関西の蒸機を巡る ~草津線~  ②

では草津から順に蒸機との出会いを巡って行きます。草津線の起点は柘植ですが、感覚的にはやはり草津です。明治期、官設の東海道線は、滋賀県下では琵琶湖の航路に代わって、中山道に沿って鉄路で建設されることになります。それに対抗して、東海道に沿って旧宿場町を巡り、草津から四日市へ至る、私設鉄道を建設する機運が起こります。草津~三雲が明治22年12月に開業、翌年には三雲-柘植-四日市の約63キロが一挙に開通しました。これが、関西私鉄の先駆けとなる名門、関西(かんせい)鉄道の出発点となったのです。関西鉄道と言えば、JR関西本線のイメージが強いのですが、現在の草津線から始まったのです。今でも草津線には、関西鉄道の社紋がある煉瓦積みのアーチ橋が残り、歴史の変転を見ることができます。東海道本線から分岐した直後のカーブ上で、亀山発京都行き725レを撮影する。D51 145の牽引。前項の草津線初撮影と同じ昭和44年3月の撮影。この時は、草津線と東海道本線は平面で分岐・合流していたが、東海道線の列車を支障することになり、昭和45年に、付け替えが行われ、現在のように上下線が分離、高架化された。

東海道線と草津線が分岐するところに、転車台や給炭・給水設備のある蒸機の駐泊所があり、草津到着の蒸機は、ここで駐泊した。当会でも、西村さんらから紹介されて馴染みの設備だが、私も行ってみたものの、ご覧の濃霧で1枚撮っただけで、すぐ退散してしまった。以来、一度も行くことはなかった。正式名称を、梅小路機関区草津機関車転向給炭水所と言う。

亀山発草津行き723レを、草津~手原の中間付近で撮影。D51 750の牽引。田んぼが広がるが、草津市は急激に人口増加、今はびっしり家が建っている。昭和44年2月つぎの手原駅に到着の京都発亀山行き724レ、手原は大正11年の開設。手原は「手孕」と言っていて、出産にまつわる故事に由来している。栗東市に所在、その後に東海道本線に「栗東」ができたが、市役所にも近い、この駅が栗東の代表駅だった。上掲の724レは、手原で草津行き気動車との交換があるため、数分の停車の間に、構外まで走って撮影。昭和47年4月 D51 882の牽く京都発柘植行き726レ、午後にも、草津線を走る京都発の客車列車が3本設定されていた。昭和47年4月724レを、手原~石部で、逆光上で撮ってみた。昭和47年5月 関西鉄道によって敷設された現在の草津線、草津・手原付近の明治期地図を見ると、鉄道線に沿って「関西鉄道」の文字が見える。左手が草津の集落。

 関西の蒸機を巡る ~草津線~  ②」への23件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様

    関西鉄道は「かんせい」と読ませるのですね。初耳でした。

    同じ土俵で扱ってよいか定かでありませんが、関西学院大学を「かんせい」と読ませるのは、当時の学生気質が進取革新的で、東京をトウケイというように漢音読みする傾向があり、それにちなんだとのことです。https://www.kwansei.ac.jp/about/history/

    • 奈良の駅研さん
      関西鉄道の読みは「かんさい」か「かんせい」か、以前から論議されて来ました。ひとつの傍証があり、関西鉄道の営業報告書のなかに、鉄道庁宛ての電報文があって、そこには「カンセイ」と書かれていたそうです。

      • 総本家青信号特派員様

        お返事をいただきまして、ありがとうございます。勉強になりました。

        • ただ当時、会社が発行した絵葉書の印字が「KANSAI」になっていた例もあるそうです。要は、この時代、駅名も含めた「読み」に、振れがありました。

  2. 京都に住まいで、団塊世代より以前の方は、草津線と言えば、小学校の修学旅行の時に乗車した、姫路発鳥羽行の通称「鳥羽快速」を思い出される方が多いと思います。私も修学旅行の他にも四日市方面に行くとき、何回か乗りましたが、撮影は、運転最終日の昭和40年2月28日、1度だけでした。
    貴生川での信楽線列車の接続がなく、水口発、信楽、加茂、木津経由奈良行の国鉄バスに接続していました。
    最終日の草津駅で、牽引機は、C57148でした。

    • 藤本さま
      コメントありがとうございます。私も昭和36年に小学校の修学旅行で伊勢まで行ったとき、鳥羽快速に乗りました。まったく覚えていないのですが、客車内で撮ってもらった写真だけ残っていて、背ずりが木製で、オハ61系だったことが分かりました。

  3. 草津線の話題から外れますが、「鳥羽快速」は、亀山で10分くらい停車しますので、鈴鹿川橋梁まで走っていきました。
    編成は、オハフ33+オハ35×2+オロ40+オハフ33の5両で、修学旅行の増結で7両以上になるときは補機が付きました。
    通勤・通学の時間帯にかかる姫路~京都間は、6両増結され、1形式4両で、しかも2両づつ形体の異なるスハ37が連結されていました。

    • 藤本さま
      蒸機牽引の鳥羽快速の走行中を撮られていたとは、さすがに違います。たしかに鈴鹿川鉄橋は、駅から歩いていも、案外早くて、数分で着くことができた撮影地でした。私が唯一撮った鳥羽快速は、山科で撮りましたが、客車編成は、全く同じのように見えます。

  4. 草津線は近くにおりながらなじみの薄いところです。私の父方の里は桑名でしたので、新幹線のない時代は草津線経由をよく利用しました。乗ったのは準急の平安号です。この列車は併結、分割がいくつもあって有名でしたが、その一つの行先が桑名でした。これは乗り換えずにいけるので重宝しました。名古屋行きでなくなぜ桑名だったのでしょうか?1970年10月のダイヤ改正でなくなったようで、その後は新幹線名古屋経由で行ったのではなかったかと思います。
    草津線の撮影ですが、昔のフィルムを探すとそれらしいのが1枚出てきました。撮ったのは1967年ごろです。このころから父のカメラを借りて撮り始めました。ところが撮った場所がはっきりしません。次のコマに近江鉄道の貴生川駅があって、撮った写真には手前に信楽線に分岐するらしい線路が写っているので貴生川駅の柘植寄りで撮ったものと思われます。C58牽引の貨物列車ですが荷物列車のようなものも連結されています。客扱いではないでしょうが、中に人らしきものも見えます。この時代貨物の時間は分からないはずで、たまたま来たのを撮ったのでしょうか。このころは何も記録も残さず撮っていたので後悔します。

    • 事務局様
      幼き日の記録、ありがとうございます。1967年と言えば、高校1年生でしょうか。貨物列車の荷物車連結は、定期の列車で手小荷物を運びきれない場合に、貨物に増結したようで、ほかの線区でも見られました。よく利用された「平安1号」(京都12:55発)が中途半端な桑名止まりには、苦しい車両運用の事情がありました。名古屋持ちのDC編成が、「平安」で名古屋・桑名-京都を2往復しています。桑名止まりを名古屋へ延長すると、有効時間帯に2往復ができず、また併結列車のため、ダイヤに制約があり、やむを得ず桑名止まりになりました。

  5. 柘植から草津方面の線路が直線なのに、奈良方面の関西本線が左にカーブしているのは、関西鉄道の成り立ちが関係していたのですね。これは知りませんでした。関西本線が早く出来たものと思い込んでいました。
    草津線が手原駅付近で新幹線、国道1号線、名神の栗東インターチェンジ取り付け道路をくぐっていたこと、地図を見て初めて知りました。蒸機がいた頃に何度も通っていたのですが、覚えがありません。
    草津線の気動車では進行方向右側に席をとり、駐泊所を見るのが楽しみでした。昭和46年4月29日の撮影です。

    • 紫の1863さま
      コメントありがとうございます。手原付近で、日本の大動脈と交差していたこと、私も、今回、地図を見直して改めて思いました。そう言えば、新幹線に新駅をつくろうと滋賀県が熱を上げていたのも、この付近でした。草津の駐泊所は、一通りの設備は全部あった、まさに模型のような場所でしたね。

  6. 甲南駅ですれ違った724列車です。昭和47年6月25日、初めて手にした一眼レフの初陣で、加太へ行った帰りの気動車から写しました。

      • 列車ダイヤで調べました。乗られたのは737Dで、たしかに甲南で724レと交換しています。D51497は草津線の無煙化までいて、小郡区に転属し、半年ほど働いたことも分かりました。

  7. 昭和39年9月10日、京都駅、スハ3722
    京都~姫路間の増結車6両の中に、スハ372、スハ3721、スハ3722が連結されていました。

    • これって、32系Wルーフ客車のうち、3軸ボギーでないので旧2等車の固定クロスと転換クロス、旧スロ32と33型かと推理しました。50番台でないのは、一旦接収車になった後に寝台車に改装されていた期間があったりしたのですね。室内のシート配置が気になりました。

  8. 総本家青信号特派員様
    1964.5.4亀山から草津に到着した725列車C57121[亀山]を追いかけて梅小路機関区草津機関車転向給炭水所に行ってみた。既に方向を転向して先に到着方向転向していたD511020[亀山]と並んでいた。

    • このC57 121には思い出があります。初めて加太へ撮影に行った昭和41年、大築堤で貨物を撮っていると、補機として貨物を押し上げていたのがC57121でした。貨物の補機にC57が使われていたのは初めて見て、意外なC57の一面を見た思いでした。

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