上田丸子電鉄 クハ252・253他

(1)クハ252・253について
湯口先輩の「1958年 上田丸子電鉄その3」の「びわこスタイルのクハ252」の写真について【10896】本邦初公開と書かせていただいたが、クハ253の「正面3枚窓」の写真も初公開と思われる。「びわこスタイル」から「正面3枚窓」に改造されたのは相模鉄道時代で、併せて乗務員室扉の設置が行われている。ところがいつの間にか正面2枚窓に改造されているのである。京阪の704が事故復旧時に正面3枚窓から2枚窓への改造されたことは有名であるが、あまり例がない。クハ253の2枚窓改造の理由は、クハ252とスタイルを合わせるためだけであったのだろうか。また、書物
(ネットを含む)の中にはクハ253が「びわこスタイル」から直接「正面2枚窓」に改造されたように書かれているものがあり注意が必要である。
クハ252は、昭和61年10月1日の1500V昇圧時に、クハ253は昭和50年3月に廃車された。

 


「びわこスタイル」から「正面2枚窓」改造後のクハ252。(上/45-3-16 下/60-8-8)

 


「びわこ」→「正面3枚窓」から「2枚窓」に改造後のクハ253。非運転台側は3枚窓のままである。(42-3-23)

(2)再びサハ28について
湯口先輩のコメントの通り、今月発売「鉄道ファン2月号/江ノ電全通100周年によせて・1950年代のポール時代をふりかえる(1)」に201、202の鮮明な写真が掲載されている。201は両端に2枚折戸、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓があるが、折戸の前に縦長の窓が無い。202は2枚折戸の前に超狭い縦長の窓が設置されており、扉間には201と同じく、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓がある。ここまでの情報では、湯口先輩も仰せの通り、202の方がサハ28に近い。
一方、201の廃車は昭和31年で、翌32年に撮影されたダルマの写真が掲載されている。202は昭和29年に旧王子電軌174号の3000形への車体更新で不用になった旧車体を購入して振り替えている。サハ28の製造年は昭和33年であり、4年前に廃棄された202の車体よりも、2年前に廃車になった201の車体を流用した可能性が高いと考えるのが自然である。201、202共に「鉄道ファン」の写真でもお判りの通り、扉位置、窓回り等を中心に大幅に手が加えられているが、応急改造感は免れない。また、果たしてダルマになった車体を売買するか?という疑問もあるが、これはあり得ない話ではない。もし昭和29年に廃車になった202の車体が、どこか(例えば東急車両)で比較的良好な状態で残っていたとするならば、こちらの可能性も充分にあり、両端の細い窓と共に非常に気になるところである。
どちらの車体を利用したかは別にして、骨組みだけを残して大幅に手を加え、扉をやや中央寄りに移設、扉間に8枚の窓を設置した。扉と車端の間に窓を1枚設置した結果、僅かに空間ができたので細窓を設置したという可能性は「無きにしも非ず」であるが、この程度の空間にわざわざ幅の狭い窓を設置するだろうか。真相解明は、当時担当された方の記憶に頼る以外には無いと思われる。
私自身はネコパブ社「RM LIBRARY74/上田丸子電鉄(下)」の記述から「201の車体→サハ28」と思っていたが、再考の余地がありそうである。

 (3)【10928】「1958年上田丸子電鉄その4」で紹介された車両について
上から順番に解説する。
①モハ3332
モハ3331、3332の2両在籍した。大正13年日本車輌製で丸子線の前身、丸子鉄道が大屋~丸子町間の電化の際に新製したデ100形101、102が前身である。山梨交通から購入したモハ2340形2341、2342の稼働に伴い、昭和40年5月に廃車された。
②③モハ3552
モハ3551、3552の2両在籍した。大正14年日本車輌製で大屋~上田東間の延長開業時に新製したデ200形201、202が前身である。昭和44年4月19日廃止時まで在籍した。
④モハ4251 ⑤⑦モハ4254
モハ4251~4254の4両在籍した。昭和2年川崎造船所製で真田傍陽線開業時に新製したデナ100形101~104が前身である。湯口先輩が撮影された時点は車体更新前で、荷物扉の戸袋窓が楕円形、窓は下降式であった。昭和36年~38年にかけて車体更新が実施され、楕円形窓は通常の形に、客室窓は2段上昇式となった。⑤の4254の行先板付の写真は非常に珍しい。昭和47年2月20日廃止まで主力として活躍した。

 
車体更新後のモハ4252 (42-3-23)上田
⑥モハ5251
モハ5251~5253の3両が在籍した。昭和3年日本車輌製で、デナ201~203が前身である。「丸窓電車」の愛称で新製時から昭和61年9月30日の1500V昇圧前日まで一貫して別所線で使用された。昇圧後は、5251と5252は別所温泉駅の留置線、5253は長野計器㈱丸子工場に静態保存されている。5251は近々整理される予定で引取り手がなければ解体される予定である。

 
湯口先輩が撮影された27年後の昭和60年8月8日の姿であるが、スタイルの変化は殆ど見られない。
⑧モハ5262 ⑨モハ5263
大糸線松本~信濃大町間の前身、元信濃鉄道の買収車で、共に大正15年日本車輌製であるが、経歴が異なる。
モハ5262は信濃鉄道デハ5として誕生、昭和12年6月1日鉄道省買収によりモハ20004、昭和28年6月1日の改番でモハ1102に、翌29年に電装解除してクハ5110となるが程なく廃車となり、同年11月に上田丸子電鉄に譲渡。再電装の上、別所線に投入されモハ5262に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5362、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5371に改番、昭和61年10月1500Ⅴ昇圧により廃車となった。
モハ5263は安曇追分~北池田間を営業していた池田鉄道のデハ1として誕生、昭和11年営業不振による内燃化により信濃鉄道に売却して同社のデハ1(2代目)に(初代デハ1は昭和10年火災焼失により廃車)、鉄道省買収によりモハ20001に、昭和28年の改番でモハ1100に、昭和30年6月上田丸子電鉄に譲渡。別所線に投入されモハ5263に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5363、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5372に改番、昭和61年10月1日1500Ⅴ昇圧により廃車となった。旧車体は長らく上田原電車区の倉庫として残っていた。

ここで改めて湯口先輩の写真を見ていただきたい。モハ5262が停車している場所は、上田駅の真田傍陽線側である。別所線と真田傍陽線はどちらも元上田温泉電軌の路線であるが、別所線は600Ⅴ(昭和28年9月750Ⅴに昇圧)真田傍陽線は1500Ⅴのため、モハ5262を真田傍陽線で使用することは不可能である。この場所に停車していた理由は不明であるが、何らかの理由で国鉄長野工場入場時かも知れない。
モハ5263は急行の行先板に注目していただきたい。当時国鉄の急行列車に接続して急行運転が行われていた時の写真である。

 
モハ5263の廃車体 (45-3-16)上田原 
⑩モハ5361
昭和4年日本車輌製で、東武野田線の前身総武鉄道モハ1003として誕生、63形割当による供出車として昭和22年に入線した。当初の車号はモハ1001であったが、後日モハ5361に改番、制御器変更(カム軸式→HL)による改番でモハ4261となった。真田傍陽線廃止後、弘南鉄道に売却され、モハ110に改番の上、大鰐線で使用された。

 
大鰐線で3両編成の先頭に立つモハ110/後2両は元富士身延鉄道の買収車(50-4-28)津軽大沢付近
⑪ED2111
丸子線の前身、丸子鉄道の貨物列車用として昭和12年坂元工業所という聞いたことが無いメーカーで新製された。台車をはじめ電装品は中古品と思われる。ご覧のようにスタイルは独特で他に同形車は見当たらない。北陸鉄道で紹介された「三山工業」は現在も盛業中であるが「坂元工業所」についての現況は不明である。丸子線廃止後解体された。
⑫101 ⑬102
丸子線で使用されていた元伊那電鉄買収車のモハ5261とクハ261の鋼体化種車として入線した元東急のクハ3222とクハ3224である。鋼体化後はモハ5271とクハ271となったが、丸子線廃止後解体された。
機会があれば、改めて昭和40年代の上田丸子電鉄各線の車両の紹介をしたいと思っている。

1 thought on “上田丸子電鉄 クハ252・253他

  1. はじめまして。
    上田丸子電鉄をこよなく愛する1ファンです。

    昭和62年発行の銀河書房「なつかしの上田丸子電鉄」(唐沢昌弘氏他編集)という書籍がありますが、その本の別冊付録に上田丸子電鉄所属のほぼ全ての車両の写真集があり、そこにはクハ252・クハ253のそれぞれ流線型時代と正面3枚窓写真が掲載されております。私は当時それを見て(もちろん本を所有しております)既にこの姿の存在を知っておりました。

    ご参考までに。

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