5月23日と29日に「単行キハ120の3密問題」を話題にしました。広島県内では三次市の福祉施設でクラスターが発生したこともあって県北住民の関心は高く、JR広島支社や三次鉄道部は最大顧客の高校生の声を早速聞き入れて対応してくれました。住民からも歓迎の読者投稿も載りました。
そして6月1日 臨時列車の運行開始にはNHKや民放のテレビ取材があり、何度もニュースで流れるという取扱いでした。
キハ120の旅客定員は座席49、立席63の112人(0番台、300番台)ですので、定員一杯の運行が続いていたことになります。かつて出町柳から八幡前まで3年間乗った叡電の車内風景をなつかしく思い出しました。
都会地では臨時列車が1本増発されたというようなことは、ニュースネタにもならないでしょうが、コロナ禍という事情はあるにせよ、花束贈呈をするほど高校生にとって鉄道が日常生活の大切な一部であることを改めて感じさせられました。
残された課題は、キハ120は固定窓のため換気が難しいという点です。ベンチレーターは「開」にしてあるでしょうが、やはり窓の一部が開けられた方が見た目にも良いのではと感じます。最近の新造車両は密閉窓が多いですが、今後はバスを含め密閉窓は時代遅れになるでしょう。貫通扉を開放して走れば効果抜群でしょうが、これはさすがに運転規則で許されていないでしょう。かつてエアコンがない時代に、飯田線かどこかで貫通扉を開けて走っていた電機を撮った記憶があります。おおらかな時代だったのでしょうが。
吉舎という地名を聞くとすぐに反応してしまいます。一度訪れたところは(2016年5月に訪問しています。吉舎から西村さんとご一緒しました。)自分のふるさとのような気がして、再び訪問した時は帰って来たような感じがします。なかなかいいニュースだと思います。石見銀山街道の宿場町で栄えていたようです。日彰館高校があるのですが、どこでも同じように寂しい町でした。駅で西村さんに合流する前に何か食事でもと思たのですがパンを売っている店を見つけて買ったのですが、そこのおばさんの言葉が印象が残っています。「高校がなければしょぼい町ですよ。」と。登録有形文化財になっていた写真館の建物はどうなったのでしょうか。写真の右側がその写真館で奥にあるのが造り酒屋ですがすでに廃業していました。
どですかでん様
吉舎の街歩きをしてから、もう4年が経ったのですね。結局あれから吉舎を訪れたことはなく、田中写真館やその先の馬洗川にかかる巴橋の向こうにある「福六酒造」の立派な建物が今も健在なのかわかりません。上下の街も吉舎の街も時計が停まったような静けさでしたね。
西村さん推薦の「風通し対策準急エルム」
米手作市様
恐れ入りました。後部とは言え時代を先取りしていたようですね。「北海道観光号 エルム」となっていますね。臨時列車なのでしょうか。薄いクリーム色の制服・制帽の「専務車掌」が時代を感じさせてくれます。準急「エルム」が気になって、昭和36年の時刻表を見てみると、205レ、206レとして室蘭・札幌間を1往復していた準急列車でした。勿論客車です。巻末の編成表には、ハニ-ロ-ロハ-ハ-ハ-ハ-ハと書かれていました。さてここで問題です。昭和36年当時室蘭や苗穂にいたハニとかロハとはどんな形式だったのでしょうか。客車の神様、教えて下さい。ところで、この写真の撮影場所は複線ですが、室蘭本線ですか?それにしては山が迫っているので、函館本線の落部辺りかとも思うのですが。
まず撮影場所ですが、函館本線の大沼公園あたりです。1枚目に片腕が写っているのは『立山を愛する会』会長のM田君です。1965年8月撮影。
さて、客車の型式ですが、配置表も持っていないし資料もありません。昭和35年前後のピクを見ましたがそこにも載っていませんでした。
安楽椅子マニアの私には手も足も出ないので許してください。
西村さんのお題は、36-10で消えた準急「エルム」の最末期という、いにしえの列車ですので、調べるのに時間がかかりました。客車は札ムロで、ロはスロフ30、ロハはオロハ30とスロハ31、ハはオハ35,スハ32,スハ33,スハフ32を使用していたようです。ところがハニはスハニ62しかなく、準急行料金200円を払ってシートピッチの狭いスハニ62やオロハ30のハ室しか空席がなかったら泣けてきそうです。なお、当時苗穂には営業用車の配置はありません。
井原様
お手数をおかけしました。ダブルルーフのスロフ、オロハ、スロハでしたか。スハニ62も含めて、二重窓ではないですね。比較的暖かい地域を走る室蘭本線なら内地仕様の客車でよかったのでしょう。ところで、そうなると二重窓の客車が走り始めたのはいつ頃のことですか?
その後も調べていたところ、鉄P誌777号59ページに、1960年9月30日の準急「エルム」の編成メモが掲載されていまして、それには札サツのスハニ32,スロフ30,スハ32,スハフ32,札オタのスロフ30となっていました。ですので、最末期は受持が札サツに変わっていたことになります。お詫びして訂正します。
また、スハニ62は元々北海道向け形式で、鋼体化当初から二重窓です。鋼製客車では戦前のスハ32形式あたりから北海道割り当ての番号は新製時から二重窓で登場しました。また、本州から転属したら二重窓・蓄電池・トイレの暖房強化等改造を実施しましたが、中に二重窓にしなかった客車もあったようです。詳細はわかりません。(私は二重窓ではない客車は北海道で見たことがありません)。
井原様
引続きの調査、恐れ入ります。福塩線の臨時列車の話が、なぜか北海道の客車の話に飛び火するところが、デジ青の妙味でしょうか。室町ボックスを思い出します。
西村雅幸さま 米手作市さま
外出自粛中のうたた寝からやっと目覚めましたので「エルム」について少し説明させて頂きます。元の客車準急が増発された「ちとせ」グループの一員となり、最終的にはDC化された経緯は皆さまのご説明の通りです。
写真の「エルム」がいつ頃撮影されたのかわかりませんが、「エルム」がその後観光団体列車の愛称に転用されたものと思われます。手元にある1967年(昭和42)7月号時刻表によると、夏季臨時列車のページに記載がありました。同じ「エルム」以外にも第1・第2とあったり、運転経路が複雑で、案内がたいへんだったろうと思われますが、下記に記しますと
A「第1エルム」:8/13~8/15運転
函館8:18-9113D-(山線経由)ー14:10札幌
B「第2エルム」:8/13~8/15運転
函館12:10-9219D-14:10札幌
C「エルム」:8/14~8/16運転
札幌9:15-9813D-13:01上川
D「エルム」:8/15~8/17運転
室蘭7:47-9403Dー17:16釧路
E「エルム」:8/12まで及び8/16~9/12運転
洞爺15:11-9219D-17:57札幌
F「第1エルム」:8/19~8/21運転
札幌5:33-9218D-11:06函館
G「第2エルム」:8/19~8/21運転
札幌11:18-9114D-(山線経由)ー17:07函館
H「エルム」:8/18~8/20運転
上川13:24-9818Dー16:44札幌
K「エルム」:8/17~8/19運転
釧路10:25ー9406Dー19:20室蘭
となっています。
実はこれらエルム号の運転形態は、臨時列車とはいえ長年悩みのタネでした。しかし「今回観光団体専用列車エルム」の写真を拝見していくらか謎が解けました。
運転区間に札幌~上川や室蘭~釧路という通常設定以外の変わり種ルートがあることや、D・Kエルムが苫小牧~岩見沢間室蘭本線経由であることなどが、観光列車用のスジを利用していたと推測されることで腑に落ちました。
ただ運転期間にはまだ謎も残ります。函館発着の上下は日程的に対になっていますから、お盆期間の対本州繁忙期増発だと思いますが、あとのエルムはその運転期間の微妙なズレから、お盆期間の道内繁忙対応にしてはやはり疑問符が付きます。あり得ないこととは思いますが、もしや団体列車の一部を一般に開放していた可能性も考えられないわけではありません。しかしいかに北海道とはいえ、お盆に団体列車が走ったかどうか疑問も多く、やはり不思議な臨時列車だったといえます。
因みに撮影ポイントは大沼駅の南方約1㎞ほどの道路からかと思いますが、ここは割合早くに樹木が茂り、ほどなくこういう構図では撮れなくなりました。
拡大図
これであれば風通しがバッチリのようですが、開いているのは後ろの貫通扉ですよね。流体力学的に考えると・・・難しすぎるのでやめておきます。それで模型で思い出しました。模型の世界でも風通し対策でこんなのが「青信号31号」にありました。記事は私の2年後輩のS君です。文字が読めるでしょうか?