キハ40000の謎を追って

宮崎交通のチハに始まり盛り上がったキハ40000ですが、宮崎繁幹様からキハ40004の貴重な写真のご紹介があり、撮影時期や撮影場所の手がかりを探るために手元にある本から添付のようなキハ40000配置表を作ってみました。元になった資料は、昭和41年朝日新聞社発行の「世界の鉄道’67」です。巻末に昭和10年以降2年ごとの全国の蒸気機関車の形式別配置表があります。その中に気動車も形式のみですが記載されていて大変役に立つのです。高校生のときに大金530円で買った本ですが、50年経った今でも有用な1冊です。「世界の鉄道」は’62年から70年代まで発行され、特に巻末の各種データは色あせることのない貴重な情報源です。まさに「いい仕事してますねー」です。

キハ40000配置表

昭和9年に30両が誕生したキハ40000ですが、北海道と四国には配置されることはなかったことがわかります。昭和10年の合計が31両になっているのですが、年度内に移動があったものがダブルカウントされているのかもしれません、また戦時供出や戦災、私鉄への譲渡などを▲で織り込んだのですが、総数の計算が合いません。ただこの表の目的は配置区探しが目的なので、数値の不整合はご容赦下さい。( )は休車を示します。

北から見てゆくと、大館、仙台、長町が出てきます。大館なら花輪線か阿仁合線用?、仙台・長町は仙山線?、でも勾配に弱いのなら力不足?と謎は深まります。福島は川俣線、会津若松は日中線、白河は白棚線などが考えられます。烏山は烏山線でしょう。5両も集中配置されていたようです。水戸は水郡線? 木更津は久留里線、大原は木原線用でしょう。大垣は美濃赤坂線でしょう。キハニ5000の後継で、あるいは西濃鉄道に乗り入れていたかもしれませんね。相可口は現在の多気です。名松線か参宮線、あるいは紀勢東線用だったかもしれません。鳥取は若桜線、あるいは倉吉線、浜田は三江北線? 正明市(現在の長門市)は仙崎線でしょう。川内町は宮之城線、宮崎は妻線か細島線、吉松は吉都線か山野線でしょうか、昭和16年には8両も集中配置されています。鹿児島は指宿線でしょうか。昭和25年に2両が大宮工場でキサハ40800に改造され、昭和32年にキサハ041,2と改番されています。キサハ042が米子で境線用で一生を終えたのですが、宮崎様ご提供のキハ40004の晩年であるキサハ041の最終配置区がわかりません。昭和38年2月1日廃車ですので、それ以前の配置表をお持ちならどなたかご教授下さい。

さて肝心の宮崎様の40004撮影場所は一体どこなのでしょうか?木造の単線庫があり、それなりに広い構内がある感じの駅や機関区。宮崎様のコメントに川越線や大宮が登場しますが、この表には大宮はありません。もとより2年毎の配置なので、移動が激しくたらい回しにされていれば抜け落ちていることも考えられます。

ということで、ここでお手上げ状態となりました。DRFC探偵団はじめ、多くの皆様の推理結果をご披露下さい。

キハ40000の謎を追って」への11件のフィードバック

  1. 手許の資料によりますと、キサハ04 1は、

    40004昭和9年3月日車支→キサハ40800昭和25年6月新小岩工→昭和30年3月現在新ナオ→キサハ04 1→昭和32年4月1日現在新ナオ→昭和34年3月31日現在熊ヒト→以後異動無し→昭和38年2月1日廃車達34鹿児島工解体

    とありました。最終配置は熊ヒトですね。40004時代の配置はわかりません。昭和25年の改造も新小岩工となっています。

    • 井原様
      困ったときの「井原様頼み」です。ありがとうございます。直江津から人吉と流れていったのですね。直江津や人吉ではどんな毎日を送っていたのでしょう。宮崎様のあの写真は一体どこなのか、今夜は眠れそうにありません。

  2. ご参考までに、RM LIBRARY 1号(1999年8月1日発行)のP24にキサハ40800(1951.6.3 大宮機関区)、P39にキサハ04 2(1965.4.28 米子機関区)の写真が掲載されています。

    • INUBUSE様
      ご無沙汰致しております。P.24は見落としていました。1951年は確かに大宮にいたようですね。p.39の米子の写真を見て、むしょうに作りたくなってペーパーで作りました。

  3. 宮崎様のあの機関庫がどこだろう、何かヒントがないかと思い、大正出版刊「鉄道風景懐古Ⅱ」を見ていましたら、p.78に昭和42年4月5日に鳥栖機関区で撮影されたキハ40000の廃車体の写真が掲載されていました。何と撮影者は「DRFC-OB」です。この「DRFC-OB」は一体どなたでしょうか? 雨樋の形状から、人吉のキサハ041のなれの果てではなさそうで、九州各地にいたキハ40000のどれかが、倉庫として戦後、それも昭和42年まで生き残っていたことになります。

    • はい、何を隠そう、この私の撮影です。出版社から乙訓の長老さんに依頼があり、二人の写真を中心にOB全体から写真を集めました。この時は、いま連載の九州の蒸機の第1回目の時で、鳥栖機関区へ蒸機を写しに行った時でした。当時、鳥栖には、ほかにも廃車体があったように思います。前歴については、何かに書いてあったように思います。須磨の人間国宝さんが鳥栖のお生まれですから、“デジ青”だったような気もしますが、今後、調べておきます。

    • 総本家様
      あなたでしたか。昭和42年ということはDRFCに入学する以前ですね。須磨の人間国宝さんから40002だと聞かれたそうですが、40002は戦災を受けて昭和24年1月24日になって廃車されています。キハニ5000の足跡をたどるのも難儀しましたが、キハ40000も手に負えないですね。

  4. 久しぶりにお邪魔致します。
    さて、長町のキハ40000ですが、昭和9年の時刻表を見ますと、塩釜線は全部、仙山線は一部気動車を使っております。すでに後継のキハ41000も登場しておりますので、どちらかとなると難しいですが、キハニ5000も使用したことがある塩釜線の方が坂もなく楽でしょうから、おそらく塩釜線かと思われます。

  5. 暫く留守にしている間に、別項目まで立てて、キハ40000の話題で盛り上がっているのに、驚きました。西村さまには、配置変遷表まで作成頂き、有難うございます。朝日の世界の鉄道は小生も出たときに買って持っていますが、気動車のことを調べるのにも、誠に有益な資料なのですね。宝の持ち腐れであったと反省致しました!

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