青春18で巡る四国3日間(その2)

国鉄時代の塗装のキハ185系剣山6号と交換、阿波川島。

(徳島から普通で高知へ)

徳島からは11時38分発の449D阿波池田行きに乗ります。JR四国の1200型ディーゼルカーの4連です。この1200型は、もともと1000型でデビューしたものを、後で出てきた1500型と併結が出来るように改造したものだそうです。特急剣山なら徳島―阿波池田を1時間10分ほどで走破するところ、鈍行なら倍の時間かかりますが、平成の新造車なので空調付きの空気ばね車で、固定クロスだが国鉄時代の直角シートと比べるとかなり上等です。

449D阿波池田行の1200型、阿波川島

カンカン照りの酷暑の日中、沿線を歩いて撮影するのはとても辛く、この時期は、クーラーが効いた快適な車内でのんびり景色を眺めながら時間を過ごす方が豊かな気分になるというものです。1000型、1200型は新鋭車だと思っていましたが、1990年の登場なのでもう30年以上経つことになります。ローカル用といっても400馬力のエンジンなので加速はなかなか鋭いです。

JR四国のキハ40系は、国鉄時代のエンジンDMF15のままなので発進時、エンジン音が高まってから緩慢に加速するのとはだいぶ違います。田園風景を眺め12時57分に穴吹着。ここで1両を切り離します。徳島から阿波池田まで直通する運用は、下りだけで8本ですが、徳島―穴吹の区間運用ならもっと多く、切り離した単行が折り返します。穴吹からは、吉野川に接近します。徳島線での有名撮影地は、吉野川をバックに収めた阿波加茂―辻ですが、この場所では、本数も少なく移動に難があるので撮ったことはありません。吉野川を離れ山間に入り、ほどなく終着の阿波池田に13時47分に着きました。

山深い大歩危小歩危をゆく

四国まんなか千年ものがたり号と交換、大歩危。

土佐北川駅

阿波池田からは、2分の接続で始発の土讃線4237D高知行に乗り換えます。これを逃すと3時間待たねばならなくなるので選択肢はありません。この間、特急南風なら3本もあるのですが。4237Dは、1000型の単行で、南風なら1時間10分程度で高知に着くところ、倍の時間をかけてゆっくりと行きます。この区間は久しぶりで、2006年の夕方以降に高知から岡山まで南風に乗って以来です。もう暗くなってから乗ったので、大歩危小歩危の景色は新鮮であり、吉野川に沿う景色は峻険で見ごたえがあります。わざわざJR四国が観光特急「四国まんなか千年ものがたり」を多度津から大歩危の間を走らせているのも解ります。高知には16時6分着。長く行っていない間に高架駅になっていました。県庁所在地の駅で非電化なのは、他に徳島、鳥取くらいのもので、徳島駅は地平ですが、駅前は、高知駅よりも広大で賑やかに感じました。

高知では、また16時9分発の須崎行、741Dで伊野まで20分ほど乗ります。伊野では高知発の特急あしずりの2000系振り子式ディーゼルカーと観光特急「志国土佐時代の夜明けのものがたり」号を撮ります。2000系は、南風やうずしおで主力だった頃は何とも感じませんでしたが、撤退後は高松や徳島で普段見れないので懐かしく見ました。

JRの伊野駅

2000系あしずりとキハ185系志国土佐時代の夜明けのものがたりの交換、伊野。

2000系あしずり、伊野。

志国土佐時代の夜明けのものがたりは、高知―窪川の間をキハ185系改造の二連で走る観光列車で、松山の伊予灘ものがたり、大歩危小歩危の四国まんなか千年ものがたりと同様、風光明媚な景色を眺めながら土地の名菜を味わうもので、盆時期でもあってか盛況のようでした。この列車、高知窪川72.1キロを2時間40分かけて走るのですが、特急のグリーン車とあって料金は3970円、弁当は事前予約制で別途5000円かかります。キロ47時代の伊予灘ものがたりには乗ったことはありますが、特別なおもてなしのある列車との期待を裏切ることなく、お値段以上の価値は感じました。JR四国に限らず、乗ること自体をハレの日のイベントとする「おもてなし」列車の興隆はまだまだ続くと思われます。

とさでん交通、西の終点、伊野駅。

とさでん交通600型、伊野駅前。

後、並走するとさでん交通の600型を伊野駅前で撮ってから高知まで戻ります。宿に入ると、昨晩の寝不足と疲労もあってか、すぐ寝てしまいました。

前へ戻る    続く

 

青春18で巡る四国3日間(その2)」への36件のフィードバック

  1.  酷暑の中での撮影は本当に大変ですね!エアコンの効いた車内でゆっくりと移動する方が豊かな気分になる!その通りかなと思います。
     1200型は30年も経っているんですね!新しく思いますが・・その快適なクロスシートはどんなんかな?写真があれば是非見せてください。

    • マルーン様
      1000・1200型のボックスシートは、国鉄時代のそれと比べて少し洗練されたデザインに変わっているように見えました。むしろ、快適さは、一人で1ボックスを占有する時間が長かったので、靴を脱いで足を伸ばせたことも大きいです。あ、それなら旧型客車での体験と同じですね。すみません。別時期に撮った1000型の車内写真を添付しておきます。

      • ブギウギさん、早速に有り難うございます。
        グリーンが鮮やかですね!
        車内が空いていて、ボックスを占有できたら無茶苦茶快適ですね!
        ただ、クロス席の反対側のロングシートから睨まれると・・気になるかなぁ!?

  2. 四国のお写真、楽しませていただきました。とは言っても、DF50の走っていた所しか、よくわからないのが実態ですが。
    さて、3枚目のお写真は白川橋梁上からの小歩危峡ですね。有名撮影地で、小歩危駅からも1.6km程度だったのですが、光線状態があまりよくなかったせいか、2度しか行ってなかったようです。
    貼付写真は、白川橋梁上の280レです(1982年9月15日)。高知区DLA205仕業ですが、貸し出された高松のDF50 50号機が牽引していました。

    • 四方様
      貴重なDF50貨物列車の写真ありがとうございます。当方は景色のいい所でシャッターを切ったのみで、他の観光客と全く変わらない動きになっていました。また、機会があれば四国まんなか千年ものがたりでも撮ってみたいと思います。

  3. 連投、失礼いたします。
    5枚目の土佐北川駅も、現在では橋梁上の珍しい駅として脚光を浴びていますが、以前は2両分のホームがあるだけの棒線駅で、上下計6本しか停まらず、駅と呼んでよいのかどうかよくわからない駅でした。旧線部分にあった大王信号場が廃止され、この駅に交換機能が移管され、普通列車は全列車停車(上下計10本)しますから、駅としては大出世?
    貼付写真は、工事中の土佐北川駅です(1983年8月30日)。停車中の列車は最後尾にキユ25を連結した238D。思い出しついでに書いておくと、この列車は高知車掌区の担当で、高松で翌日の731Dで高知へ戻られます。

  4. ついでなので、もう1件だけ。
    6~8枚目の伊野駅に関連して、伊野駅での写真を1枚。
    1983年4月13日。高知区のDF50とDE10の新旧交代の一場面です。当時の3番線停車中の780レ(写真右側)は18+43号の重連、2番線通過中の781レ(写真左側)は76+143号の重連でした。
    ちなみに今頃気付いたのですが、DF50 43号の次位に連結されている低床式の大物車みたいな車(伊野駅で連結され、2両あります)の形式は何なのでしょうか。もしご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければ幸いです。
    ブギウギ様、3連チャン、失礼いたしました。

    • 四方様
       大変貴重な写真ありがとうございます。土佐北川駅も今様の景色しか知らず、伊野駅も国鉄時代の魅力満点でタブレットキャッチャーも懐かしいです。

  5. 伊野駅の写真の2155の後方2両は、松山からの応援車ですね。5月の四国ツアーの際に、久々に香川県にて見られた2000系ですが、その後ツアー臨時などで、時々顔を見せる様になりました。
    お盆増結では、「南風」は全て2700系5両編成となり、車両不足となる単独「しまんと」2往復などに、松山から応援の2000系があたりました。AM6:30頃「しまんと」1号、2号が隣りの金蔵寺駅ですれ違うので、片道自転車で25分程度かけての撮影行は早朝の良いトレーニングになりました。
    これからも、秋の連休多客時の輸送スケジュールに入っている様で、楽しみです。

    8/11 金蔵寺駅にて撮影

    • 77-タツ様
      今なお金蔵寺でこのような写真が撮れるのは多客時ならではと思いますが、貴重なカットですね。琴電をよく撮っていた時に、間合いで金蔵寺にあるうどん屋のカレーうどんが絶品でよく行ったのですが、何年か前に閉店してしまいました。横道に逸れ失礼しました。

  6. ブギウギ様
    DF50研究家の四方さんのDF50コメント投稿があり、つられて私も1枚。総本家さんなどはご存知ですが、蒸機目当てで行ったはよいがDF50に置き換わっているとがっかりしたものです。それでもこの頃流行ったこの顔とスタイルは好きになりました。この写真は1977.8.28定番撮影地予算本線詫間-海岸寺を行くDF5050牽引126列車松山発高松行きです。いちどどこかで出したかもしれません。

    • 準特急様
       さる土曜日、キハ81ご撮影のエピソードを所用のためお伺いすることが出来ず残念でした。またお目にかかれば、と思います。45年前なら、DF50けん引の客レが走っていたのですね。素晴らしい、としか言いようがありません。到底比較しうるものではありませんが、今の海岸寺、8600系のしおかぜです。(2019年12月)

    • 準特急様、50号機の懐かしいお写真、ありがとうございます。この撮影地点もかなり埋め立てられてしまい、再訪されたなら驚かれること間違いなしの場所です。
      私が最後に撮影した50号機の写真を貼っておきます。伊野駅のコメント写真と同日ですが、場所は高知機関区です。780レの牽引を終え、運用離脱した18,43号、最後まで高知区に留置されていた47号との並びです。50号は高松運転所所属でしたが、1983年3月15日から白川橋梁の写真のときと同様、高知機関区へ貸し出され(一度返却されるハプニングがありましたが)、4月9日知DLA201仕業(いわゆる石灰(本務)仕業)を最後に運用離脱、4月22日㋵284レ~170レで返却されました。

      • 四方様
        四国のDF50圧巻ですね。一つのテーマを深堀して追い続けることの大切さを改めて再認識しました。ありがとうございます。

  7. ブギウギ様
    台湾のみならず四国土佐の先までの旅は楽しく拝見させていただきました。高校野球の優勝旗が白河の関を超えたと大ニュースでしたが、大阪から白河(新白河)は新幹線乗り継ぎで4時間くらいで行けると思います。「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(能因)というのがありました。昔はそれほど遠い所だったのです。今はどこへ行っても言葉や文化等画一的ですが、はるばる来たという感激は失いたくないものです。白河は東北の入り口という感激があります。そういう意味では東京から土佐に出向くのも今でもちょっとした勇気がいるものです。また、現地で経験したあの話、この話をしてください。楽しみにしております。

  8. 四国のDF50と言うことで、乙訓の長老様が撮られた写真をご覧下さい。
    場所は善通寺、少しぶれているので機番が読めないのが残念ですがご参考になれば。

    • 米手作市様
      機関車のDF50もさることながら次位の客車もダブルルーフで時代を感じます。もはや私には想像の世界ですが。

    • 米手作市様、乙訓の長老様のお写真、ありがとうございます。見覚えがあり調べてみましたら、レイルロード社の「国鉄DF50」Vol.4に掲載されていました。同誌には、1958年9月、18号、オハフ30の記載もありますので、乙訓の長老様のメモでもあったのでしょうか。
      18号ということですので、少し毛色の変わった写真を貼付いたします。2015年3月16日、津山駅構内で交通科学博物館から移送後のセッティング中です。
      すぐ西側では、総本家様が採りあげられておられるナメクジ(D51 2号)の報道公開が行われていました。写真はあるのですが、煙のないSLの写真では、コメントするのも気おくれしてしまいます。

  9. ブギウギ様
    海岸寺-詫間間は2011.11.24クモハ73106東ウラさんの車で再訪していました。松山発岡山行き「しおかぜ18号」8000系です。

    • 準特急様
      ブキウギ様
      こちらの場所は2017年9月の台風の高波で、防波堤が崩れた場所です。3日程不通になり、9/21に仮復旧運行開始、復旧工事、改良工事が延々と始まりました。
      準特急様の写真が台風前、ブキウギ様の写真が仮復旧中の様子になります。
      8/28の3079レに、たまたまEF210-901が代走で入っていたので、ほぼ2ヶ月ぶりに見に行ってみました。
      仮復旧後の工事は、海側の防波堤の外をジャリで埋め立てて土台を作り、海側から重機を搬入して工事、新しい防波堤ができています。埋め立てた土台は波除けに残しておくのかと思っていましたが、幸い撤去されていき、前回訪れた時に残っていたジャリの小島も見えなくなり、列車からの眺望は、以前同様確保されています。
      現在は、海岸寺駅側で防波堤の改良工事が続いています。
      一連のDF50の素晴らしい写真にはとても及びませんが、最新の現状報告という事で、お許しください。

      • 77-タツ様
        詫間-海岸寺間の防波堤が崩れたことは初めて知りました。景勝地は自然災害と隣り合わせということはこのような海岸線でも例外ではないのですね。有難うございます。

      • 77-タツ様、被災区間は綺麗に修復されたのですね。あの穏やかな瀬戸内海でこのようなことが起きるとは、考えられなかったです。
        このあたりの写真がないかと探し、これだ!と思って用意したのですが、よく見るとバックに津島ノ宮が写っているので、かなり先の詫間寄りでした。一応用意してしまったので、貼付いたします。被り寸前の笑える写真です。(1982年9月、日付等一切不明)

  10. 四方誠様
    DF50についてもう1枚。新入生歓迎旅行で四国と淡路交通に行った時撮ったものです。多分琴平駅における列車交換で早朝の讃岐財田発高松行きDF5028[高松]です。この日は終日雨でした。四方さんの執念による投稿を大変うれしく思います。今後も数少ないですが四国のDF50を用意したいと思います。

  11. 準特急様、28号のお写真、ありがとうございます。
    タブレットキャッチャーが軸のみとなっていること、ブレーキ改造前であることの2点から、1967~1968年頃でしょうか。
    28号の写真とするか、琴平駅の写真とするか悩みましたが、MANの写真もよいかと思い、琴平駅での写真を1枚貼付いたします。琴平駅1番線に到着した琴平駅止めの1233レ(DF50 570号)です(1980年8月29日)。2番のりばは、ホーム嵩上げ工事中です。

  12. 四方誠様
    DF5028の写真を撮りましたDRFC新入生歓迎旅行は1965.4.29でした。大変失礼しました。この時は宇野行き鈍行客列車→高松よりDF50客車列車→阿波池田C58の客車列車→徳島から鳴門までDC→船で淡路島→淡路交通乗車後船で神戸でした。DF50570の写真も有難うございます。この機関車は1964.5.4丹波口で米子発京都行き828列車を牽引しているのを写しましたがピンボケです。1963年に川崎で新製後直ぐの姿で新塗装ですからこの機関車は旧塗装時代の記録はないと思います。先頭の二重屋根の客車は気になりますがよくわかりません。

    • 準特急様、28号は1965年でしたか。タブレットキャッチャーが軸のみとなっていたので、自動閉塞化との絡みかと考えましたが、後から高知以西は?とか、松山以西は?、と悩むこととなりました。タブレットキャッチャーは年代の判定には使えないこと、勉強になりました。
      丹波口の写真、ありがとうございます。仰せのとおり、最終ロットの569~573号は当初から新塗装で出場、隅柱を強固にし、板厚を上げて踏切対策も施されています。また、当初からATS-Sも備えて登場しています。
      散々、四国のDF50を貼っておきながら何ですが、実は、日本海側で活躍したこのスタイルが一番好きです。四国の小さなスノープラウを取り付けた570号の写真を貼付いたします(1980年3月8日、三縄~祖谷口間、281レ)。

      • 四方誠様
        日本海側と言えば山陰本線の米子のDF50はそこそこ撮っていますが、北陸本線はほとんど撮っておりません。夜行の黒部、越前、北陸、金星か昼行の白山あたりを牽引していたのでしょうが運用は分かりません。写真は1966.2.11直江津で撮影のDF50515[富山]です。

        • 515号の写真、ありがとうございます。
          1969年の直江津電化で高松へ転出し、1977年7月用途廃止となっていますので、私は撮影できずじまいで、降参です。恐れ入りました。
          デフロスターや、「へ」の字型の標識灯掛(510号は「逆へ」の字型でしたが)、BPだけを残したスカート、とても富山らしい姿です。
          浜松工場で1969年までDLの検修を行っていたと、何かで読んだ記憶があります。恐らく富山一区のDF50のためだったのではないかと邪推しています。

          • 四方誠様
            いつもピストンパンチの如く即返していただき嬉しく思います。また、DF50の古いのがありましたら探しておきます。

          • 準特急様、DF50の写真をいっぱい見せていただき、ありがとうございました。膨大な写真の量の中からDF50を探しだしていただくのは、ご苦労だったのではないかとお察しします。また、DF50のお写真を見せていただけることを、心待ちにしております。

  13. 四方誠様
    DF50の四国各地の写真を披露していただき、どうもありがとうございます。学生時代に多少四国内の記録を撮りましたが、以降は田舎から離れてしまっていたので、見せていただく写真は、近場以外は、知らない所がほとんどで、とても新鮮です。
    津嶋神社(駅名は津島ノ宮)がバックの写真も、何かイメージが違うと思って見ていたら、讃岐浜街道(バイパス)が通じる以前の写真なのですね。現在はこのアングルは撮影することができないと思われ、貴重な記録だと思います。
    バイパスの立体交差部から写した7/31の写真を貼り付けます。
    追伸
    今年は、3年ぶりに橋を渡ってお参りできるとの事で、JRで出かけました。日頃の行いが悪いと自覚していないのですが、橋を2/3位渡った所で夕立にあい、なんとかお参りはできましたが、びしょ濡れで帰りました。多度津に帰ってくると、地面は濡れておらず、??でした。

    • 77-タツ様、返信ありがとうございます。
      実は、今年の3月6日にブレーキ装置がDF50と同じEL14AのEF65を撮りに、行ったことのない大王製紙へ行きました(何か理由をこじつけないと、動けないようです)。当日は115系の団臨があることを知り、18きっぷだったのですが、姫路~岡山間を新幹線利用にして、この団臨も財田川橋梁(ここもいつぞや被災してましたね)で撮影いたしました。この際、お写真の跨線橋の下を普通電車で通過しましたが、約50名程度の方がいらっしゃって、跨線橋の存在とともに驚いたことを覚えています。綺麗な写真がGETできるのですね。次回行く機会があれば、この場所も候補に検討することにします。
      財田川橋梁の115系の写真、貼付しておきます。
      ちなみに、私は津嶋神社もこんぴらさんさえもお詣りしたことのない、バチあたりものです。

      • 四方誠様
        そう言えば3月で予讃線内限定のEF65の運用は無くなったのですね。3/6 3079レで、EF65-2084を記録していました。
        財田川橋梁の写真のコンクリートの橋脚部分が流された後の改修箇所ですね。この日、「115系ではね〜。」とあまり気乗りがしませんでしたが、悲しい性か、多度津〜讃岐塩屋方、〜海岸寺方、〜金蔵寺方と4ヶ所で撮影していました。上り方のみヘッドマークがついていましたので、多度津〜金蔵寺間で写したヘッドマーク側の写真を貼り付けます。

        • 77-タツ様、千代池の写真、ありがとうございます。光線状態から察するに、この時間、私は大王製紙にいたようです。
          3月で島内貨物は全てEF210となり、JR四国のEL組(ECとDCも込みですが)は無くなったと聞いています。かつては、EL、EC、DL、DCの4車種を乗りこなす組もあったらしいです。思い出しついでに書いておくと、「瀬戸」は当初はJR貨物の機関士さんだったようです。
          大王製紙の1カット、貼付いたします。

  14. みなさま
    ブギウギ史上最高コメント数となっています。有難うございます。
    1989年3月の高松です。

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