鉄道介護士からのお願い

DRFCクローバー会の鉄道介護士・米手作市でございます。
おかげさまで昨今はお客様が増えて大繁盛しております。昨日の大阪大運転会では大阪通信員先輩から大量の写真を預かりました。この方はめったに作品を見せてくれないのですが、すばらしい作品をたくさん撮っておられることを私は知っていました。しかし、最近は前立腺肥大前に引っ越したことが原因なのか、胴回りが学生時代の二倍になった(目視による)せいなのか撮った場所が分からないことが多くなったそうです。

作品は整理中ですが、数百枚はあるようです。概ね撮影地が推察できるものは仕分けていますが(私の知識に寄るので正確では無い)全く分からないモノがあります。そこであらかじめここにご覧に入れますので背景や車番などから撮影場所を特定することにご協力ください。間違っていてもかまいませんので、出来るだけ多くの方(外部の方でも大歓迎!)の知識をお貸しください。

では、どうぞご覧ください。

901

901 大阪行きのサボが付いているので東京駅では無いかと思う
解決しました! 東京駅14番線

 

902

902 機関車はC12らしい。サイドタンクの長さがはっきりしないのでC11かもしれない。
解決しました! 足尾線貨物列車 両毛線の渡良瀬川鉄橋を通過中

 

903

903 機関車はC57198とかろうじて読める
解決しました! 関西線亀山-下庄 鈴鹿川鉄橋

 

904

904 三文字の駅名が柱に付いている
解決しました! 小海線 小海駅

 

905

905 手がかりはD51340
解決しました! 新得機関区

 

906

907

906、907は同じ場所 906は門デフのC55らしい
解決しました! 長崎本線喜々津-東園

 

908

909

908と909も同じ場所らしい。列車も同じ貨物列車
解決しました! 山野線C56牽引の貨物列車

 

910

910 キハ17系
解決しました! 和歌山線北宇智-吉野口

 

911

911 機関車はC58
解決しました! 910と同じ和歌山線北宇智-吉野口

※全て解決しました。ご協力ありがとうございました。

 

鉄道介護士からのお願い」への29件のフィードバック

  1. 米手 作市さま
    鉄道介護士のお勤めご苦労さまです。なんとかご労苦をお助けしたいと思いますが、あいにく906・907の写真を除いて手も足も出ません。悪しからずご了承願います。その906・907ですが小生の見立てでは、旧長崎本線(通称「長与回り」)の喜々津駅から約1.2㎞東園寄りの地点ではないかと推測します。最初はよく知られた「東園」ではないかと思ったのですが、地理院地図を参照するとどうも線形や道路位置が異なっていました。門デフC55がキーだろうとその周辺をあちこち当たったところ、前記地点を見つけました。線路のカーブ具合や細い道路が合致するほか、長編成のDCもこの区間には本線と大村線との併結レも多くあったことからあり得たと思われます。また手前の先頭DCが急行色ですが、よくわかりませんが島原鉄道の直通車のようにも見えます。当時島鉄直通車は急行で小倉、普通・快速で長崎・佐世保に入っていましたので、この点からも不思議ではないように思われます。ただ当時の長崎本線にC55が走っていたのかどうかを詳らかにしませんので、ご存知の方の証言があればと期待するところです。外れていたらご免なさいです。

    • ありがとうございます。
      現地に行った方々が他にもあるかと思います。複数の方の意見が一致した方を採用致しますので、しばらくお待ちください。

    • 906、907ですが、1900生さんのご指摘のとおり、長崎本線機喜々津~東園で間違いないですね。昔から有名な場所で、当会でも、山科人間国宝さんと須磨人間国宝さんが二人揃って行かれたという伝説の撮影地でもありました。なお、牽引機のC55ですが、いま発売中の国鉄時代「九州の鉄路」を見ますと、C51からC57へ移行期の端境期に、ごく短期間だけC55が3両、早岐区に配置されていたとの記述を見つけました。C55が長崎本線を走るのは、たいへん珍しいことです。さすがに、大阪通信員さんです。

  2. 大阪通信員様、米手作市様
    米手作市さんがおっしゃられる通り大阪通信員さんは多くの傑作を残されておられます。人情味あふれる人物を入れた写真や季節の花やススキを入れた写真は正しく私にとっては御師匠さんのような存在でした。もっともご本人はそのようなお気持ちははさらさらないとは思いますが。今回発表された蒸機列車にも大阪通信員さんのあの頃の撮影姿勢が伺えます。発表された作品の場所を当てることはできませんが、少々コメントをさせていただきます。長崎本線は1900生さんと同じですが、ここはC57、C60やC61の急行、特急列車が有名ですがもう少し古い時代の旅客列車は山科の人間国宝や須磨の大老からもC55やC51が発表されていると思います。発表された2枚目のタンク機はデフがないのでC12と思われます。後は皆さんにお任せしますが、いい時代のいい作品ですね。続編を期待しております。

    • はい、過日の模型運転会の打ち上げの席が、大阪通信員さん、米手さん、1900生さんと同席でしたが、そこでの話題も、大阪通信員さんの写真の上手さでした。ところが、なかなか公開されることは少なく、“これでは隠遁ではないか!”と、米手さんが怒り出し、写真を強奪して、今回のコーナーになりました。私も、その強奪シーンを横目で見ていましたが、まだまだ大阪通信員さんらしい写真があるようです。楽しみにしています。

      • 強奪したことは間違いありません。しかし、なぜか通信員氏は当日缶に入れた写真を手提げ鞄に入れて持ってきておられました。
        ところで作品ですが、強奪されることを期待されていたような選りすぐりの作品ばかりです。通信員氏は、ここで公開することを快く思っていないのか、許諾を頂いておりません。ぜひとも皆様にご覧に入れたいのですが・・・
        年寄りは何でもため込んで出し惜しみするものです(特定の個人、団体を指すものではありません)。たとえば準特急さんにはC601の雄姿とか、青信号特派員氏には高森線を快走するC12牽引の混合列車とか。

  3. 私なりに推理してみました。お付き合いください。
    901…これは東京駅で間違いないでしょう。在来線で14番線があったのは、東京駅と上野駅でした。
    902…C12とすると、C12の走行線区で、こんな長い鉄橋があったのか、私はよく知りません。大糸線?加古川線?日之影線? C12は短区間の本線貨物を牽くこともありましたので、地方の幹線の可能製もあります。
    903…C57198ですので亀山機関区の所属、撮影地は亀山~下庄の宮川鉄橋です。
    904…三文字の駅名ですか、雰囲気からすると、中国・四国・九州地方あたりのローカル線、という感じですね。よく見ると、右のキハ20系は扉を開けたまま待機しているようです。手前には、アッシュピットも見えます。このことからすると、機関区所在駅ではないもののもローカル線で折り返し列車もある中枢駅のようですね。
    905…D51340で検索すると、同機は北海道内で池田、長万部、五稜郭と転属しています。池田機関区はよく知りませんが、長万部、五稜郭は、いずれもラウンドハウスがあり、寒さよけの扉もあって、両区ともスタイルはよく似ています。
    908・909…この光景は、どこにでもあります。よく分かりません。
    910…雪の中を行くキハ17系なら、私たちがよく行った、小海線、飯山線のように見えます。
    911…C58とのことですが、まわりの風景だけではよく分かりません。大阪通信員参加がよく行かれたという北宇智ではないですか。そんな雪は降らないですかね。

    • 904ですが、「こうみ」と言うことは考えられませんか?
      私は小海線は通過しただけでしたので構内配線はわかりませんが、通信員氏は「小海線を愛する会」という非公認団体を組織して、会内派閥を作ってブイブイ言わせておられたのでチョット考えました。

      • なるほど!「こうみ」の可能性はアリですね。小海の構内は今でもこんな感じですし、よく見ると貨車の屋根が白くなっていますね。

  4. 外部からお邪魔します。諸先輩方を差し置いて青二才の小生がしゃしゃり出るのはおこがましいのですが、参考になればと思い、コメントさせていただきます。
    まず、905のD51 340ですが、本家青信号特派員様がご指摘の通り、北海道で最期を迎えたカマです。北海道の蒸機はデフを切り詰めたものが多く、340号機も晩年には切り詰めデフを装備していました。ところが写真では原形のデフが付いており、改造前に撮影されています。改造は昭和44年に行われていて、撮影時には池田機関区に所属していました。ネットで池田区の画像を探してみると、扇形庫ではなく矩形庫でした。池田区での撮影ではないことになり、簡単に答えは見つけられません。根室本線筋の機関区を片っ端から探してみると、新得機関区の扇形庫がよく似た形状をしていました。木製扉上部の明り取り窓に特徴があり、転車台の形状、手前に見える線路の位置も新得機関区と一致します。「蒸気機関車がいた時代」というサイトで見つけた画像は、これらの条件をすべて満たすもので、新得機関区での撮影と考えます。
    903のC57 198は本家青信号特派員様がおっしゃる通りで、亀山から下庄寄りに歩いてすぐの場所にある鈴鹿川に架かる橋梁と考えます。川の流れが手前から奥に向かっていると仮定すると、西側に架かっていた県道28号線の端の上から撮影された、午前の伊勢市行きの列車ではないでしょうか?
    アングルは違いますが、鈴鹿川の橋梁を渡るD51をを撮っていました。橋脚の形状や、待避所などは同じように見えるのですが、いかがでしょうか?

    • 紫の1863さま
      いつも的確なコメントをいただき、ありがとうございます。D51340は、新得機関区でしたか、私は頭の中でスルーしていました。と言いますのも、私の時代は、もう狩勝峠も新線に移り、とくに近辺に魅力の撮影地もなく、新得は、いつも夜行で通過するだけで、機関区の様子は全く知りませんでした。ネットでよく調べていただきました。
      また亀山~下庄の川は、鈴鹿川でしたね。ご指摘、ありがどうございました。

    • 紫の1863様、
      ありがとうございます。
      これぞ、当欄の醍醐味!豊富な情報が次々と入ってきます。これがないと介護士は務まりません。
      新得機関区、納得しました。通信員氏は狩勝峠で撮影をされています。たぶんその時の撮影かと思います。
      903は亀山で確定です。でも、写真を見せてください。よろしく!

  5.  連日の異常な猛暑の最中、コメントを頂いた皆様また静かにご覧いただいた皆様ありがとうございます。
     この度、著名な介護士の介護を受けることになり、とりあへず印画紙に焼いた写真を介護(スキャン)いただいております。写真撮影ひとすじではなく、今でいう乗り鉄的なこともありスナップ的な画像が多くただ古いだけ
    ということでご笑覧ください。
     今回、介護を受けた画像について種明かしを簡単にいたします。
    901 東京駅。夕方に九州行きが出た後、夜になると「出雲」をはじめに「大和」まで夜行客車急行列車がホームに。二等車には淡緑色の帯が入り
    編成のアクセントになっていた。
    902 C12。まったく記憶にありません。
    903 紫の1863さんのご指摘どおり。紀勢本線亀山駅をちょっとの所。
    904 覚えていません。小海線こうみ駅でしょうか。日本のいたる所に見られた模型のレイアウトみたいなありふれた懐かしい風景です。なお小海線を愛する会は湖畔のヒマ人氏がぞっこんで、通信員は加太会の舎弟でした。
    905 根室本線新得機関区。紫の1863さん良く探索いただきました。須磨の大老の足跡を辿ろうと狩勝峠を目指したときに撮影。
    906・907 多くの方のご指摘どおり当時の長崎本線喜々津~東園信号場
    で、これも山科の人間国宝・須磨の大老のおこぼれをと当時某誌の撮影地ガイドをもとに訪問。
    908 ・909 C56の貨物列車。物流のほとんどを国鉄が担っていた時代。
    田舎でもちゃんと10両ぐらい貨車が連なっていた。今は廃線となった水俣~栗野を結んだ山野線です。小さいループ線もありました。
    910 金剛山系を背景にまたとない雪景色の和歌山線吉野口~北宇智駅間の峠を降りてくるキハ17系気動車。夜行客車急行列車「大和」の三等寝台車一両を王寺駅で和歌山線の普通客車列車につないで和歌山へ向かうのを撮影に行ったときの一齣です。
    911 和歌山線北宇智駅を発車して吉野口への峠の勾配を上る貨物列車。昔は何度か雪が降ることがありました。寒かったですね。右端すぐにスイッチバックの北宇智駅がありますが貨物列車は駅に入らず登ってきます。

  6. 通信員さま、
    脳の萎縮はないようです。しばらく様子を見ましょう。お薬出しときます。
    ところで、撮影地不明の追加があります。

    • 失礼いたします。
      おでこの塗り分けが「ハ」の字型でなく直線。
      ジャンパー栓の数が4本なので、呉線から久大線に転じたキユニ16ではないかと、想像いたします。
      おそらく呉線時代の撮影で、キユニの向きは広島よりでした。
      山の迫り方で、似方ではないかと。
      探したら、同時代の写真がありました。リンクを貼っておきます。https://sl-taki.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300335382-1
      私の撮影した写真は、昭和51年の久留米駅だったと思います。

      • K.H生様
        御推察通り仁方駅のキユニ16のようですね。おでこの塗り分けやジャンパー栓には気付きませんでした。大阪通信員殿、四国をウロウロされたあと堀江から国鉄連絡船で仁方に渡られたことはございませんか?

  7. 米手作市さま 大阪通信員さま
    具体的な駅は分かりませんが、知りうる範囲では関西線亀山~奈良間(※1)のある駅で、奈良方面行の下りレ(※2)ではないかと目星を付けました。※1:先頭車がキハ15改造のキハユニ(キユニ/キハユ?)15(17?)に見えるのと、後部車がキハ35系のように見えるからです。我々が加太詣での際に目撃した列車だとすれば、当時この合造車は天カメに配置されており、夕方の列車で奈良へ行き、翌日午前の列車で戻る運用でした。従ってこの組み合わせがあったのはこの区間ということになります。また※2:下りレだと思うのは亀山区を見学で訪れた際に、確か奈良向きに留置されていた記憶があるからですが、記憶はかなりあやふやで名古屋向きだったかもしれません。ところで駅の推測ですが、背後に山があることからかなり絞られてきそうなのですが、下り列車の場合でも候補駅は「大河原」くらいしか思い当たらず、まして上りでは該当駅は「無い」と思います。ということなどから、奈良や和歌山に同合造車の配置があったかどうかわかりませんが、特派員さまがよく訪問されていた和歌山線の可能性も捨てきれません。結局わからずじまいになってしまいました。
    米手さま処方のお薬が効いて、通信員さまのご記憶が戻られることを期待したいですね。

    • 1900生様、
      次位車がキハ35系とは気付きませんでした。私は後ろの山が和歌山のミカン畑に思われました。
      なお、通信員氏の名誉のために申し上げますと、氏の記憶力にはなんら問題はありません。お出ししたクスリは“別の用途”のクスリです。誤解はいけません!

    • 1900生様
      加太詣での際に見ていたのはキロハ18改造の天カメキハユ154だと思います。この湘南顔は天ナラのキハユニ16だと思います。奈良線のどこかの駅ではないでしょうか。奈良線では湘南顔は奈良向きでした。写真は木津駅です。

  8.  何処で撮ったか覚えていません。湘南窓の気動車、電気式気動車を液体式気動車に改造したキハユニ15・16と思います。天橋立で走っているのを撮影したことがありますが、そのときかどうかは解りません。和歌山線と阪和線紀勢線では走っていたと思います。1900生さんがおっしゃる亀山所属の関西本線運用もそういわれると見たようにも思いますがはっきりは覚えていません。背景の山は紀勢本線でよく見る風景ですが、ミカンの樹が少ないようだし。
     駅員さんのズボン布地をたっぷり使った日本が豊かだった頃ですね。今は背広でも布地をケチってマンボズボンのようになってしまいました。ステテコやパッチを穿いても纏わりつかず動きやすかったですね。

  9. 西村さま、詳しいご解説を有難うございました。大阪通信員さまのご記憶も参考に、奈良線・桜井線・和歌山線・紀勢線、旧宮津線を地図から当たってみました。ポイントは構内風景からして駅員さんの立っている右側が駅本屋らしいことと、奥左手の山でしょう。こういう地形を探しても奈良線では見つけられませんでしたし、他線も同様でした。唯一、皆様がミカン山?と指摘されたことと符合しそうなのが紀勢線「下津」駅でした。しかしこれとても合造車の配置や向きを知らないので、ミカン山からの半ば強引な推測です。結局謎は深まるばかりで、ますます寝苦しい夜が続くことになりそうです。

    • 1900生様
      奈良線など天鉄局ではないとなると、呉線はいかがでしょうか?その場合はキハユニ16ではなくキユニ16です。昭和44年8月3日に小屋浦で撮影した643D広島行きの写真を添付します。この当時広島区にはキハ35とキハ30合わせて4両程度しか配置されておらず、また私の写真でも後続車が写っておらず、呉線に35系が入線していたかどうかの確証がありません。呉線のキユニだとすると、困ったことに広島区にはキユニ16が2両配置されていて、その2両とも広島向きだったかどうかも確認できません。2両とも私の写真のように広島向きだったとすると、特派員氏の写真で駅員がタブレットを持って待つのは下りホーム(海側)ということになります。また写真をよく見るとホームのすぐ先に警報器があって踏切があるようです。また向かい側のホームがレンガ積みか石積みのようにも見えて、明治に開通した海田市・呉間ではないかと思います。湘南顔の窓上ステップ2か所に「架線注意」の表示もあります。以上をヒントに改めて調べてみることにします。が、ここはやはり介護士氏から大阪特派員氏に強力な記憶回復薬を処方して頂くしかないようですね。

      • 西村様、
        呉線にも湘南顔がいたのですか!
        なら、呉線の可能性大ですね!
        実は、昨夜から大きな進展がありました。C12の牽く貨物列車の場所が特定できたようなのです。詳しくは後ほどまとめて書き込みます。

      • 西村雅幸さま
        ついに広島へ飛び火しましたね。ところで後部車について小生は最初にキハ35と判定したのですが、その理由は側面上部に見える外吊りドアの出っ張りからでした。しかしご紹介された木津での写真を見るとこの出っ張りは三か所のドア上にしかありません。キッカケになった撮影駅不明の写真では連続しているようにも見え、正直いって確信が持てなくなってきました。ただこれはほぼ正面から撮ったための写り方による可能性もあり、塗装の具合はやはり35系ではないかとの思いは拭いきれません。米手さまや準特急さまのように「白を黒」というだけの度胸が小生にあれば迷うこともないのですが。呉線も候補に挙がってくるようではもはや小生の手には負えません。

  10. 昨年、私の修学旅行で撮った写真の場所特定に甚大なご協力を頂いた、東京在住のSNさんを覚えておられますか?このSNさんが調査をしてくださいました。
    以下はSNさんからの“驚くべき”調査報告です。

    1. 写真902
    この写真は足尾に向かうC12牽引の貨物列車で両毛線の渡良瀬川橋梁を渡っているところを撮影したものです。

    ① 足尾線の列車は渡良瀬川橋梁の部分は両毛線を使用し、川を渡りきった下新田の信号所から足尾線に入ってゆきます。

    参考として鉄橋の下流側からC12の貨物列車を撮影したものが、わが国鉄時代2鉄道ホビダス「変則三重連」http://rail.hobidas.com/kokutetsu2/archives/0040-8/掲示されていますのでをご覧ください。

    橋脚の形やハエたたきの設置形態を確認できます。背景には②で説明する小山も見えませんか。

    ② 俯瞰撮影になっているのは、桐生を出発した列車が渡良瀬川橋梁にさしかかる直前右側に川べりから立ち上がる小山があり、そこから撮影したためと考えています。国土地理院の二万五千分の一の桐生の部をご覧ください。小山の頂上に174mの表示があり河原から約60mの高さがあります。

    ③ この写真のはるか彼方にうっすら見える横に細長い建物は、桐生機械の工場で現在は再開発でショッピングセンターになっているようです。

    ④ 貨物列車は足尾の銅採掘・精錬に必要な関連する原料・資材を運ぶため多くの無蓋車は丁寧にカバーされています。

    2. 写真911
    この写真は小生の独断と偏見で陸羽東線のC58牽引の上り貨物列車ではないでしょうか。

    この写真のC58から3両目の貨車の右に遠方信号機がみえること、背景の右側上から1/3の辺りにお寺の屋根がまた左側上から1/3の辺りに道路に小川の橋が見えること、また高いところからの俯瞰撮影の4点を満たす地点を国土地理院の二万五千分の一で探しました。

    該当する地点として立小路駅付近で駅を発車(無人駅なので通過)した上り貨物列車を、駅の東側にある小山の祠あたりから駅そばのお寺に向かって撮影したもののような気がします。また遠方信号機は立小路駅の次の交換設備のある最上駅の信号の状態を中継表示するために設置されていたものではないかと思います。

    まったく限定された理屈だけ調べていますので外れの可能性大です。撮影された方の記憶を思い出す一助になれば幸いです。

    地図は写真撮影時から40年~50年以上たっているため耕地整理等大きく様変わりしていると思います。また撮影時に雪中でどこを通って行ったか分かりませんが、よくここまで高いところまでの登っていけたなと驚きます。

    ※この写真は和歌山線北宇智駅-吉野口で撮ったことを思い出されました。

    3. 写真908、909
    写真を拡大してみるとC56が牽引しているようです。当時C56が運用されていた代表線区として山野線、木次線、小海線、飯山線等ですが遠方の山の形や高さから小海線の佐久側のような気がします。写真の築堤の高さと短い鉄橋のある場所をネットの小海線の前面展望と二万五千分の一地図を調べてみます。しばらく時間をください。

    ※この写真に関しては撮影者が「山野線で撮った」と上の方のコメント欄で自供しております。

    4. 写真903、906、907
    皆さんと同様の見方をしています。

    5. 写真904
    写真の右側の電柱横の看板の字読めませんか?ネガの前後のコマに何が写っているのでしょうか?

    ※拡大しましたが読めません。これらの写真はプリントからのスキャン画像です。ネガはありません。

    ※全国からの介護の応援に感謝致します。後ほどご本人からもお礼のコメントがあると思いますが、何よりも思い出して頂けたらいいですね。

  11. SN様、特派員様、通信員様、西村様、1900生様、(順不同)
    904の場所が分かりました。
    「地方鉄道 1960年代の回想」のトップページにほぼ同じ構図の写真が出ていました。https://umemado.blogspot.com/2013/10/blog-post_30.html
    やはり小海駅でした。ご協力ありがとうございます。これで全て解決しました。

  12. 大阪通信員様、西村様、
    東京在住のSN様から「山野線」の写真の再検証が届きました。
    山野線の何処か?と言うことを特定してくださいました。ご覧ください。

    写真908、909の山野線の場所をもう少し調べてみました。調査した結果は以下です。
    栗野駅手前の川内川橋梁を渡り栗野駅に向かって緩いカーブを走行するC56牽引の貨物列車(吉松行)を撮影したものでないいでしょうか。

    写真909で列車の中央付近の築堤に見える小さな鉄橋が気になっていました。
    (1)廃線探索 山野線(歩鉄の達人)http://www.hotetu.net/haisen/Kyushu/100502yamanosen.htmlで貨物列車の走っていた栗野~薩摩大口間で、これに該当しそうな鉄橋を探したところ、一番下の地図の⑨の橋梁がそのようです。
    (2)そこで写真908の橋梁の背景の山並みを確認のためGoogleマップで確認したところ、

    ・栗野駅からまっすぐ西に移動するとダイレックス栗野店あり

    ・次にダイレックスと川内川の間の小道に出て川と並行して西向きに少し歩き、コの字の角に立ってください。

    ・そこから西を見ると川内川の新堤防が続きその先の左側に例の橋梁があります。その先(西側)の近景、遠景の山並みが似てませんか?当時の撮影地点が少しズレていることや昔のカメラとストリートビューの画角の違いはあると思いますが。なお、このストリートビューの撮影は2014年1月ですのでまだ現存かもしれませんね!補足ですが築堤の下に見える低い築堤と橋台は山野線の軽便鉄道時代のもののようです。

    (3)東側(写真908の左寄り)の山並みは☆福chanのSL写真(関東以西編)☆C56 135 (山野線・稲葉崎-栗野 1974.03 )https://blogs.yahoo.co.jp/br1216er/10890796.html?__ysp=5bGx6YeO57eaICBDNTY%3Dで見ることができ、霧島山地に続く山並みと思います。またハエたたきの並びも写真908と同じ緩いカーブの内側です。

    以上がSNさんからの調査報告です。
    本当にありがとうございました。

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