『三井化学専用線』の終焉

2005年前後に使っていたHDD内のネタ、第3弾です。
と言うか、893-2 さんの『三井化学専用線/2020.5.29/Posted by 893-2』へのコメントに対し、某氏から督促の教育的ご指導もあり、掲載する次第です。 (汗)

遂に廃止となるのですね。「お疲れ様」と労います。
なにぶん1972年春に撮影したもので、誤謬や錯誤の、ご指摘など、宜しくお願い申し上げます。

【三井三池の車輌達】
正式な名称は「三井三池港務所」(当時)です。
舊くは“黒いダイヤ”のヤード集積に、高度経済成長期には大牟田コンビナートの産業路線として、“三井”と 共に歩んで来ました。

凸電機2号

20t、シーメンス機
カワユイ凸電です。COPY機として、菱造・三作製などが有ります。


大型電機20号

45t、東芝(戦時)標準型
どこの中小私鉄でも居そうな代物。「ゴッツイ」と言う感じです。

L型電機8号

15t電機、8号
電気機関車と言うより、貨車移動機の感がします。
なお運転室への入口は、分かりませんでした。(窓から入るのカナ?)

L型電機4号 [使用後の姿]

L型電機の使用后
運転台撤去で目方(自重)が減った!?

客車201系 [ホハ203]

ホハ203
無電装63型。ほぼ原型に近いと思われます。汚れが酷くて涙しました。

客車101系 [コハ106]

コハ106
汚れの目立たない綺麗な状態でした。

蓄電池車 [デ4]

蓄電池車、デ4
トロリーの無い所へ行きたい時に、ゴヤッカイになります。

リール給電車 [リル2]

リール給電車、リル2
何んか、リモコン模型の様ですね。

SLー251 [模型化設計図]

巨大図
蒸気機関車 251号、模型化設計図(参考図)

 

『三井化学専用線』の終焉」への5件のフィードバック

  1. 鉄鈍爺さま
    督促しておきながら、御礼もせずに申し訳ありません。三池炭坑専用線の華やかなりし頃の写真を堪能しました。原型の63型客車は、とくに堪りませんね。この時代、カラーで撮られていて、たいへん貴重です。私も、いま九州の蒸機のことを綴っていますが、蒸機に集中したばかりに、三池炭坑線は訪問したことがありませんでした。線路跡は、たしか世界文化遺産に指定されています。また廃線跡で当時を偲びたいと思っています。

    • 総本家青信号特派員さま、コメントありがとうございます。
      1972年と言えば、オイルショック(1973年10月)の直前です。
      この頃(今でもそうでしょうが)は無断で工場内へカメラを持ち込むのは厳禁で、特に三井アルミでは敷地外から工場の建屋を撮っていても警備員から質問されたりしました。
      2000年代初頭に個人的にHomePageを作っていました。それを『デジ青』へ載せるのは重複となるので、控えておりました。

  2. 鉄鈍爺様
    多分 この模型化設計図を書かれる元になった図面をなぜか私が保存しています。最初は青焼きのきれいな図面だったのでしょうが、今では渋紙状態です。表題欄の消えかかった文字を判読すると、「縮尺1/20、昭和23年3月29日製図、乙~C~25タンク機関車 第一號図」とあり、「立山重工業株式会社LB0110ヲ寫図」と注記されています。昭和22年 立山重工業製の乙C25型に間違いなく、三井三池港務所のC251,C252の図面です。大阪ガス京都の6号機、7号機と同型機です。なぜこの図面が私の手元にあるのか記憶にありませんが、鉄鈍爺様が関わっておられたのは確かなように思います。さて富山にあった立山重工業(前身は本江機械製作所)は、機関車製作が昭和9年から昭和28年までの19年間で、大半が戦時統制下の過酷な時代にもかかわらず、468両のタンク機を世に送り出した末に倒産しています。この図面をどのように保管すべきでしょうか?

    • 西村雅幸さま、コメントありがとうございます。
      その図面は当方が差し上げたものです。不要なれば適宜、ご処分ください。
      実は同じ図面をパネル貼りしていまして、誰かに差し上げようと思っています。

      • 鉄鈍爺様
        やはり貴殿に頂いたものだったのですね。それにしても私のものは変色しまくりですが、貴殿のものがきれいな青色を保っていますね。色は褪せても貴重な図面には違いなく、大切に保管します。

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