10月15日付の【9939】「ちょっと気になっていた電車」で準特急様が能勢電を話題にされておられたが、ポール時代の写真は非常に懐かしく思った。
能勢電のポール時代は、諸先輩方が多数記録に残されておられて、私などの出る幕ではないが、少しばかりの写真があるので当時を偲んでいただければと思う。
能勢電鉄がポールからZパンタ、パンタに切り替わったのはDRFC入会以前の昭和41年1月17日である。私が撮影したのは前年の10月から12月にかけて京阪沿線の高等学校に通学していた頃で、滑り込みセーフであった。当時の在籍車両は31形2両(31・32)、50形3両(50~52)、60形2両(60・61)、10形8両(10~15・28・29)、20形6両(20~25)、電動貨車1両(106)の22両であった。
以下、形式毎に画像を並べてみた。
31形(31・32)
大正15年日車製で当初31~36の6両作られた。昭和30年10月に32が鼓滝踏切で大型トラックに衝突して大破し、復旧時に瑞穂工業により半鋼製改造時に31も追加された。(32は31年7月、31は同年9月竣工)残った33~36は鋼体化されることなく、昭和36年に廃車となった。35の部品を流用して電動貨車106が瑞穂工業の出張工事で作られたが、書類上は新造扱いである。
昭和41年、320形導入時にZパンタ化されることなく廃車となった。
50形(50~52)
元阪急37形(37~39)(大正10年梅鉢鐵工場製)の70形(71~73)を昭和28年(71・73→50・51)と30年(72→52)に鋼体化改造したもので、50・51はナニワ工機、52は帝国車両で竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。50と52は同年12月に廃車となり、残った51は61と共に川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。
60形(60・61)
借入中の阪急40形(大正12年藤永田造船所製)の40・41を昭和29年9月に譲り受けてナニワ工機で鋼体化改造して30年1月に竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。60は同年12月に廃車となり、残った61は川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。
鼓滝~鶯ノ森間の猪名川鉄橋を渡る妙見口行(昭和40年12月22日)
10形(10~15・28・29)
元阪急(←新京阪)のP-4、P-5形を昭和32年10月に1500Ⅴ→600Ⅴに降圧、パンタグラフをトロリーポールに取替等の改造を正雀工場で実施の上譲り受けた。翌年3月から下記の編成で常時2連で使用されることになった。※( )は阪急時代の車番。
←妙見口
10(11)+11(21)・12(27)+13(22)
14(14)+15(23)・28(28)+29(54)
10~15は2個モーター、28は4個モーター、29はTcである。
昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられた。320形と置換えで14+156は41年12月に、それ以外の車両は42年10月に廃車となった。
20形(20~25)
元阪急(←新京阪)のP-5形を昭和36年5月に借入れた。昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられたが、同年9月に返却され、阪急では直ちに廃車手続きがされて平野車庫で解体された。編成は下記の通りである。※( )は阪急時代の車番。
←妙見口
21(51)+20(24)・22(18)+23(52)
24(19)+25(53)
偶数車がMc、奇数車がTc
10形、20形は1両毎に細部が異なり興味が尽きない。
絹延橋~川西能勢口間を走行する川西能勢口行(昭和40年12月22日)
続行車ありの標識を表示して鼓ケ滝駅を通過(昭和40年12月22日)
電動貨車106
31形のところで触れたが、昭和36年8月に35を瑞穂工業で改造した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられたが、保線作業車が導入された結果、仕事がなくなり平成3年3月に廃車となった。
ポール時代の写真が見当たらないため、Zパンタに換装後を貼り付けた。
【番外①】建設中の平野車庫
昭和40年8月21日から手狭になった絹延橋車庫に代わり、平野車庫が建設され、翌年1月25日に完成した。
【番外②】320形
昭和40年5月から8月にかけて阪急320形(320~331)が全車両入線したが、受入体制が出来ていないため、川西能勢口、絹延橋車庫、多田、妙見口に分散留置され、最終的に建設中の平野車庫に集結した。翌年5月から使用が開始され主力として活躍したが、1500形との置換えにより昭和58年から廃車が始まり、61年12月20日付で全車廃車となった。
【番外③】40形
阪急40形は40~45(44欠)の5両作られたが、42は阪神急行時代に昭和6年箕面線で消防車と衝突したため廃車となり、昭和7年2月に41、43、45の3両を借り入れた。昭和23年6月に43が衝突事故で大破したため40を借入れた。43は書類上は休車となっていたが、60形に改造されて不要になった41の旧車体と休車中の電動貨車206の足回りを利用して復活して引続き使用されていた。昭和37年12月43、45共に返却され、43は池田車庫に、45は西宮車庫に留置された後解体された。
【番外④】阪急宝塚線
藤本哲男様
懐かしく拝見させていただきました。あの頃の車両を系統立てて整理、説明いただき有り難うございます。それにしても京阪沿線の某有名高校の生徒さんが北摂のポール電車を撮影されていたとは驚きです。持ち前の研究心と目覚めの早さには脱帽です。DRFC時代に一度ご一緒させていただいたことがあると思いますが、パンタ姿のP4・P5がいい位置に停車して記録に残せたことと端正なスタイルながら木造で外板の木が剥がれてきたことを覚えています。それにしても能勢電の今昔の変貌ぶりは凄いですね。
能勢電が比較的身近な電車になり、昨日も篠山探訪の帰りに、川西能勢口より一駅池田まで帰る際に、マルーン色に戻った1500型をながめておりました。
北摂の最奥地のベッドタウン化は、人口拡張と進捗が停まり、今後は町の維持問題や、都心への転出期を迎え、どうなるのかと、考えさせられています。
激変した能勢口や川西池田駅周辺に比べて、一駅離れた絹延橋の周囲は、元々が能勢街道が通っていた所で、何ともいえぬ街道風景がまだ残っております。
行政区分でも絹延橋の橋部分と渡った所は今でも池田市で、五月山の麓からここを通り、絹延橋に出る往来は昔からあったのでしょう。また橋の西には火打という革細工で長く栄えた町があり、大きな洋館や木造建築が残っています。
また、鼓ケ滝の駅は、古来園芸や庭木で栄えた旧細河村の古江に隣接し、こちらの住人のために設置したのが、本来かと思われます。
鉄道マニア的には、この40〜50年間の能勢電の激烈な変貌ぶりに目が行きがちなのですが、池田に住んでみて、能勢というのは北斗信仰で、今でいうパワースポットであったのか、とか、また池田の磁場は本来どちらに向いているのかなど、考えるのは非常に興味深いです。
今年の夏には、昭和初期に架けられた絹延橋が架け替えられました。
旧橋はいま取り壊しを待つ状態です。
絹延橋駅は、未だに線路を横切り対面ホームに渡る構造ですが、こんな風情も何時まで残っているのでしょう。
北摂最奥の私鉄線が独自色をどのくらい出せて、100年近く続いてこれたのか。
地元にあるダイハツ工業とトヨタの関係とは似て異なりますが、今後も興味深いです。
貴重な写真の数々、歴史の証人に会えたようで大変感謝しております。