亀山駅から歩いて ある碑を見に行く

9月4日に行われたクローバー会の三岐鉄道ツアー、孫のような現役生も参加して、三世代相当の参加者が乗り歩きを楽しみました(その様子については、伝言板〈会員限定〉に奈良の駅名研究家さんからの報告があります)。終わってからは、桑名駅前で年寄り限定の懇親会を行い、参加者は20時ごろの列車で帰宅しましたが、私だけは一泊して、翌日、ある目的を持って、JR亀山駅に降り立ちました。紀勢本線に沿って、鈴鹿川を渡り、歩くこと20分で、どこでも見られる、地方の集落のなかにある、中村公民館という、地域の集会所前に着きました。

 

紀勢本線の始発、亀山を出て、鈴鹿川を渡り、下庄トンネルに入る手前をJR東海のキハ25が行く。今から77年前の終戦直前、この付近を走っていた亀山発鳥羽行き列車に向けて米軍機による銃撃事件があった。

亀山市天神二丁目にある中村公民館の前に、その説明板「亀山での列車銃撃から平和を学ぶ」はあった。

説明板には、次のように書かれていた(要約)。

「1945年8月2日、広島に原爆が投下される4日前、50機の米軍戦闘機P51が、硫黄島から飛来、うち2機が、亀山駅を出発した鳥羽行き列車を攻撃したのです。ここ中村公民館から200m先の煉瓦橋の北で機関車は銃撃を受けて止まり、満員の乗客を載せた5、6両の客車にも多数の銃撃が撃ち込まれ、機関士をはじめ、40名以上が亡くなったと言われ、最大規模の犠牲者を出した列車銃撃となりました」

銃撃を受けた亀山発鳥羽行き列車を牽いていたのが、山田機関区のC51 63でした。

公民館で開かれた追悼のつどいに出席された、趣味のお付き合いをいただいてる、伊勢市のKさんから、関係者がC5163の写真を探していることを聞きました。もちろん私自身は、撮っているはずもない蒸機ですが、いろいろな方から預かっている写真を探すと、なんとC5163が出てきたのです。すぐ、Kさんに連絡、このたび、C5163を入れた説明版が新調され、列車銃撃から77年目の8月2日に、追悼の集会で、説明板もお披露目されたのです。

今まで写真が無かった時は、亀山区の代表的なC51である、C51225が掲げられていましたが、関係者が探し続けたC5163とついに出合えて、たいへん喜んでおられるとKさんから聞きました。私の趣味活動が、社会の役に立てたこと、なかでも、私が生まれる前の戦争の記憶を伝える証言として使ってもらったこと、たいへん嬉しく思っています。

説明板のC5163 所蔵していたものの、撮影者、年代、場所は不明、宇治山田区と言えば、御召機のC51が知られているが、C5163は御召とは縁がなく、戦争中も人々を運び続けて、銃撃を受けた。当時は原型と想像されるが、復旧に際して、パイプ煙突になったようだ。なお同機は、昭和37年に廃車になっている。

 亀山駅から歩いて ある碑を見に行く」への5件のフィードバック

  1. 部外者ですが、いつも拝見しております。
    列車への機銃掃射による被害状況は、アップされた説明板の画像からもよく分かります。
    ご存知かもしれませんが、太平洋戦争末期に米軍航空軍が日本各地で行った機銃掃射の様子を写した記録映像を編集したプロパガンダ映画が、1945年に制作されています。

    米陸軍省提供ドキュメンタリー映画 “The Last Bomb”
    https://youtu.be/IWapZquopyU?t=1492
    著作権の保護期間は終了しており、ネットで見ることができます。
    ※リンクは、鉄道施設や列車への機銃掃射の部分です。

    • takaginotamagoさま
      いつもデジ青を見ていただいているとのこと、本当にありがとうございます。YouTube拝見しました。列車は上空から定めやすく、機銃掃射の恰好の目標になったようです。私の提供した写真が、戦争の悲惨さを伝える一助となったようでしたら、これも一つの社会貢献だと思っています。

  2. 動画を検索していますと、ことしの銃撃事件の慰霊法要の様子が、地元テレビのニュースで紹介されていて、C5163の写真も出ていました。

  3. いつも興味を持って閲覧させていただいています。今回は私が特に関心を持っているテーマでしたので、部外者ですがコメントさせていただきました。
    既にご存知かもしれませんが、1969年に総武本線から東金線に乗り換えるため成東駅に初めて下車した時に駅前の碑文を見て「成東駅爆破事件」を知りました。
    終戦2日前の1945年8月13日午前11時40分ごろ、米軍の戦闘機4機が同駅に停車中の貨物列車を機銃掃射し火災が発生しました。当時、貨車には高射砲4門と弾薬が満載されていて、市の中心市街地での爆発を防ぐため鉄道職員らが列車を日向方面へ移動させて消火に当たりましたが、11時58分に火薬に引火し爆発し、鉄道職員15人(うち9人が13~19歳の少年少女)と将兵27人の計42人が死亡しました。
    碑文の説明には、
    「昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、成東駅構内下り一番線に停車中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分火煙を発した。之を認めた国鉄職員十五名、将兵二十七名は、被害を最小限に止めようと機を失せず身を挺して貨車の隔離消火に努め、一方乗客及び町民を避難させたが、必死の健闘も空しく十一時五十八分弾薬は遂に爆発して全員悉く壮烈な戦死を遂げ、平和の礎と化しました。
    昭和三十二年八月、十三回忌に当り、その功績をたたえ町民並びに鉄道職員を初め多数の方々の御支援によって茲に礎の碑を建立せられました。」
    とあります。
    写真は、成東駅全景ですが、慰霊碑は正面から見て本屋左側の郵便ポストの横にあります。現在でも乗り換えで途中下車をするたびに黙祷を捧げています。

    参考までに「参宮線への機銃掃射」で検索すると【亀山列車銃撃事件】の静止画と動画が出てきます。

    • 快速つくばね様
      いつも“デジ青”をご覧いただき、ありがとうございます。そして、詳細なコメントを毎回頂戴し、投稿者一同、感謝しています。遠く離れた成東の駅にも、同様の事件があったことは、初めて知りました。私も亀山の碑文を読んだ時、思わず首を垂れていたことを思い出しました。今後とも、お気づきの点、コメントお願いいたします。

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