「雷鳥」を送る

このたびの震災で被災されました皆様に心からお見舞い申し上げ、投稿を再開させていただきます。

3月12日から九州新幹線の開業などに伴うJRのダイヤ改正が実施されました。関西でもかなりの変動があり、改正前日は最後となる列車の撮影に追われていました。なかでも、雷鳥」がついに消えることになり、昭和39年のデビュー以来、永年親しんだ愛称についに別れることになりました。

3月11日夕方、最終の金沢行き「雷鳥33号」を、私は京都駅0番ホームで迎えました。思い返せば、昭和39年12月25日、「雷鳥」運転開始のその日も、中学校3年生の私は、同じく京都駅1番ホーム(当時)で「雷鳥」を迎えたのでした。大阪駅で発車式があり、そのテープをボンネットに巻いたまま、京都駅に到着しました。ホーム端ギリギリに停車したため、いい写真を撮るために、事もあろうか、線路に降りて編成を写しました。少年が取った大胆な行動もまだ許された時代でした。撮影者もほんの2、3人だったと記憶しています。

ところが後日、悲惨な結末が訪れます。フィルムが入ったままのカメラが、電車の中で置き引きに遭ってしまったのです。そのフィルムには、梅小路のC51も写っており、返す返すも残念な出来事となりました。

その後に発売された「鉄道ピクトリアル」に、その日の同列車を、虎姫~河毛間でとらえたカラー口絵が載っているではありませんか。なんと、その撮影者が山科の人間国宝だったのです。その並外れた行動力には、改めて脱帽した次第です。 

最後の金沢行き「雷鳥33号」は、A1編成と呼ばれる、クハ481-323を先頭にした9両編成だった。多くの鉄男・鉄子の待ち受ける中、懐かしい国鉄色を夕陽に輝かせて入線してきた。京都駅から乗り込む乗客も多い。昭和39年、初日の「雷鳥」を写したのも、最終「雷鳥」を写したのも同じ京都駅のこのホームだった。鉄道趣味に捧げた47年の歳月の長さを思い返せずにはいられなかった。 

上記のように初日の写真は幻となってしまったが、その後、デビューまもない「雷鳥」を山科の大築堤でとらえた。481系は、大阪~富山間の「雷鳥」、名古屋~富山間の「しらさぎ」各1往復、スカートが赤のままで、交直車を示すヒゲも入れられていない元祖481系の姿。この時代はごく僅かで、のちに山陽本線へ481系が進出する際に、直流181系との識別のため、ヒゲが入れられる。 

その後、雪の北陸本線田村付近で珍しいカラーも写していた。スカートには60Hzを示すクリーム帯が入り、ヒゲも入れられている。同じシーンでモノクロで撮ったものを、「鉄道ピクトリアル」の写真コンクールに初めて応募したところ、佳作に入選したのも、今では懐かしい思い出だ。嬉しくて、掲載誌を高校でみんなに見せて回った。そのため、この号だけが今もボロボロの状態で在る。 

最終日の3月11日には、唯一残る489系ボンネット編成による修学旅行の集約臨が昼間に走った。最近は臨時で走ったとしても、前部愛称板が蛍光灯剥き出しのままで、サマにならないこと甚だしいが、今回は「臨時」がちゃんと入れられていた。何気に、京都駅2番ホームから、0番ホームへの入線をとらえたが、ほぼ同じ位置から、初期の「雷鳥」を撮っていたことが判った。京都駅は新駅舎建設の際、2本あった通過線を1本にして、1番ホームを張り出し拡幅し、同時に線路番線と一致させるため、1番ホームを0番ホームに改称している。京都駅の変わりようには驚かざるを得ないが、電車のスタイルはほとんど変わっていないことにも改めて再認識させられる。

 

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