佐竹保雄氏との長崎本線大草-喜々津


しばらく音沙汰なかった乙訓ご老人が、このデジタル青信号に現れるとすぐさま堰を切ったように、やたらと賑やかになるのは、かねて各方面から指摘されている通りである。すなわち投稿が途絶えるとは、即乙訓ご老人がサボっている証拠乃至は反動であるとご自覚ありたい。

乙訓ご老人が書き込まれたように、ネコ社「国鉄時代」22号特集「北九州の煙」に、先輩かつ畏友佐竹保雄氏の「昭和33年九州旅日記」が掲載され、九州内で小生と2回ランデブー?した旨の記述がある。小生は九州均一周遊券(大阪発着、通用16日、学割2,300円―一般だと4,100円)をフルに使って3月11日出発。山陽線電化臨試電、西大寺鉄道、倉敷市交通局、井笠、尾道、防石鉄道、宇部線を撮り、13日門司港から夜行に乗って4月1日まで九州におり、この間佐竹氏とはあらかじめ約束した日に落ち合った。お互い発見した廃客車の車体番号情報等を交換したと記憶する。

大阪からの均一周遊券通用日数は16日だから、3月26日で切れるではないかとのご指摘があろうが、ちょいとした秘法あるいは「忍法テクニック」?で、不思議にも1週間延長というマジックがある。ただし詳細は略す。当方は佐竹氏と違ってメモも碌にしておらず、記憶も定かではないが、3月23日は門司港で客車、関門随道西口で特急を撮っている。あさかぜ、かもめ共ヘッドマークがなかったのは、佐竹氏が書いておられる通り。


52年前の佐竹先輩 筆書きの国道関門トンネルの愛想ない県境表示個所で 1958.3.29

29日再び佐竹氏と落ち合い、国道関門トンネルを歩いて渡った。通行料は10円だったか20円か記憶になかったが、メモ魔佐竹氏の記述で20円と判明。エレベーターで下ると、反対側が開く。今では珍しくもなんともないが、当時エレベーターとは、必ず乗った口から降りるものと決まっていたから、初体験であった。これはバイクのためだと聞いて納得。

海底トンネルといっても、窓から海中のタコや魚、平家の残骸が見えるわけでもないから、別段面白くもなんともないのだが、県境の部分に張り紙がしてあったので、ここで彼氏を1枚撮る。フラッシュもなく、薄暗い中で10分1でシャッターを押したが、ネガはスッコ抜け同然でも、辛うじて写ってはいた。デジタル修正とは有難いものである。なお荷物はショルダーバッグのみだが、小生も寝袋を持たない時は同様で、このスタイルで27日間を過したのが最長である。


早岐での大村線快速

415レ逆行のC5170後補機 早岐 この時は天気が悪かったがその後快晴に

夜行(勿論普通411レ)を早岐で乗り捨て、快速気動車列車とダブルヘッダー列車を撮る。一旦長崎へ行き、旧佐世保鉄道買収のケコハ482の車体や特急「さちかぜ」のエンドマーク等を撮った。先回東小倉で6802が据付ボイラー代用になっているのをご覧頂いたが、ここではD50213と、格が大分上がる。それだけ給湯、給気範囲が広いのだろう。


長崎での据付ボイラー代用D50213

喜々津に戻り、大草間の海岸沿いで撮影するため歩いた。この駅間距離は7.2kmで、途中隧道が何本かあり、棚田は展開していても人家もロクにない。ともかくせっせと歩き、山を越えて目的の場所にたどり着いた時は2人ともヘトヘトだった。実は3月16日小生は本川内-長与間で列車写真を撮ったのだが、大草-喜々津間のほうがもっと素晴らしいことを発見し、佐竹氏を誘ったと記憶する。


D50牽引貨物 我々が立っている真下がトンネルである

上り特急「さちかぜ」

C5176牽引の324レ 右は大村湾

空気が極度に乾燥し白煙がまぶしかった

下り特急「さちかぜ」


C51250+C51

D51809牽引軽量貨物 左手が佐竹氏と必死こいで抜けたトンネル

その後1961年10月1日にほぼ中間に東園信号場が設置され、5年後には東園駅に昇格し、撮影のため歩く必要はほぼなくなったのだが、この場所を発見したのは小生であると「密かに」自負している。

佐竹保雄氏との長崎本線大草-喜々津」への2件のフィードバック

  1. C5176牽引324列車のこの写真(後の東園信号場を出た場所)レールファンかピクにこの後掲載されませんでしたか?それを見た小生は二年後に現地を訪れ喜々津から、最初の長いトンネルは通信線に沿って山を越え、おかげで道路から線路と海を見下ろすアングルを発見し、やはりへとへとになってこの場所にたどり着きました。

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