「心に響いた20選」見学・祝賀会レポート

8月6日、今夏の最高気温を記録した大阪は梅田、多くの人でにぎわう、華やかなグランフロント大阪、その一角で、周囲とはおそよ不似合いな、風采の上がらない地味~な老人集団が異彩を放っていました。その数20人、平均年齢は優に70歳を越していると思われますが、周りからの奇異な目線にも構わず、馴れ馴れしく大声で世間話をはじめ、やがて謎の集団は階下へと降りて行きます。そこには、写真の展示コーナーがあり、目的の1枚を見つけると、“ホンマかいなぁー”“すごい!”“賞品はなんや?”などの歓声が次つぎに上がります。

老人集団の見つめる先には?


横の看板を見て気が付きました。富士フィルム主催50000人の写真展「鉄道のある風景 心に響いた20選」、そう、わがクローバー会会員の米手作市さんが出展された作品『窓』が、超多数の応募のなか、難関をくぐり抜けて、著名な鉄道カメラマンが選んだ20選に入賞したのでした。
デジ青の米手さん本人の手記にありますように、45年も前の写真が、見事に入賞を果たしたのです。敢えて古い古い写真で勝負を賭けられた米手さんの思いは、デジ青で実践されている“こんなモン”シリーズの延長線上にあると思っています。写真は撮っておくものですなぁ~、最近の私の思いを見事に実践され、クローバー会に金字塔を打ち立てられた米手さんには感謝申し上げます。写真から感じられる心地いいユーモアセンス、マネしようとしてマネのできない、まさに“米手ワールド”だ。

その後、暑気払いを兼ねた祝賀会に移り、その中で大阪通信員さんから記念品の授与というハプニングがありました。渡された商品はなんと「オロナイン軟膏3個!」、老人集団にしか理解できない、大阪通信員さんならではの古典ギャグセンスに、拍手と笑顔が会場を包みました。参考ながら、今を去る8年前、湯口徹さんが島秀雄賞を受賞された際の祝賀会でもオロナイン軟膏3個が授与され、湯口さんは、小学校の皆勤賞以来の表彰・記念品を、いたく喜ばれたのでありました。 なお、この「鉄道のある風景部門」は、3大鉄道博物館(大宮は開催済み、名古屋8/19~27、京都10/28~11/5)を巡回するほか、20選のみは広島、札幌、福岡などのサテライト会場でも見ることができます。

 

 「心に響いた20選」見学・祝賀会レポート」への13件のフィードバック

  1. 青信号特派員様、
    ありがとうございます。
    しかし、今回の入賞は、昨年の特派員さんの入賞がなければ話題にもなっていないと思います。
    二年続いたことが珍しかったのではないでしょうか。
    ところで帰ってから家内と娘の会話がおもしろかったので記します。
    家内「今でもオロナインのチューブ入りってあるんやね!」
    娘「オロナインてなんの薬?で、なんで三本が賞品なの?」
    時代ですね~
    私は「素人名人会と言うのがあって、審査員の大久保怜という人が、ナンジャカンジャ」と説明しました。

    • 米手作市様
      8月6日の皆様の笑顔あふれる様子から梅田のにぎやかな輪の中に入りたかったと思っております。米手様の逸品は広島で拝見するつもりにしております。ところでオロナインや大久保玲で盛り上がっておりますが、大久保玲氏は大久保彦左衛門の子孫であり、戦時中の昭和17年の同志社大学法学部卒の我々の大先輩だそうです。いろんなところでつながっていますね。

      • 西村様、
        たしかに同志社法学部の先輩でした。言われて思い出しました。でも大久保利通の子孫だとは知りませんでした。
        広島で見てご批評下さい。

  2. 超激戦を勝ち抜かれて入賞された米手作市さんに東国の地よりお祝い申し上げます。早速前年度入賞者総本家さんより祝勝会の様子を報告していただきました。多くの人生経験豊富な、裏を返せば高齢者集団が猛暑をものともせずお集まりで盛会であった様ですね。これも誰もが認める米手さんのお人柄だと思います。ご本人はいつも謙遜されていますが、最近の次から次へと出てくるお宝写真は凄いものだといつも感心しております。今後のさらなるご活躍を期待しております。
    脱線しますが、大久保玲なんて名前は久しぶりに聞きましたが、背の高そうな少し細身の人だったと思います。「この人にオロナイン軟膏三つあげてください」とか言っていたのはダイラケか西条凡児あたりではなかったでしょうか。

    • 準特急様、
      お会い出来るか、と楽しみにしておりました。またお出での節にはご連絡下さい。待ってます。

      • 米手作市様
        次は次はと言いながら申し訳ございません。710の特急や帆付き時代のP-6など客車や蒸機以外にもお宝がおありのようで楽しみにしております。

  3. ダイマル・ラケットの漫才コンビです。街頭で集まってきた人たちと掛け合って、何かしゃべるとオロナイン軟膏を1個呉れるのですが、その受け応えが面白いと2個になり、最高!とダイラケのどっちかが判断すると、「この方にオロナイン軟膏三つ挙げて下さい!」とやるのがウリでした。今から見ればケチな商品ですが、当時では結構ウケていました。

    • ダイラケでしたか!私は素人名人会の司会者・西条凡児だったとばかり思っていました。娘にお詫びして訂正しときます。
      と言うことは素人名人会でもなかったのでしょうか?そうなら家内にもお詫びして訂正しなければなりません!また家での地位が下がります。

  4. 湯口 徹様
    有難うございます。湯口さんから内燃の話ではなくダイラケの話をお聞かせいただくとは思ってもいませんでした。当時のダイラケの仕種が目に浮かぶ様です。ダイラケコンビは私は漫才界では一番好きでした。「スチャラカ社員」にレギュラー出演していましたし、ラケットが「アオゲがバー、ボヤがビー」と言うとドロドロドロという太鼓の音に合わせてダイマルのお化けが出てきてタイミングが合わず「まだ早い」とラケットに怒られるシーンも思い出します。ダイラケよりももう少し古いところでは阪急電車提供(多分阪急と思います)「漫才学校」もラジオでよく聞いていました。校長がミヤコ蝶々、小使い南都雄二、生徒に秋田A助、B助、笑福亭松之助、夢二いとし、喜味こいし等々が出ていたと思います。この時代は阪神間にはまだ大型蒸機が走り、阪神や阪急宝塚線は小型車天国であったのですが、お笑い番組やプロ野球が好きでしたので鉄道写真を撮るにはもう少し時間がかかった様です。

    • 調べてみたら昭和29年から31年まで朝日放送ラジオでやってたそうですね。なんでも小林一三の企画だったとか。
      「阪急電車提供、漫才学校!」との声でスタートして、カラーンカラーン「出席をとります。中田ダイマル君、秋田Aスケ君・・・男前のゆうさん」で始まる楽しい番組でした。ハガキで応募して宝塚歌劇の入場券をもらったことも思い出です。湯口先輩、楽しいことを思い出させて下さり感謝!

  5. 素人名人会やダイマル・ラケットやオロナイン軟膏で何やら盛り上がっていますね。私も素人名人会を日曜日に家族みんなで見ていました。司会は西条凡児でした。ところが何やら不祥事を起こして司会者がやす・きよに変わったのですがしばらくしてきよしさんだけが司会をしていました。審査員に大久保礼さん、印象に残っているのが「えべっさん」のようなにこやかな林家染丸さん(三代目です)ただ、この時の景品としてオロナイン軟膏はなかった気がするのです。景品はスポンサーをしていたインスタントラーメンメーカーの製品があったような気がするのです。それがどのような会社であったかわかりません。オロナイン軟膏三つの景品は湯口先輩がコメントされているようにダイ・ラケが街頭での別の番組のようです。幽霊の漫才は「青光がパァ~ボヤがポォ~」と言っていたと・・・

  6. 「ぼくは幽霊」という漫才です。作はこの頃なら秋田實か中田明成でしょう。今でもyoutubeで見られるのですね!さすがダイラケ

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