今回の台風で被害の大きかった新宮は、熊野川の河口であり、上流から筏を組んで運ばれてきた木材の集散地として栄えてきました。しかし、河口が三角州のため、水深が浅く、木材を搬出する港湾設備には恵まれませんでした。そこで、天然の良港を持つ、近隣の勝浦(現・紀伊勝浦)まで、鉄道で運搬する計画が持ち上がりました。
▲新宮市内の市田川を渡る混合列車。この区間は線路移設で廃棄された。
このように新宮鉄道は、木材輸送を目的として明治期に会社設立された。軽便鉄道法に基づいて、明治44年から建設工事が始められ、大正2年に新宮~勝浦間15.5kmが全通した。紀伊半島の鉄道の第一号であり、県都の和歌山でも、この時点で、南海鉄道、紀和鉄道(現・和歌山線)は開業していたものの、和歌山以南の現・紀勢本線は全く未開業の状態で、紀伊半島の先端で、文字通り陸の孤島として、鉄道開業したことは驚きに値する。
新宮鉄道のように、他の線と連絡しない鉄道線は明治期によく見られる。その多くは、石炭、鉱石、木材などを集散地へ運搬するための貨物輸送が主眼であった。開業後、客貨分離、ガソリンカーの導入など近代化にも着手した。勝浦からは、大阪商船の旅客船が大阪、神戸を結んだ。ところが国有鉄道による紀伊半島一周構想が持ち上がり、熊野市から新宮、勝浦を経て串本へ至る紀勢中線に計画の中に組み込まれた新宮鉄道は、昭和9年に国有化されることになった。ただ、国有化されたものの、紀勢本線は未開業で、他の線と連絡の無いことには変わりなく、新宮鉄道からの引継ぎ車両のほか、鉄道省から蒸機や客車が船送され、バッファ式連結器に取り替えて使用された。
その後、紀勢中線全通に向けて、改良工事が実施された。新宮付近は、大幅な移設が行われたほか、前回の廃トンネルや、前々回紹介の那智川橋梁もこの時の改良工事で廃棄されたものである。(終)
▲新宮駅構内。現在駅の駅前広場あたりにあった。(いずれも『目で見る熊野・新宮の百年』より転載)