1981年小松島のキハニ5000廃車体 投稿日時: 2017年1月16日 投稿者: 井原 実 昭和56年1月18日に小松島で撮影したキハニ5000の廃車体をご覧にいれます。 妻面の札には「毎月一日点検整備清掃」と書いてあります。自動車の車庫のようです。こちら側の荷物扉には「荷物」、窓下には三等の標記があります。 「5006」の上に「ハニ」が薄く読めます。「キ」は読み取れません。 帰りは小松島港から船で和歌山に渡り、南海電車で帰りました。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 小松島のニ5000廃車体
井原様 貴重な廃車体の報告、ありがとうございます。それにしても、30年余前に、まだこのような廃車体が残っていたとは驚きです。井原さんは、各地に人知れず残る廃車体を写すためだけに、飛行機で日帰りされて撮っておられたことは承知していますが、何か情報があったのでしょうか。それとも独特の臭覚で見つけられたのでしょうか。 私も以前、鳥栖機関区にあった同じく鉄道省のキハ40000の廃車体をレポートしたことがありましたが、これは地元、鳥栖のお生まれの湯口先輩から、車番はキハ40002であるとの親切なご教示をいただきました。これを写したのは昭和42年のことで、しかも両数のあったキハ40000ですから、両数の少ないキハニ5000を、昭和56年に記録されたのは貴重です。 井原さんの以前投稿された東武鉄道の旧型電車(形式は失念しました)のカラーは、たいへん貴重な記録だと、今でも準特急さんとの、“デジ青論議”の語り草になっています。今後も、“眠れる獅子”の惜し気もない発表を期待しています。 返信 ↓
総本家青信号特派員様 ホメ殺しのようなコメント恐れ入ります。 この時も往路は伊丹から徳島まで飛行機で行きました。学生時代と違い、時間がとれないのでなんとか金の工面をしてあちこち行っていたのです。 返信 ↓
いや凄いですね。廃車体を追いかけること自体が大変なのに、当時に飛行機での日帰りとは中々出来ないことだと思います。相当の思い入れがおありだったのだろうと拝察します。 それにしても特派員さま同様、よく昭和56年まで残っていたものと驚きます。利用環境や存置場所等の諸条件に恵まれていたのでしょう。 ところで一連の投稿初期から何故「小松島」に残っていたのかが気になっていましたが、どなたか事情をご存じの方がおられましたら、お教え頂けませんでしょうか。常識的にはかつて小松島港線に使用されていたものが、用途廃止後そのまま存置されたと考えるのが妥当ですが、これでは余りに常識的過ぎますし、徳島でなく小松島というのがミソですね。小松島(港)に機関区でもあったのでしょうか? 返信 ↓
1900生様 いつまで残っていたのでしょうか。鉄道友の会『RAILFAN』No.428「別冊:保存車・廃車体一覧1」1989年3月臨時号には載っていません。さすがに腰板裾はボロボロですが、屋根がしっかりしていたのでしょうか。通風器がまだ少し残存していますし、水切りも現役時のままのようです。 ハニ5004,5006,5007は3両とも昭和23年10月に廃車になっています。よくぞ残っていたものだと思います。 返信 ↓
湯口 徹 様 ご教示賜り有難うございました。やはり小松島に機関区があったのですね。徳島が支区だったとは、最近の感覚からすると信じられません。とはいえ三原と糸崎のように、鉄道の拠点が必ずしも大きな街にあるとは限らず、輸送上の都合や用地確保等で異なる例もありますから、小松島もかつては輸送上の拠点だったのでしょう。 返信 ↓
井原様 湯口先輩の貴重な記録に続いて またまた衝撃的な写真を見せて頂きありがとうございます。廃車体が自転車置き場として利用されているのは くりはら田園鉄道で見たことがありますが、車庫に改造とはだれが思いついたのでしょう。車体幅が広く、鉄板屋根で車体もしっかりしていたのでしょうね。湯口先輩の写真の4枚目 防火用水のドラム缶が写った2両の奥側が 妻面をウインドウヘッダーの高さまで切り取られたように見えます。ハニ5006は荷物室側の妻面を雨どいの高さまで切り取られています。両車が同じものなのか、別物なのか興味をそそられます。こうして何枚もキハニ5000の写真を見ていると ここのところなりを潜めていた模型ごころを刺激されています。ただこんなに深い屋根板は手元にないし、1両ではなく2両作らないとムードが出ないかなどなど心中穏やかではない日が続いています。キハニ5000が短期間でも糸崎にいて、呉線を走っていたことは間違いがないので その記録写真がないかとあちこち当たっていますが、未だに発見できていません。模型作りの代わりに沼田川橋梁を渡る絵を描くことはできるけれども車体の向きはどちら向きだったのだろうか?転車台もあったのでどっちでもいいかなど ヒマな年金生活者には時の経つのを忘れさせてくれたキハニ5000でした。湯口様、井原様 ありがとうございました。 返信 ↓
小松島には機関区,客貨車区,材修場が有りました。ハニ5000の廃車体の他に2軸客車の廃車体や機関区の食堂としてオープンデッキの客車の廃車体が現存していました。ハニ5000は戦時中客車代用として徳島近辺で使用されていたと思われます。なお昭和30年頃B形テンダーSLが小松島駅横で解体された記憶があります 返信 ↓
小松島客貨車にはハニ5000形の廃車体は4両有ったと思います。キハニ5000で小松島機関区に配属され徳島近郊で使用されて戦争で燃料が無くなり客車代用として徳島付近の近郊区間に使用されたものと思われます、トイレ無しなので池田や牟岐までは走ってなかったと思います。オハ31系や木造客車等と組んで走っていたのかなオハ60形が配属されるまでは、それから暫くしてオハ61系ボディーは新車で配置されてきてオハユニ61 91~93が配置になり救援車なっても小松島からは離れなかったが一両が高知に行きましたが。 返信 ↓
井原様
貴重な廃車体の報告、ありがとうございます。それにしても、30年余前に、まだこのような廃車体が残っていたとは驚きです。井原さんは、各地に人知れず残る廃車体を写すためだけに、飛行機で日帰りされて撮っておられたことは承知していますが、何か情報があったのでしょうか。それとも独特の臭覚で見つけられたのでしょうか。
私も以前、鳥栖機関区にあった同じく鉄道省のキハ40000の廃車体をレポートしたことがありましたが、これは地元、鳥栖のお生まれの湯口先輩から、車番はキハ40002であるとの親切なご教示をいただきました。これを写したのは昭和42年のことで、しかも両数のあったキハ40000ですから、両数の少ないキハニ5000を、昭和56年に記録されたのは貴重です。
井原さんの以前投稿された東武鉄道の旧型電車(形式は失念しました)のカラーは、たいへん貴重な記録だと、今でも準特急さんとの、“デジ青論議”の語り草になっています。今後も、“眠れる獅子”の惜し気もない発表を期待しています。
総本家青信号特派員様
ホメ殺しのようなコメント恐れ入ります。
この時も往路は伊丹から徳島まで飛行機で行きました。学生時代と違い、時間がとれないのでなんとか金の工面をしてあちこち行っていたのです。
いや凄いですね。廃車体を追いかけること自体が大変なのに、当時に飛行機での日帰りとは中々出来ないことだと思います。相当の思い入れがおありだったのだろうと拝察します。
それにしても特派員さま同様、よく昭和56年まで残っていたものと驚きます。利用環境や存置場所等の諸条件に恵まれていたのでしょう。
ところで一連の投稿初期から何故「小松島」に残っていたのかが気になっていましたが、どなたか事情をご存じの方がおられましたら、お教え頂けませんでしょうか。常識的にはかつて小松島港線に使用されていたものが、用途廃止後そのまま存置されたと考えるのが妥当ですが、これでは余りに常識的過ぎますし、徳島でなく小松島というのがミソですね。小松島(港)に機関区でもあったのでしょうか?
1900生様
いつまで残っていたのでしょうか。鉄道友の会『RAILFAN』No.428「別冊:保存車・廃車体一覧1」1989年3月臨時号には載っていません。さすがに腰板裾はボロボロですが、屋根がしっかりしていたのでしょうか。通風器がまだ少し残存していますし、水切りも現役時のままのようです。
ハニ5004,5006,5007は3両とも昭和23年10月に廃車になっています。よくぞ残っていたものだと思います。
小松島には機関区と、(客貨車)検車区がありました。徳島は機関支区です。
湯口 徹 様
ご教示賜り有難うございました。やはり小松島に機関区があったのですね。徳島が支区だったとは、最近の感覚からすると信じられません。とはいえ三原と糸崎のように、鉄道の拠点が必ずしも大きな街にあるとは限らず、輸送上の都合や用地確保等で異なる例もありますから、小松島もかつては輸送上の拠点だったのでしょう。
井原様
湯口先輩の貴重な記録に続いて またまた衝撃的な写真を見せて頂きありがとうございます。廃車体が自転車置き場として利用されているのは くりはら田園鉄道で見たことがありますが、車庫に改造とはだれが思いついたのでしょう。車体幅が広く、鉄板屋根で車体もしっかりしていたのでしょうね。湯口先輩の写真の4枚目 防火用水のドラム缶が写った2両の奥側が 妻面をウインドウヘッダーの高さまで切り取られたように見えます。ハニ5006は荷物室側の妻面を雨どいの高さまで切り取られています。両車が同じものなのか、別物なのか興味をそそられます。こうして何枚もキハニ5000の写真を見ていると ここのところなりを潜めていた模型ごころを刺激されています。ただこんなに深い屋根板は手元にないし、1両ではなく2両作らないとムードが出ないかなどなど心中穏やかではない日が続いています。キハニ5000が短期間でも糸崎にいて、呉線を走っていたことは間違いがないので その記録写真がないかとあちこち当たっていますが、未だに発見できていません。模型作りの代わりに沼田川橋梁を渡る絵を描くことはできるけれども車体の向きはどちら向きだったのだろうか?転車台もあったのでどっちでもいいかなど ヒマな年金生活者には時の経つのを忘れさせてくれたキハニ5000でした。湯口様、井原様 ありがとうございました。
西村様
おでこにラジエーターを付けた特徴あるスタイルで走り回ったら楽しいでしょうね。
小松島には機関区,客貨車区,材修場が有りました。ハニ5000の廃車体の他に2軸客車の廃車体や機関区の食堂としてオープンデッキの客車の廃車体が現存していました。ハニ5000は戦時中客車代用として徳島近辺で使用されていたと思われます。なお昭和30年頃B形テンダーSLが小松島駅横で解体された記憶があります
小松島客貨車にはハニ5000形の廃車体は4両有ったと思います。キハニ5000で小松島機関区に配属され徳島近郊で使用されて戦争で燃料が無くなり客車代用として徳島付近の近郊区間に使用されたものと思われます、トイレ無しなので池田や牟岐までは走ってなかったと思います。オハ31系や木造客車等と組んで走っていたのかなオハ60形が配属されるまでは、それから暫くしてオハ61系ボディーは新車で配置されてきてオハユニ61 91~93が配置になり救援車なっても小松島からは離れなかったが一両が高知に行きましたが。
武富士様
キハニ5000の最期をご覧になった方として貴重なコメントありがとうございます。
ハニ5000から倉庫になったのではなく、いったん救援車になっていたのですか。
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