を出て逃げました。見慣れた豆腐屋の中が真っ赤でした。途中石屋川かどうかわからないが、防空頭巾の上から消防団員に水をかけてもらい、母子3人(父はラバウルに応召)で逃げ延び、着いたのが御影公会堂でした。迎えに来た芦屋の祖母に連れられ、電線の垂れ下がった国道を徒歩で、同じく国道線の森市場まで行き、そこで暫く暮らしました。

 同じ日、同じ状況で御影公会堂に逃げ延びた主人公の話が、小説およびアニメ「火垂るの墓」です。小生より10歳年長の作者野坂昭如氏が、小生の近くにいたことになります。
 
 そんな話はとっくの昔。平和な時代になり、国道線を撮影したのがそれから16年後です。写真はその徳井からスタートして東に向かいます。

 開通時に設置された停留所の安全地帯は(前回の尼崎玉枝橋の写真を見て下さい)は、戦争中に軍により撤去されました。なんでも阪神国道がほぼ直線であった為に、いざという時飛行機の滑走路にするとか。けれど戦後も、停留所は復活されませんでした。写真のように道路上に、ただ白線で四角を描いたのみです。

 201201号。西向き、東神戸行き。1942年汽車製造・東京製。基本的な装備品やデザインは71形に同じですが、正面のデザインがやや平たくなりました。野田東神戸間の通し運転です。家並みの後方に六甲山が迫ります。
 
 当時の国道の詳しい記憶はありません。現代の国道を徳井から御影方面に進みます。
下の写真、右後方かすかに御影公会堂の先端が見えます。公会堂をバックにちゃんと電車を撮影するべきだったのに、目的が明確でなかった頃の撮影でして、今になって後悔頻りです。

 

 開通時のポールは、1949年Yゲルに付け替えられました。電車の神戸寄りに付けられています。

 

 201213209と共に戦後の1948年に製造。国道線最後の新造車となりました。野田側だけに連結器が付いています。連結器付の車両は数少なくなっていまして、今回紹介の中でもこの213207号車だけです。東向き、野田行きです。

 灘高前、甲南学園前を通り過ぎて、鳥居は三王神社です。阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、確かご家族の方が亡くなられたと記憶しています。

車両は、3190号。19291930年製造。製造時は3150号でしたが90号に改番されています。当初稼働していた2台電動機の1型(全部で50両)および51型(全部で16両)に代わり投入されました。4台の電動機を装備して長距離運転(わずか26kmですが)に備えたそうです。台車はボールドウィン64-20R、この台車は全形式共通です。
7177号。1937年合計10両製造されました。電動機4台装備、長さ14m近くの大型路面電車でした。側面の半分以上を窓が占めていて、車内が明るく、斬新なデザインは当時画期的だったと思われます。誰の命名か、金魚鉢というニックネームを貰っていました。平たいスマートなベンチレーター、ドアの開閉と連動するホールディング・ステップも装備していました。西向き。

 当時、神戸市の東端、東灘区。芦屋市との境界に近づいて来ました。

 

201214号は、戦時中の1943年汽車製造製です。東向き、野田行き。

 途中の芦屋市、西宮市の西部を飛越して、いきなり上甲子園に達しました。甲子園線との分岐点です。右の鉄柱に駅名票が見えます。赤の地色に白の駅名が描かれていました。

201203号は1942年、メーカーは上記に同じ、やはり戦時中製造です。野田-西宮間の区間運転車。

 カラー版の登場です。これまでの撮影時期から4年後、1968年撮影です。電車は後方の甲子園線へのポイントを通過、東に向かいます。

 武庫川の西側です。201204号が、武庫川の武庫大橋に向かい緩やかな傾斜を登ります。右手辺りに確か甲子園ホテル(阪神電鉄経営)がある筈です。

 204号の後ろ姿。右手に武庫大橋と、松の木が数本見えます。

 こちらは坂を下って西向き、東神戸行きの207号。先の213号同様連結器が付いています。右手松の木の前にある大看板は「阪神競馬場へ8km」の案内です。

 207号が丁度、大橋の中央付近を西に進みます。この頃はまだ車の通行が少なく橋は広々としていました。上の写真の1コマ前。撮影場所は行政区画上、西宮市。南側から北東方向を見ています。

東神戸行き206号。撮影は日曜日でして、やはり車が少なかった頃です。武庫川の両岸は共に(西宮市、尼崎市)松の木が沢山あり、これは半世紀後の今も変わっていません。撮影場所は行政区画上、尼崎市、北側から南西方向を見ています。

武庫川を渡り、さらに東に進み、東大島。車両は東向き、野田行きです。子供たちの頭のはるか上まで窓が拡がっています。いかに背の高い窓か、よく判ります。

 写真はここまでです。これから先の野田方面までは全く撮影していません。残念です。
下は国道線の未使用の軟券です。

次回は、甲子園線と71、74号車の保存(尼崎市の公園)写真です。
地図は、参考文献1「輸送奉仕の五十年」阪神電気鉄道株式会社より、引用しました。

阪神電鉄国道線(2)」への8件のフィードバック

  1. 1970年仕事で兵庫県警察尼崎西署(尼崎市浜田町)を訪れた帰り、西灘まで阪国に乗車した。殺人的な多忙真最中だったが、ほんの一時の息抜きでもあった。
    西灘(東神戸-西灘間は既に廃止済)までと告げると、車掌は一瞬たじろぎ?、やおら上着内ポケットから乗車券の束を取り出し、所用の券を探し出し、何やらつぶやきながらパンチを入れた。その券の束は長らく使ったことが無いのが丸分りで、角がすっかり丸くちびていたのが記憶に新しい。こんな長距離切符は久しく売ったことがないとの事で、殆んどの乗客はせいぜい3~4停留場ぐらい、2区乗車すら珍しいことが分った。
    それから西灘まで、時間のかかる事かかる事。流石に小生もイライラしたのは、確か1時間程を要したからである。野田―西灘間25.1km、時刻表には初発終発のみだが、79分とある。日中は2時間近くを要したのだろう。西灘に着くや否や、すぐタクシーを拾って三宮の職場に戻ったが、これが阪国乗車の最後であった。
    かつて神戸市電の花電車は、脇の浜でレールのつながっている阪国に芦屋(亘り線がある)まで乗り入れる習慣があった。神戸市東灘区は5か町村の敗戦後の合併で、合併地元条件のひとつに、三宮から東灘区東端(深江南森)まで、市電の直通をせよ、それが不能なら市バスの直通系統を設けよ、というのがあったから、せめて花電車ぐらいでお茶を濁していたと思われる。
    ついでに言えば、この5か町村は、芦屋市、神戸市のどっちに合併するかで結構もめたらしく、現実に電話局番が芦屋だったように、従前から芦屋とのつながりが深かったのである。

  2.  前回の国道線敷設の経緯はよくわかりました。それにしても武庫大橋のカラーは見事ですね。国道も幅があり武庫川が大河に見えます。自転車に乗ってここを通って海を見に行ったことがありますが、国道電車をカメラにおさめたことがありません。興味がなかったのでしょう。1975年5月の廃止ですので大学時代にも撮影チャンスはあったはずですが、話題に上ってこなかったのは残念です。それでも北大阪線の古いのと甲子園線の金魚鉢はかろうじて撮りました。

  3.  カラーの撮影が1968年の日曜日ですから、車が少なかったのです。平日は車の波に巻き込まれ、湯口先輩の乗車の話となったのでしょうね。それでも西灘-上甲子園間の廃止はその4年後、74年でした。廃止の前後は運転間隔50-60分で、もう都市交通機関の体を成していなかったようです。会社の営業欠損も大変なものだったようです。東西の連絡線大阪市電や、神戸市電の廃止に遅れること4-6年。上甲子園-野田間、甲子園線、北大阪線が、1975年とうとう廃止されました。

     準特急様、今回の投稿に使わず、準特急様用に写真を1枚取ってあります。

     読者の皆様、準特急さんが近く何やら発表されるようで、今その準備中だそうです。今回の記事内容と関連もあるようです。お楽しみに!。
      

  4. それは先日の生瀬~武田尾間の廃線跡等と関係がないこともないですがなかなか進まずに遅れています。何れにしましてもtsurukame様には大変御世話になります。

  5. Tsurukameさま
    先般は、私も集まりに加えていただき、ありがとうございました。その際にも、言っておりましたが、5歳の時の御影公会堂での体験談、たいへん感動しました。先輩の皆さんの貴重な体験談が聞けるのも、本掲示板の魅力だと思います。それにしても、国道線は、本当に魅力的な路面電車でした。40年たった今、やっと気づきました。

    • 家入さま
      遅くなりましたが動画を拝見しました。私も国道線の写真は多く撮りましたが、動画を見ることはほとんどなく、貴重な記録です。それにしても、よく揺れています。動画ならではです。金魚鉢に乗ると、吊革が揺れて、パイプに当たって“カッチャン、カッチャン”と鳴っていたことを思い出しました。

  6. Turukame様
    『最近のコメント』欄を見て遅ればせながらの投稿です。
    貴殿の記事が掲載されていた(2011年)のを見たつもりですが、当時多忙に追われていたためか写真に集中し、大変失礼ながら記事をないがしろにしてしまった気がします。
    改めて読ませて頂き、感激一入です。
    と言うのは、小生にも『国道電車』(当時住んでいた西大島、東大島界隈での我々の呼び名でした。)の記憶が鮮明で、『春日野道』に有った母方の親戚へは良く行き、その時は必ず母と共に『国道電車』に乗ったからです。
    改めて貴殿の記事に貼付の地図を見ると、『国道電車』に『春日野道』は無いようで、『東神戸』終点が該当する事を知りました。
    一度何処かでお話した小生の小学校1~2年生時の『国道電車一人旅』が又また思い出されました。
    湯口様も仰る通り、1時間にも及ぶ1人旅にイライラし、それを通り超えて『不安』だったのが『三つ子の魂』みたいに頭の中に残っております。
    印象的だったのは、路盤が悪い区間が多く有ったためか、車体の横揺れが激しい区間では吊り手が左右に大揺れしてカチャン、カチャンと窓ガラスを叩く事でした。
    何しろ金魚鉢の窓は、ほぼ幕板の無い側面を屋根部までベッタリと縦長のガラス張りでしたので、モロにガラスに当たっていたのだと思います。
    家入様がご紹介された動画も見て検証して見ましたが、残念ながら画面では揺れが余り大きく無く、ガラスにまでは当たっていませんが。
    もう一つ『独特な安全地帯』について、この記事を読んで長年の謎が初めて解けました。
    記憶では、電車の来るまで乗客は歩道に居て、電車の到着に合わせて白ペンキの枠内まで急ぎ掛け寄った気がします。
    子供心に、『何でこんな危ないんヤロゥ』と思ったものですが、交通量もそんなに多く無かった時代だったんですネ。
    そうそう、もう一つ『小生の記憶』ですが、金魚蜂の『異常に小さい連結器』は、夏の甲子園線での2連時に活躍し、連結器は2両連結の夫々片方の連結面にしか付いて無くて、2両の上り側と下り側の片側同士の連結器で繋いでいたと記憶しており、2両連結の運転士側と車掌側には連結器が無かったと思います。

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