戦時設計D52

昨日は8月15日で終戦記念日だった。当日の日経新聞の朝刊には寅さんの山田洋次監督(93歳で幼少期は旧満州育ち)が「僕には故郷がない」と書かれた旧満州の思い出の中にこの日の正午を機に坂の下に広がる中国人の貧しい家々の屋根に国民党の「青天白日旗」が何百本もはためいていたとの記述に戦争とはそういうものだと改めて感じた。「ザ・フォーククルセダーズ」で現在は白鵬大学の学長である北山修さんは「戦争を知らない」はありえないと述べておられた。

戦後80年で私は終戦の3か月前に生まれたので戦争の記憶はないが戦後の列車内に傷痍軍人が募金に現れた子供時代のことは覚えている。最近はDRFC-OBの方から猛暑見舞いを1通いただいたがこの暑さもあって出かけることもなく友人もどんどん減っていることを痛感している。デジ青のラインも覚えようとしないのでなおさらである。デジ青もご無沙汰して基本的な投稿の仕方を忘れてしまった。

戦争と言えば蒸機や客車に群がって乘る乗客や各地に空襲で焼けた電車などを雑誌等で見たことがあるが、今回戦時設計の蒸気機関車でその典型であるD52について私が撮影したものを紹介してみる。これは最近始めたフェースブックに載せたものをを多少アレンジしたものである。

電気機関車のEF13も当初は戦時設計と言われた凸型機関車で関東地区に多かったので見たことがないがD52は戦後20年経った木製板枠のテンダーやデフレクターとその他工程を省略したような機関車が山陽本線に残っていた。これはこれで好きな人もいたが戦争がもたらしたバリエーションの一種で趣味の対象となっても不思議ではない。

戦時設計と言われるものにはD51やC11などにもあった。よくテレビに登場する新橋駅の待ち合い場所に使われるC11も戦時設計の一つで最後は播但線で活躍していた機関車である。

1963年3月27日 下関駅付近の上り貨物牽引のD52460[柳井]でこの写真は光線具合もよく何度も登場させた。▼

1964年4月1日 小郡機関区の同区所属のD52126で正面の前照灯と煙突の間に給水温め器がなく戦時設計を色濃く残している。▼

1964年4月1日横から見たD52126▼

1964年4月1日D52126のテンダー(炭水車)でC58にも同じような船底型があった。▼

1964年4月1日小郡駅当方の上り貨物D52456[小郡]も粗野な感じが残っていた。▼

1965年3月5日福知山線武田尾-道場間727列車大阪発篠山口行きC11271[吹田第一]で機関車の二つコブが丸形でなく角形になっているので戦時設計がわかる。▼

2022年10月26日 東京新橋で度々テレビに出演の待ち合い場のC11292も戦時スタイルである。▼

 

 

戦時設計D52」への26件のフィードバック

  1. 準特急様

    デジ青ではご無沙汰しております。FBでのご投稿をいつも拝見しております。

    今、楽しく鉄道趣味に時間を割けるのも、平和な世の中だから。平和は自分たちで創り出していくということを肝に銘じて、これからも頑張っていきたいと思います。

    • いつもいろいろなジャンルでご活躍有難うございます。デジ青でも本来なら共通の話題を探すなりして老若男女問わずなるべくいろいろと話に突っ込んで行きたいと思います。私などはFB(フェースブック)を見ていますと東西から海外迄関与できそうですが人間には人見知り(好き嫌い)もありなかなかそうはいきません。私は以前から双方向性が好きなのでコメント頂いたら即返(即答)をモットーにしていますがその点FBは即返(いいね)がありデジ青にはない特徴です。しかし、FBを見ていると旅行や食事内容が多くて老人には少ししんどいです。それにDRFCはさすがに行ないの悪い人はいないようですが、FBはそうはいかず、悪い誘惑に引っかからないよう友達を制限している人も多いです。FBでは即返が多いと言っても「いいね」はただ「見たよ」というようなものですからそれほど重要視していません。DRFCのラインは仲間同士の連絡でそれはそれで結構ですが私のような酒も飲めない変人の仲間はずれには向いていません。私はもう歳ですからこれまで通り古い思い出的な投稿を主体として理屈っぽい難しい話と関東の私鉄は避けて投稿したいと思います。

  2. 準特急さん、おひさし振りです。
    私も最近は出る幕がなくてぼんやりしていました。ところが貴兄から元気の出るクスリを出して頂いたので、見飽きたと思いますが戦時型D52を再度ひつこく投稿します。
    ありがとうございます。

    • 有難うございます。D52126は小郡の前は瀬野にいたようです。戦時設計D52は御殿場線、函館本線、大阪地区貨物線では見ませんでした。先日は久しぶりに杉田二郎が加藤登紀子の好きな「戦争を知らずに僕らは生まれた」を唄っていました。京都のトランプさんは好きですが、アメリカのトランプさんは何しにアンカレッジに行ったのか全くこの人は信用できません。

      • 京都のトランプです。
        杉田二郎は我が家の裏、おなじ町内に実家があります。本家のトランプは見栄っ張りな金持ちの馬鹿親父で外交の素人ですから、生まれながらの詐欺師・プーチンに掛かっては赤子の手をねじるようなものでしょう。ちょうど準特急さんに掛かった私のように。

        • お褒めの言葉(?)を頂戴したので御礼に1978年11月にヨーロッパに行った時のアンカレッジ空港の写真です。赤い絨毯はありませんでしたが、ソ連上空を飛行できずほとんどの飛行機はアンカレッジ経由でした。11月なので昼間でも太陽光線が低かったです。

        • 米手作市さま
          座布団5枚!同じ思いの方が身近に居られることがわかつたことと、その本家トランプ評に溜飲が下がった思いがして嬉しいですね。尤も米手さんを京都のトランプとはちょっとお気の毒に思いますが、ある部分妙に納得できる点もあり言いえて妙と受け止めております。
          準特急さまに加えてD52をご紹介頂けるのを楽しみにしています。
          なお私事ですがお盆直前のPCトラブルは一応ケリがつき、今こうしてコメントさせて頂けるようになりましたので、この欄をお借りしてお知らせ申し上げます。

  3. 準特急様
    「福知山線のC11の客車列車」で2025年3月17日 8:54 PM にコメントした写真の連続撮影ですが、準特急さんが撮影された丁度2か月後の1965年5月5日の725列車です。場所は同じく旧線の「武田尾-道場」間のC11 271ですが、この角度の方が砂箱と蒸気ドームキセの違いがよく分かります。

    • 快速つくばね様
      お久し振りです。外に出るのが怖くて昼間からクーラーかけて寝てます。懐かしい福知山線のC11有難うございます。夏は蒸機の煙が黒く薄くなって写真写りが悪いとグチって撮影したことがありました。まだ元気だったのでしょう。

  4. 準特急様
     お久しぶりに、準特急さんらしい格調あるご投稿を拝読しました。
    京都のトランプさんとのやりとりは楽しく、暑さを忘れます。
     今年は殊の外暑いですが、どうかお体を大切にお過ごしください。
    また、お目にかかれることを楽しみにしています。

  5. マルーン様
    同じ世代の皆さん元気かなと思うことがあります。少数民族(マイノリティグループ)になったのでしょうがないと思うのですがそんな中でやっぱしマルーンさんからコメントあると嬉しいです。京都のトランプさんはアメリカのトランプさんと違って頭が良いのでこれに応えるのは難しいです。先ほどまでNHKのテレビで松岡修造さんのファミリーヒストリーを見てましたが、阪急電車も出てきました。私も昔の宝塚大劇場の舞台に宝塚市内の小学6年生の時に催された卒業生を送るイベントがあり代表で校旗を持って出場したことがあります。生瀬も出てきましたが宝塚、武庫川界隈は懐かしいです。

  6. 準特急様が、戦時型D52を取上げられましたので、早大鉄研の先輩、渡辺淳一さんの作品を御紹介したいと思います。D52219号です。終戦後5年、『戦時型』の与える語感も、未だ生々しかったことでしょう。しかし整備は行き届き、日本の復興も進んでいるように見えます。この写真が撮られた翌年(昭和26年8月)には、浜松工場に入場し、戦時型装備を改装、メカニカル・ストーカーも装備された由です。どうぞお楽しみください。

    • 宮崎繁幹様
      残暑というよりも酷暑、猛暑真っ最中ですがお久し振りです。早大鉄研の渡辺淳一様の貴重なお写真有難うございます。これはデフレクターやテンダー上部に正しく木を使った資材不足を代表するD52の姿と思います。勿論給水温め器もなく戦時設計の典型的スタイルです。有難うございました。

  7. 準特急さん、宮崎繁幹さん、1900生さん
    もう一枚ありました。
    雪のセノハチでした。

    • 米手作市様
      雪の降る日の瀬野のD52戦時設計の写真有難うございます。少し吹雪いていて給水温め器もないのでC62にも見えますがどうでしょうか。貴重な写真いつもありがとうございます、

        • 米手作市様
          米手作市様のメールにどきっとすることはありますがメールの返事を出したり元気にしています。

  8. 米手さまに倣い、もう1枚戦時型D52を渡辺淳一さんの作品から載せましょう。一昨年、京都での上映会でお目に掛けたことがある1枚だったと思います。名古屋電化まで、未だ1年あるが、既に新居町駅構内は、電化工事が開始されています。D52牽引の旅客列車は、ずっと後年の御殿場線ではお馴染みだったが、この頃の東海道本線でも走っていたのですね。ローカル列車ながら、次位のハニも荷物室が前方にあり、整った編成姿と見ました。

    • 宮崎繁幹様
      私は80系、後に153系の準急「比叡」ができるまでは名古屋‐大阪間は客車の普通列車を利用しておりました。確認していませんが機関車はC59あたりだったと思います。先人の雑誌等の記録を見ますと戦後の浜松電化以降の東海道本線は基本的に(C11、D51、C57等が使われたことがあったかもしれませんが)旅客列車はC62、C59が、貨物列車はD52が受け持っており山陽本線の電化完成までこの使い方が続いたと思います。戦後D52から軸重軽減を目的としてD62ができて東北本線一ノ関に転属するまで東海道本線、あるいは山陽本線で使用されていた記録を先輩の佐竹さんの作品で見たような気がします。何れにしましても浜松以西の東海道本線で客車を牽くD52は始めて見ました。ましてや戦時設計のD52が客車を牽くのは大変貴重な記録だと思います。

  9. ここに集う同志社精神に溢れた皆様の中に、「こいつは人様の写真ばかり担いでやって来る」、などと考える方が居ないことは十分承知しておりますが、小生も自前の写真を偶には(?)お目に掛けましょう。戦時型に関連し、新橋駅前のC11292を準特急様が、御紹介下さったおかげです。この機関車、新橋には縁も所縁もないカマと思うが、現役時代を撮っておりますので、登場させましょう。播但線の溝口の駅を朝の通勤列車を牽引して、C11292が発車して来たところです。あれから55年経った訳だが、撮影した機関車が今も身近で見られると云うのは、嬉しいものです。

  10. 宮崎繁幹様
    貴重な戦時設計のD52に続いて播但線時代の戦時設計C11292の写真有難うございます。DRFC-OB会の会友でありますクモハ73106東ウラさんからも同機の写真頂いております。1970年3月24日溝口付近のバック運転です。

  11. 久しぶりに取上げられたD52の話題、もう少し続けさせて下さい。私の手元に永らく眠っている、米軍人が終戦直後に記録した、戦時型D52があるので、お目に掛けます。画質はそれなりですが、御許し頂きますよう。山陽本線で姫路の次駅、英賀保の構内に留置中の352号機と番号不明の2輌の戦時型D52です。駅名標をクリアし番号板が写し込まれており、撮影者は熱心な鉄道ファンだったのでしょう。メインロッドが外されているらしく、放置に近いのかもしれません。山陽本線を西下中の列車からの撮影と思われ、終戦の翌年、1946(昭和21)年6月の記録です。352号は、前年1月21日の汽車会社製(製番2484)で、新製配置は姫路区でした。その1年半後には、この有様ですから、実際に稼動していたのは1年、或いはそれ以下かもしれません。このまま廃車されてもおかしくなかったかもしれぬが、運も味方したのか、昭和23年10月にC62の種車となり、C6241号となりました。

    • 宮崎繁幹様
      何と申しましょうか、駅名板の「あがほ」の駅名板も素晴らしいですが、C6241の種車となったD52352の姿というのは初めてです。D51→C61、D52→C62という改造は有名ですがこのように短い期間に存在した種車そのものの撮影はいろいろな鉄道趣味誌で私自身は始めて見ました。貴重品中の貴重品と思います。有難うございます。

      • 準特急さま おっと、駅名票の方へ眼が行かれましたか。左横書きへの変更は、昭和21年に出されたとのことなので、この「あがほ」の駅名標は、書き直されて未だ数カ月しか経っていません。D52の機番が352であるのを読み取るには少しく難儀しましたが、駅名の方は、字が大きいので簡単に読めますね。下部に英文があるから間違えないが、英文無しでいきなり見せられると、「ほがあ」なんて駅はあったかな?、と混乱しそうです。

  12. もう1枚、英賀保のD52と同じ撮影者の戦時型D52を紹介しましょう。デジ青の皆様のお膝元、梅小路区の転車台に乗る354号機です。汽車製造で前出の352号機と同一ロットの製造と思われ、製番2486です。昭和20年1月30日製造、新製配置が梅小路と云う訳でした。キャブの番号板は無く、ペンキ書きのようで漸く判読しました。その後、姫路第一、岡山、吹田第一と転じ、昭和41年3月16日廃車と長生き、僅か2年余だった352号機とは対照的な車歴でした。撮影は、1946(昭和21)年の6月と思われます。撮影者名は、Walter E. Barns氏で、佐官級の米軍人のようです。

    • 宮崎繁幹様
      山陽本線糸崎駅の西方で撮った下り貨物列車牽引の岡山機関区所属のD52354がありました。元糸崎機関区のU機関士にお聴きしたところ糸崎電化後しばらくの間は貨物列車は蒸気機関車が使用されていたとのことでした。

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