筑豊から夜行に乗り大畑へ、また夜行に乗って久大本線へ戻り、再び夜行で上伊集院へと、九州を南へ北への旅は続く。九州では、門司港を起点として、長崎、西鹿児島、宮崎へと夜行の急行・普通が相互発着していた。夜行に乗って朝起きると、乗り継ぐローカル列車もうまく一番列車に接続し、朝のラッシュ時の蒸機列車から総ナメで、たっぷり一日撮影ができるという、今から考えると本当に撮影には恵まれた効率のいい時代だった。
行程の半分あたりの日に、宮崎でI氏と合流した。氏は宮崎にはたいへん執心され、その後も数日を掛けて訪れている。鉄道以外にも種々の理由もあると聞いたが詳らかではない。
今日はそのI氏に案内されて初めての田野を訪れた。日豊本線は、前年まで健在だったC55はもう見られないものの、C57の天下となり、旅客列車はもちろん貨物列車までもC57牽引という徹底ぶり。日豊本線はのちにC57の牽く最後の蒸機急行とし名を馳せるが、この時代は逆に優等列車はDF50牽引だった。
さすが南国、宮崎。ポカポカ陽気で、同じ九州でも明らかに北九州とは気候が違う。たいへん気持ちがいいのだが、ついつい夜行の疲れで、線路端でウツラウツラしてしまう。
ここ田野の築堤で上り特急「富士」をとらえた。別の日にも佐土原で「彗星」をとらえている。富士」は、東京から日豊本線経由で西鹿児島まで、日本一長距離を走る特急だった。「彗星」は、昭和43年10月改正で新大阪~宮崎間を走り始めた。どちらも20系客車で、あざやかな車体色はまさにカラー向きの列車であった。20系の後継となる14系は昭和46年の誕生だから、寝台客車特急はすべて20系だった時代で約400両あった。貧乏旅行の私は、20系には乗ることなく終わってしまったが、この時代の憧れの象徴だった。
20系の先頭に立つ牽引機もその時代を象徴していた。蒸機ならやはりC62、電機なら同色でまとめたEF60、65Pがいちばん相応しい。DLとなると、DD51時代が長かったが、やはり凸形が長編成を牽くのは似合わない。DF50こそ相応しい牽引機に映る。DF50の派手な新塗装も案外ブルーの車体にマッチしていた。山陰本線の普通列車を牽く地味なDF50しか知らなかった身には、ずいぶん華やかな存在と映った。