宇品、広島追加補充 投稿日時: 2018年5月6日 投稿者: 準特急 総本家青信号特派員さんの大好評駅撮り広島編に追加したものです。他人のふんどしで相撲をとっているようで申し訳ない。 1966年11月28日 広発宇品行き927列車がバック運転のD51518[広島]牽引で終着宇品に到着するところ。▼ 同じく宇品駅で発車待ちの広島行き534D キハ04106+キハ04104 ▼ 大きな駅を堂々と通過していく貨物列車で昔はあちこちでこのような光景が見られたが、機関車がD52であると尚更その感が強い。1964年4月3日 広島駅 D52373[広島]▼ この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 関連記事がありません。
井原 実様 お久しぶりです。日本一であるならホームであろうとなかろうとそこそこ頭の中にあるものですがそういう意識が全くなく申し訳ありません。逆にD51の左に見える山が気になったくらいです。ところで井原さんと言えばオンボロ客車(失礼!)の大家と聞いておりますが、この日はメモによりますと珍しくロングシートのオハ636の車内や、スハフ3223中コリ、スハフ329中ヒロ、オハ55129岡オカ、オハ41304中ヒロ、マニ3115名ナコ等を朝の逆光線の中で撮っていたようです。 返信 ↓
井原 実様 日本一長いホームで検索すると京都駅0番線558mと出てきました。そういえば山陰線の方から東海道線上りまでホームが長く続いていたような記憶があります。宇品のそれは当時は日本一だったのでしょうか。 返信 ↓
準特急さま 井原さま 小生も「日本一長いホームと読んですぐに京都駅1番ホーム」を思い出しました。しかし宇品のホームが563mで5m長いとなると、こちらが日本一ということになりますね。京都駅の場合、お召し列車が発着するからだと読んだ記憶がありますが、何故お召が発着するから長いのかは未だに分かりませんが。 さて左手の山ですが、小生は広電の宇品へは何度も行きましたが、旧国鉄駅に足を運んだことは一度もありません。地理院地図を見ただけの知識で申し訳ないのですが、推測では宇品線の東部に位置する標高約200mの「黄金山」ではないかと思います。 ただ条件がありまして、宇品線の線形が現在の広電同様海岸に到達してから西に曲がり、従って宇品駅の線路は東西に走っていたのでなければこの推測は成り立ちません。準特急さまのご記憶はいかがだったでしょうか。 旧宇品線の西部には山が無く、現在は住宅地になっています。まさかこれほどの山が切り崩されて宅地化されたとも思えませんし、山との距離感からしても先のように推測したものです。 返信 ↓
井原 実様、1900生様 勉強になりました。京都駅のお召用ホームはその使用方法を知りたいところですね。宇品は軍用であったかもしれませんがこれも何故600m近いホームが必要であったか知りたいです。宇品駅左手(多分西方)の山は引き延ばして始めてわかったのですが山容から備後富士(そういう山があるのかどうかわかりませんが)と思いましたがたったの200mなら阪神間のシンボル甲山(309m)より小さいですね。 返信 ↓
貴重な宇品駅での記録、またまた楽しませてもらいました。構内がこんなに広かったのですね。広発宇品行きの写真もありましたが、これも、客車の昼間留置を兼ねて、わざわざ広島で逆向となって宇品に向かったのでしょうか。改めて、私もネガを探しますと、唯一の走行写真がありました。呉線の列車の窓から、広島発車直後に撮ったものです。本線と宇品線が分かれるあたりですから、ちょうとマツダスタジアムの裏当たりになると思います。キハ104でした。 返信 ↓
総本家青信号特派員様 総本家さんのネタで古い写真を出させてもらっておりますが、皆さんから逆にいろいろなことを教えていただき大変参考になり嬉しく思っております。蒔く種がいいと成長も早いようですね。キハ04の現広島球場付近走行写真で思い出しましたが、野球の談議で大和がいなくなっても影響がないという趣旨の話をされましたが、阪神からDeNAに行って大和は大活躍ですね。大谷は予想以上に4拍子(投打走顏)揃った選手です。デジ青でさらにご活躍下さい。 返信 ↓
宇品駅のなが~いプラットフォームに関して うろ覚えで申し訳ないが、子供の頃に叔父から聞いたことがある。 「日清戦争の頃、宇品が広島港で、兵隊や輜重物資がここから大陸へ送られた」 明治27年から日清戦争だが、この年に山陽線が広島まで開通し、大本営も開戦に備えて広島に造られた。だから長大なホームがあったのではないだろうか? でも一つ腑に落ちないことがある。 軍歌に「道は六百八十里」というのがある。これは日清戦争で出征する兵隊のために作られた歌だが、これにこう続く。「長門の浦を船出して・・・」宇品なら「長門の浦・・」とは読まないだろうと思うのだが。湯口先輩や西村さんならご存じかもしれない。 返信 ↓
米手作市様 「道は六百八十里」について私に振られましても、平成生れの私にはさすがに荷が重いです。宇品を出港した兵員輸送船が瀬戸内海を西進し、関門海峡を通過して東シナ海を朝鮮半島や大陸に向かったのでしょうが、関門海峡を通過した際のことをもって帝国の「長門の浦から船出」としたのではないでしょうか。山陽鉄道が糸崎から広島を延伸した際に、わざわざ急こう配のセノハチルートを選んだのも、日清戦争の兵員輸送を最優先にして最短ルートにしたためです。120年を経た現在でも毎日補機が活躍しているのは、日清戦争のおかげです。広島開通と同時に宇品までの路線も建設され、宇品から兵員と物資が大陸に送られました。東京と広島が鉄道でつながるのを待って広島城内に大本営が置かれ、明治天皇の広島生活が始まりました。広電本社前の次の電停「御幸橋」は天皇が宇品に向かわれる際に渡られた橋であることの証しです。一方 海田市・呉間が開業するのは明治36年と宇品より10年もあとのことです。 返信 ↓
西村雅幸翁 さすが乙訓の長老、須磨の大老と並び称されるだけあって、広島で唯一開かれた帝国議会をご覧になった方は違う! 関門海峡を通過して日本海へ出た時を詠んだ、とどこかで読んだことを思い出しました! ところで私は戦後生まれです。念のため。 返信 ↓
米手作市 有難うございます。デジ青も教養番組のような感じになってきました。宇品港=広島港ですね。宇品も重要な軍事基地であったのでしょう。呉は軍港で戦時中の呉線は外を見ないように窓を閉めさせられて走ったそうですが、呉と宇品はどういう関係にあったのでしょうか。戦争のことは疎いのですが、呉は海軍で宇品は陸軍か空軍の関係であったのでしょうか。 返信 ↓
西村翁が証言されている通り、広島は、鎮台に「大本営」が置かれていた軍事上の首都です。明治天皇もしばらくの間広島に行幸され、指揮を執っておられたのです。呉は少し後の日露戦争頃から本格的に整備された海軍の鎮守府が置かれたところです。 因みに、旧軍には、海軍と陸軍があり、空軍はありませんでした。有ったのは「陸軍航空隊」と「海軍航空隊」です。 と、おじいちゃんから聞いたような気がします。 返信 ↓
西村様 長船さんは、新著「宇品線の軌跡」をRMライブラリーから出されたようですね。私はまだ見ていませんが、写真など、あるのでしょうか。 また先ごろお亡くなりになった和久田康雄さんも、以前のピク誌に「宇品線の思い出」を寄稿されていました。和久田さんは、一時、広島にも勤務されていたそうです。 返信 ↓
最初の927列車の写真の手前に写っているホームが、宇品名物の日本一長いホームですか。
井原 実様
お久しぶりです。日本一であるならホームであろうとなかろうとそこそこ頭の中にあるものですがそういう意識が全くなく申し訳ありません。逆にD51の左に見える山が気になったくらいです。ところで井原さんと言えばオンボロ客車(失礼!)の大家と聞いておりますが、この日はメモによりますと珍しくロングシートのオハ636の車内や、スハフ3223中コリ、スハフ329中ヒロ、オハ55129岡オカ、オハ41304中ヒロ、マニ3115名ナコ等を朝の逆光線の中で撮っていたようです。
一癖ある客車ばかりで涎が出ます。
たしかに、電柱が邪魔ですが気になる山ですね。名称は何でしょう。
井原 実様
日本一長いホームで検索すると京都駅0番線558mと出てきました。そういえば山陰線の方から東海道線上りまでホームが長く続いていたような記憶があります。宇品のそれは当時は日本一だったのでしょうか。
宇品駅旧軍用ホームが日本最長であると昔何かで読んだのですが、何だったか思い出せません。
「宇品駅」で検索すると、Wikipediaに「ホームは563m」とあります。
準特急さま 井原さま
小生も「日本一長いホームと読んですぐに京都駅1番ホーム」を思い出しました。しかし宇品のホームが563mで5m長いとなると、こちらが日本一ということになりますね。京都駅の場合、お召し列車が発着するからだと読んだ記憶がありますが、何故お召が発着するから長いのかは未だに分かりませんが。
さて左手の山ですが、小生は広電の宇品へは何度も行きましたが、旧国鉄駅に足を運んだことは一度もありません。地理院地図を見ただけの知識で申し訳ないのですが、推測では宇品線の東部に位置する標高約200mの「黄金山」ではないかと思います。
ただ条件がありまして、宇品線の線形が現在の広電同様海岸に到達してから西に曲がり、従って宇品駅の線路は東西に走っていたのでなければこの推測は成り立ちません。準特急さまのご記憶はいかがだったでしょうか。
旧宇品線の西部には山が無く、現在は住宅地になっています。まさかこれほどの山が切り崩されて宅地化されたとも思えませんし、山との距離感からしても先のように推測したものです。
井原 実様、1900生様
勉強になりました。京都駅のお召用ホームはその使用方法を知りたいところですね。宇品は軍用であったかもしれませんがこれも何故600m近いホームが必要であったか知りたいです。宇品駅左手(多分西方)の山は引き延ばして始めてわかったのですが山容から備後富士(そういう山があるのかどうかわかりませんが)と思いましたがたったの200mなら阪神間のシンボル甲山(309m)より小さいですね。
貴重な宇品駅での記録、またまた楽しませてもらいました。構内がこんなに広かったのですね。広発宇品行きの写真もありましたが、これも、客車の昼間留置を兼ねて、わざわざ広島で逆向となって宇品に向かったのでしょうか。改めて、私もネガを探しますと、唯一の走行写真がありました。呉線の列車の窓から、広島発車直後に撮ったものです。本線と宇品線が分かれるあたりですから、ちょうとマツダスタジアムの裏当たりになると思います。キハ104でした。
総本家青信号特派員様
総本家さんのネタで古い写真を出させてもらっておりますが、皆さんから逆にいろいろなことを教えていただき大変参考になり嬉しく思っております。蒔く種がいいと成長も早いようですね。キハ04の現広島球場付近走行写真で思い出しましたが、野球の談議で大和がいなくなっても影響がないという趣旨の話をされましたが、阪神からDeNAに行って大和は大活躍ですね。大谷は予想以上に4拍子(投打走顏)揃った選手です。デジ青でさらにご活躍下さい。
宇品駅のなが~いプラットフォームに関して
うろ覚えで申し訳ないが、子供の頃に叔父から聞いたことがある。
「日清戦争の頃、宇品が広島港で、兵隊や輜重物資がここから大陸へ送られた」
明治27年から日清戦争だが、この年に山陽線が広島まで開通し、大本営も開戦に備えて広島に造られた。だから長大なホームがあったのではないだろうか?
でも一つ腑に落ちないことがある。
軍歌に「道は六百八十里」というのがある。これは日清戦争で出征する兵隊のために作られた歌だが、これにこう続く。「長門の浦を船出して・・・」宇品なら「長門の浦・・」とは読まないだろうと思うのだが。湯口先輩や西村さんならご存じかもしれない。
米手作市様
「道は六百八十里」について私に振られましても、平成生れの私にはさすがに荷が重いです。宇品を出港した兵員輸送船が瀬戸内海を西進し、関門海峡を通過して東シナ海を朝鮮半島や大陸に向かったのでしょうが、関門海峡を通過した際のことをもって帝国の「長門の浦から船出」としたのではないでしょうか。山陽鉄道が糸崎から広島を延伸した際に、わざわざ急こう配のセノハチルートを選んだのも、日清戦争の兵員輸送を最優先にして最短ルートにしたためです。120年を経た現在でも毎日補機が活躍しているのは、日清戦争のおかげです。広島開通と同時に宇品までの路線も建設され、宇品から兵員と物資が大陸に送られました。東京と広島が鉄道でつながるのを待って広島城内に大本営が置かれ、明治天皇の広島生活が始まりました。広電本社前の次の電停「御幸橋」は天皇が宇品に向かわれる際に渡られた橋であることの証しです。一方 海田市・呉間が開業するのは明治36年と宇品より10年もあとのことです。
西村雅幸翁
さすが乙訓の長老、須磨の大老と並び称されるだけあって、広島で唯一開かれた帝国議会をご覧になった方は違う!
関門海峡を通過して日本海へ出た時を詠んだ、とどこかで読んだことを思い出しました!
ところで私は戦後生まれです。念のため。
米手作市
有難うございます。デジ青も教養番組のような感じになってきました。宇品港=広島港ですね。宇品も重要な軍事基地であったのでしょう。呉は軍港で戦時中の呉線は外を見ないように窓を閉めさせられて走ったそうですが、呉と宇品はどういう関係にあったのでしょうか。戦争のことは疎いのですが、呉は海軍で宇品は陸軍か空軍の関係であったのでしょうか。
西村翁が証言されている通り、広島は、鎮台に「大本営」が置かれていた軍事上の首都です。明治天皇もしばらくの間広島に行幸され、指揮を執っておられたのです。呉は少し後の日露戦争頃から本格的に整備された海軍の鎮守府が置かれたところです。
因みに、旧軍には、海軍と陸軍があり、空軍はありませんでした。有ったのは「陸軍航空隊」と「海軍航空隊」です。
と、おじいちゃんから聞いたような気がします。
米手様、準特急様
広島県立文書館のホームページにある長船友則氏コレクションから大本営の写真を拝借致しました。
西村様
長船さんは、新著「宇品線の軌跡」をRMライブラリーから出されたようですね。私はまだ見ていませんが、写真など、あるのでしょうか。
また先ごろお亡くなりになった和久田康雄さんも、以前のピク誌に「宇品線の思い出」を寄稿されていました。和久田さんは、一時、広島にも勤務されていたそうです。