43年前の越美北線

ぶんしゅう殿の越前路の旅が連載され、なつかしく拝見しています。1973年(昭和48年)3月に越美北線を訪ねた際に追いかけたカマ28651が九頭竜湖に保存されていることを初めて知りました。以下は白山の山なみがまだ真っ白な3月15日の撮影です。

市波-小和清水間 足羽川鉄橋を行く 8153レ

市波-小和清水間 足羽川鉄橋を行く 8151レ

水害で橋が流され、長く不通となって廃線も話題になったのは確かこの橋だったように思いますが、ウロ覚えです。

牛ケ原-計石間 

牛ケ原-計石間

この場所はぶんしゅう殿と同じ地点だと思います。水田が畑になったりはしていますが43年前とあまり変わっていないように思えます。ただ出雲坂根もそうでしたが、山林の杉などの成長には40年の月日を感じます。

牛ケ原-計石間 8152レ

牛ケ原-計石間 8152レ

貨物扱いは越前大野までだったと思います。大野にはターンテーブルが無いため 勝原まで単機回送となり、転向後大野まで単機で戻るダイヤでした。

単8151レ

単8151レ

柿ケ島-勝原間の単8151レ

柿ケ島-勝原間の単8151レ

鉄橋が赤色だったかどうかは記憶にございません。

勝原で転向中の28651

勝原で転向中の28651

このターンテーブルの動力源ですが、人力ではなかったので多分蒸気動力だったのではないかと思いますが、今となっては確かめようがありません。

転向を終えて発車を待つ単8152レ

転向を終えて発車を待つ単8152レ

左手の側線に空のトラが留置されています。ただこの側線の分岐は乗り越しポイントで 何のためのトラなのか不明です。シャッターの降りた車庫内は保線車両か除雪車両が入っていたのでしょう。

実は4年前に白山を旅したときに、勝原から北に谷を分け入った鳩ケ湯温泉という秘湯に泊まったことがあります。その際に勝原駅に立ち寄り、ターンテーブルの跡地には建物が建ち、車庫がきれいになくなっていることを確認していました。九頭竜湖駅前に28651が保存されていることを知っていたなら この先までクルマを走らせて28651に会いに行ったのですが、惜しいことをしました。それにしても越美北線と南線がつながっていたとしても 三江線と同じような運命をたどっていたのかなとも思います。

43年前の越美北線」への5件のフィードバック

  1. 西村様

     故郷の福井を取り上げて頂き、有り難うございます。
     正直、全線乗ったことはありません。しかし幾つか思いがあります。
    ・子供心に越美北線と越美南線が繋がることで、名古屋と結ばれ、福井も発展するかという夢を感じたこと
    ・昭和43年福井国体が開催され、越美北線にお召しが走り、藤本さんのご指導の下に撮影に勤しんだこと(86だったか96だったか、非常に良い天気であった)再来年が福井国体、ということは45年前かぁ~
    ・福井の美山を中心とした豪雨で線路が相当破壊され、廃線の危機が訪れたが、行政の後押しがあり、見事復活したこと(その際、鉄道がないと高校生やお年寄り等交通弱者は代替バスでは時間がかかりすぎ、沿線住民には鉄道が不可欠であると言うことを十二分に感じた。復活の喜びと安堵感は如何だったろうか。)
    ぶんしゅうさんからの情報を楽しみに拝見していますが、お酒も山海の恵みも豊かです。おろしそばが美味い!また行って下さい。

  2. 西村様

    ご活動の様子、いつも拝見していますよ。昭和48年の越美北線の様子、じっくり見させていただきました。実は、写真に撮られた28651には、格別の思い出があります。マルーンさんも書かれているように、昭和43年の福井国体の時に越美北線にハチロク重連のお召が走りました。その次位機(お召重連の場合、先頭が本務、次位が補機となるようです)を務めたのが28651でした。本務は化粧煙突でしたが、28651はパイプ煙突で、いまいち魅力に欠けるところはあったのですが、お召を越前花堂のカーブで撮ろうとしていると、ご婦人が寄って来られ、主人が28651の機関士をしている、写真ができたらぜひ送ってほしいと頼まれました。後日、写真をお送りすると、その機関士の北さんから丁重なお礼状と記念品が届き、しばらく北さんとは、文通を続けて、お召運転の苦労話など聞かせてもらいました。もう45年も前のことですから、北さんはもう存命されていないかもしれませんが、28651が、ゆかりの地に保存されているとは初めて知りました。貴重な情報、ありがとうございます。
    なお、このお召撮影は、DRFCのメンバー4人で福井へと向かい、時間があったので、福井城を望む閑静な住宅街にあった、マルーンさんのご実家に厚かましくも上がり込み、お昼をご馳走になりました。あの時にいただいた、極上にぎり寿司の味が今でも忘れられません。

    • 総本家青信号特派員殿
      昭和43年ということは1回生の時のことですね。28651にそのような思い出があったとは知りませんでした。北さんとの交流の話は江若展に来られた老婦人の一件に通ずるものがあって、心が和みます。ありがとうございました。

  3. 勝原のターンテーブルの動力は,蒸気でした.1968年9月に58677の転向の様子を撮影していますが,空気圧縮機の消音器から勢いよく蒸気を吹き出して回転していました.8㎜でも記録してあったと思います.

    • 石井芳男様 コメントありがとうございます。ターンテーブルの動力は、やはり圧縮空気だったのですね。ご訪問が1968年とのことですが、その頃はまだダム建設用の貨車が勝原まで運転されていた頃ではないかと思います。貴重な写真のご提供、ありがとうございました。

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