市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑩

深草下川原町

では、また京都市電伏見・稲荷線に戻って、停留場ごとに50年前のシーンを巡っていきます。河さんにとってはホロ苦い思い出の残る、深草下川原町から始めます。前記の勧進橋から、棒鼻の手前まで約2キロは、ほぼ一直線の竹田街道を南下していきます。ただ明治の頃は、ここから少し西を流れていた高瀬川に沿った、曲がりくねった道で、京電も同様に走っていました。明治45年に、一直線の広い道に付け替えたもので、京電も同様に移設されています。今でも、竹田街道を歩くと、交差する小さい道とは、少し高低差があり、拡幅時期に、低い土地に盛り土をして、新しい竹田街道を通したことが伺えます。市電時代には、まだ田んぼも散見されますが、大部分は工場・民家が混在した車窓風景が続いていました。正直、なかなか絵にはなりにくい区間で、撮影もスルーすることが多く、今回も、Mさんの貴重な記録で助けてもらいました。

【深草下川原町 新旧対比】

この付近では、竹田街道の東側を市電が走っていた。もちろん安全地帯も無く、乗客は命がけで電車に乗り込んだ。右の現況と対比すると、右手のビルがそのまま。

 

▲ 勧進橋から深草下川原町に到着。▲ 9号系統同士が交換する。▲ 勧進橋~深草下川原町を行く。

MEMO 京電の旧ルート

前記のように、明治28年の開業時、京電は、高瀬川沿いの竹田街道の旧道を走っていた。いまも竹田街道が高瀬川を斜めに渡るところに、西へ斜めに入る細い道路がある。これが、明治期に、京電も走っていた旧竹田街道に当たる。上図は、大西友三郎さんの記事のなかの地図を抜粋したもの。左側の「高橋」から、高瀬川に沿って右へ、屈曲した道を通って、城南宮道付近で、いまの竹田街道と合流している。以前、別の史跡巡りのフィールドワークで、この道を歩いたことがある。京電の面影は全く残っていなかったが、旧家が多くあり、その塀などに、江戸時代まで竹田街道に敷かれた車石が転用されていて、いかにも旧道を思わせた。なお「高橋」は、深草下川原町の旧称で、高橋はいったん廃止されるが、昭和33年に深草下川原町として復旧している。  竹田街道(左)と高瀬川(右)が交わるところ。

 市電が走った街 京都を歩く 伏見・稲荷線⑩」への2件のフィードバック

  1. 深草下川原町を急がせておきながら、コメントが遅く成り申し訳ありません。
    今回のモノクロ4葉の内、最初の1枚は感無量でした。
    画面右端に写っている水道工事系の工務店が特に記憶に鮮明だからです。
    と言うのも、彼女宅からの帰途はこの資材置き場の前から京都行に乗ったからです。
    他の3葉も夫々嘗て見た光景だと、思い出しながら『鑑賞』させていただきました。
    しかし、悔やまれるのは、その当時1枚も写真を撮って無い事です。
    小生が京都市電を撮り始めたのは1961(昭和36)年で、中でも伏見線は1963(昭和38)年になってからでしたので、記録的な価値が薄く悔やんでおります。
    ところで、アップされている写真の車両は、どれも市電全盛期とも言うべき時代の生き生きとした姿で、懐かしさが込み上げて来ます。
    一方、貴殿が定点観測風に撮られた現在の情景は、今昔対比に最適ですネ。

    • 河さま
      こちらこそ、掲載も遅れ、コメントも遅れてしまい、失礼しました。感無量の一枚、見ていただき、ありがとうございます。写真というのは、人それぞれの思い出が詰まっていること、改めて思いました。このビルは、工務店でしたか。当時の写真を見ますと、このビルしか目立つ建物はありませんでしたから、記憶に残ったことと思います。河さんが伏見線を撮られたのは昭和38年ですか。それこそ貴重な記録ですよ。私が撮ったのは、廃止の数日前が大部分です。廃止の7年も前から、意識して撮影されてきた河さんこそ、真の記録だと思います。

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