京阪電鉄京津線の札ノ辻(昭和21年廃止)-浜大津(現びわ湖浜大津)間は大正14年5月5日に延伸が完成し、明日で開通100年となります。この延伸には紆余曲折があり、滋賀県の公文書館の資料に興味深いことも載っていましたので紹介させていただきます。(記載した番号は引用した滋賀県公文書館の資料簿冊記号と編次を表す)
京都-大津間の鉄道はすでに明治13年7月に国有鉄道が開通していましたが、互いの中心部を結ぶものではなく新しい路線が待望されました。明治20年代からいくつかの計画がありましたが、明治30年代終わりになって計画が進み、3社競願を調整して京津電気軌道が明治39年(1906年)3月に出願、明治40年(1907年)1月に京都三条大橋-大津御蔵町を結ぶ軌道敷設に特許がおりました。
当初の特許の浜大津側起点は御蔵町七番地で、これは現在京津線が東に曲がりびわ湖浜大津駅に入るところにあった旧京阪大津ビルの場所となります。
↑ 2018年当時の浜大津駅付近、正面の「庄や」が入っていたビルが旧京阪大津ビル。現在は取り壊されてマンションの工事中。(2018.3.7撮影)
↑ 最初の出願の時の浜大津終点。官線浜大津駅に並行していた。(明と85-29)
着工までに何度かの変更があり、開通したのは5年後の大正元年(1912年)でそれも途中の札ノ辻まででした。札ノ辻まで開通した翌年の3月には大津電車軌道の大津(現びわこ浜大津)-膳所(現膳所本町)が開通し、当然接続を考えた計画でしたが、札ノ辻は旧東海道が東に曲がるところで、ここより先の琵琶湖方面には突抜通りと言われる細い道しかなく電車を通すのには拡幅が必要でした。
札ノ辻までの開通後も延長工事の着手延長願を何度も出していましたが実現せず、大正6年5月5日には取り消されてしまいました。(大と6-3)
その後滋賀県と大津市は突抜通りの拡幅を計画し、大正9年5月20日に拡幅の費用の半額を当時の大津電車(京阪石坂線)と京津電軌が負担する代わりに軌道を敷設して札ノ辻-浜大津を延伸することが合意されました。当初京津電軌は1年以内に拡幅されることを希望していましたが、予定は延び、大正11年2月20日に延長出願(大と20-4)が出されました。
↑ この時の出願書では、札ノ辻から複線で延長された線路は浜通りを過ぎたあたりで東側に入って道路と平行に1面2線、引き込み線1線の駅が作られる予定だった。(大と20-4)
この出願願いに対して県は停留場の位置が宜しくないとして留め置きました。この時期すでに寄付金は出されていたようで、土地の買収は一部行われていましたが、1年7か月経ってたまりかねた京津電軌は大正12年9月22日に上陳書(大と20-2)を出しました。これには申請したのに理由もなく留め置かれた、寄付金の額が増えた、道路拡幅の計画がどんどん伸びた、突抜通りの終端部の土地は京津電軌が知らないうちに大津電車が取得していたなどが書き連ねられていました。この上陳書が功を奏したのか、大正13年2月2日再度変更届(大と20-1)が出され認可され、大正13年6月4日には工事施工認定申請書(大と20-6)が出されて工事が始まりました。
↑ この時の図面では最初の申請と同様、南北の通りから急カーブで東に曲がり、官線浜大津駅と平行の位置となる。(大と20-6)
↑ ホームと屋根があり、待合所も計画された。(大と20-6)
申請した後も変更がありました。一つは大津祭との関係でした。当初延長部分の架線は側柱式で計画されていましたが、架線柱が曳山の巡行に邪魔になるということで、神社や氏子町内からの陳情があり(大と20-5)、これに大津市も加わってセンターポール式に変更されました。尚併用軌道部分のセンターポールは昭和35年3月15日に側柱式に変更されましたが、この際は曳山巡行に支障が出ないように設置されました。
↑ 大津祭の曳山と京津線800形、巡行中の曳山は停止して、すぐ横を走る電車が通過するのを待った。2022年より電車通りを曳山が巡行する間、電車は運休するようになったためこの情景は見られなくなった。(2013.10.13撮影)
また、終端部分で南北の通りから東に曲がって駅舎を作る部分は急な曲線で設計施工が止まったままになっていました。この年の1月に京津電軌は京阪電鉄と合併しており、大型車も入線することも考えて、4月22日に曲線部分を保留して南北の通りを終着とし、渡線を設ける軌道工事方法変更願(大と27-2)を出しました。これが認可されて大正14年5月5日に完成しました。この日が札ノ辻-浜大津延伸完成の日とされていますが、実際は完成ではなく、京阪電鉄が出した運輸開始届(大と27-3)は一部運輸開始となっていました。開通した時は安全地帯もなく、道路からの乗降だったようです。
大津の86さま
いつも丹念な調査をされていて頭の下がる想いで拝見しています。縁あって写真の京阪大津ビルで1年半ほど京津線の京都市地下鉄東西線への直通関係の仕事をしていましたので懐かしい想いです。下の庄屋は江若展の打合せでも行きましたね。
当初札の辻が終点であったことは知っていましたが、赴任時でも具体的な場所は知らずじまいでした。現地職員から当時あった白洋舎の場所がそうだと教えてもらい初めて認識したものでした。
その後の浜大津までの延伸も紆余曲折があったのですね。何事によらず計画と結果は往々にして異なるものですが、この延伸計画も二転三転していたことがよくわかりました。
伝統ある大津祭ですが運行時に電車が運休するのは時代も変わったとの感を深くしますね。
1900生様
コメントを頂きありがとうございます。
札ノ辻の白洋舎の建物はリフォームはされていましたが札ノ辻停留所の休憩所として使われていたもので、内部にはその痕跡がありました。保存の話もありましたが残念ながら数年前に取り壊され現在は駐車場となっています。京津線には路線の変更等いろんな出来事があり、大津側の分については滋賀県公文書館に資料が残っていていろいろ新しい発見があります。地元に住んでいるとつい調べたくなります。大正14年5月の延伸以後も話題があり、折を見てご紹介したいと思っております。
大津の86様 地元ならではの調査結果報告を興味深く拝見しています。「庄や」があった角のビルがもう取り壊されているのですね。久しく浜大津を訪ねていませんが、浜大津ジオラマの掃除に行かねばと思っているところです。そのジオラマの京阪大津支社の周辺の様子を添付しておきます。
西村様
京阪大津ビルの跡地は複合ビルが建設中で、上部はマンションとなりますが、下層階部分に何が入るかはわかりません。大津の旧中心部は商業施設はあまりなく、マンションばかりが建ち、町の景観がすっかり変わってしまいました。作られた浜大津界隈のジオラマで現在残っている建物は旧公会堂だけで、名前が残っているのも商工中金くらいでそれ以外は変わってしまいました。びわ湖大津館に来られた折にはぜひお寄りください。
大津の86さま
滋賀県の公文書館の簿冊には、鉄道関係の資料が多く、86さんが丹念に読み込まれて、著されたのが、「レイル」118号の「大津電車軌道」の記事でした。あれからもう4年経ちましたが、まだまだ興味深い資料があるとのことで、今回の札ノ辻~浜大津の延長に関しても、公文書館の図面を多用して見せていただきました。わずか数百メートルの間の延伸でもこのような動きがあったこと、興味深く拝見しました。
そう言えば、京阪なにわ橋のギャラリーで大津の鉄道のあゆみ展を今もやっていますが、この100年を記念しての催事なのですね。写真のように、当時の浜大津駅の様子も、たいへん興味深いものです。江若鉄道の浜大津駅舎が出来ていますから、解説の時代が符合します。
総本家青信号特派員様
「レイル」誌への掲載では大変お世話になりありがとうございました。あの時は石坂線の話でしたが、京津線についても資料を集めていました。掲載していただいた後はそのまま手つかずになっていたものを延伸100年になるということで引っ張り出してみました。地味な内容ですが、地元民にとっては興味深い内容です。大津祭の件では陳情書に今一緒に活動している方のお祖父さんの名前が出てきたりして親近感を持ちました。
ご紹介いただいた京阪なにわ橋のパネル展はぜひ行きたいと思っています。