松村聡明君

「別子銅山と掛けてなんと解く?」
「破れたパンツと解く」
「その心は?」
「時々、金が出る!」
BOXの昼下がり、大爆笑が響き渡りました。
これは普段は冗談など言ったことが無い、松村君の名作です。彼の下宿にパンツの満艦飾があったことで、準特急氏達に「パンツ松村!」などとからかわれたことを受けての一言でした。

今日帰ってくると喪中ハガキが来ていました。
差出人は彼の奥さま、驚いて文面を読むと、十一月八日に亡くなったと書いてありました。数年前の総会に九州から出席をしてくれたのが彼との別れでした。
九州男児らしく、言葉が少ない彼でしたが忘れられない友との別れです。合掌

松村聡明君(左)昭和40年5月23日 和歌山線五條客貨車区

松村聡明君(左)昭和40年5月23日
和歌山線五條客貨車区

松村聡明君」への4件のフィードバック

  1.  松村聡明さんご冥福をお祈りいたします。中陰で浄土への旅の途上ですね。折り目正しい真面目な九州男児で、卒業したらすぐ家業の米穀店を継がれました。その頃は、まだ米穀通帳は残ってたのでしょうか。
     田野城資料館では、喪中葉書が届いたら50年前の画像でもすぐ出るんですね。さすが客車の鬼と言われた田野城さんだけあって二重屋根の客車での松村氏の姿、良い供養になることでしょう。五条なので30系のオハかオハ二でしょうが、アンチクライマーが実にいいです。

  2. 松村聡明さんの訃報に接し、驚いております。松村さんは大阪通信員さんのご説明の通り米穀店を経営されており一度お伺いした時に冷えたプラッシィーをいただいた思い出があります。福岡県の最南端大牟田市南船津町という所がご自宅で熊本県の荒尾の方が近いともおっしゃっていました。高等学校が私の父と同じ熊本の濟々黌であったこともあり親近感を持ってお付き合いさせていただきました。特に九州在住ということは当時は蒸機撮影に格好の場所で、鹿児島本線のC59、C60、C61や日豊本縁のC57、C55、D50等を撮られており羨ましく思ったものです。松村さんの作品の一部は今も私は所持しております。落ち着いた雰囲気の中で時折ユーモアのある話し方をされていました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

  3. 松村先輩のご訃報に接し、驚いております。寂しいことです。
    先輩の穏やかで奥深いお人柄が偲ばれます。
    心よりご冥福をお祈り申し上げます。

  4. 車両はオハニ30天ワカです。五條に客貨車区が有ったかどうかは自信がありませんが・・・
    この日は松村君と初めての旅行でした。川畑君を誘い鳳機関区でED61 、EF52、ED16などを見て和歌山から和歌山線に入って五條へ行きました。和歌山、五條では旧型客車を中心に撮影して、夕方京都に帰りました。その時の思い出は今でも鮮やかで、実に楽しい旅行でした。和歌山線の沿線の駅売店では、実に珍しいものを売っていたからです。アサヒビシコーラ、ミツバサイダー、ミツケンサイダーなど、昨今の中国パクリメーカーも裸足で逃げていくような有様です。みんな地元の中小企業が勝手に作って駅で売っていたのでしょう。それらを見つけては三人で飲んで楽しんでいました。写真を撮らなかったのを悔やんでいます。

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