加太紀行 〈下〉

南海加太線は、明治45年開業、北島~加太間の加太軽便鉄道をルーツとする。北島とは、現・和歌山市駅の裏を流れる紀ノ川の対岸(右岸)にあった始発駅(その後、廃止)で、翌年には紀ノ川を渡って、和歌山市に隣接する地点に始発駅を設けた。開業時は、コッペル製のB型機が3両用意されたと言う。

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「鉄道ピクトリアル」より転載

昭和5年に電化し、加太電気鉄道に社名を変更、昭和17年に南海に合併された。

その後、本線紀ノ川から東松江まで伸びていた、住友金属工業和歌山製鉄所に出入りする貨物線を電化して旅客線に転用することになり、昭和25年に営業を開始した。これが現在見られる線形となるわけだが、東松江~北島~和歌山市のルートも北島支線として存続していた。しかし、台風で紀ノ川橋梁が被害を受けたことなどにより、休止を経て、昭和41年に廃止となった。現在でも廃線跡が感じられる箇所が残っている。

なお、住友金属工業から出荷される鉄鋼製品は、加太線・国鉄経由で各地へ輸送していた。一日2往復の貨物列車は、昭和59年の国鉄貨物合理化まで続き、これが南海最期の貨物扱い駅となった。

2013_07_09_032sy▲二里ヶ浜。カーブ上に設置された対向式ホーム。2013_07_09_034sy▲二里ヶ浜駅は有人駅で、乗降人員は少ないながらも、駅舎はなかなかの規模。

2013_07_09_036sy▲磯ノ浦。かつての海水浴場への下車駅、今でもサーファーポイントで賑わうとか。ここから山間部に入る。2013_07_09_039sy▲磯ノ浦から山越えをして、加太に到着する。二面二線、頭端式のホームがある。2013_07_09_060sy▲加太駅舎、少しの建て増しはあるものの、主な部分は、明治45年開業当時の姿を保つ下見板張りの洋風駅舎。屋根を支えるのは、ドイツ製の古レールと言う。構内には、蒸機時代の給水用としていた井戸も残っている。2013_07_09_044sy▲到着してから、つぎの電車までの30分、大急ぎで、加太の街を巡った。街の中心に向かう途中に印象的な洋風建築が建っている。現在は無人となっている旧加太警察署の建物。明治末期から大正初期の建築で、その後、民宿として利用されていたが、現在は無人。登録有形文化財に指定されている。2013_07_09_067sy▲百周年を迎えた古い加太駅に、昼間は30分ごとに電車が発着すると、数人の乗客が降り立った。2013_07_09_072sy▲通常は本屋寄りの1番線を使用、ラッシュ時のみ2番線も使用する。2013_07_09_078sy▲木造2階建ての土産物店をバックに、古い鳥居型の名所案内標もある。2013_07_09_105sy▲折り返し、加太線の電車に乗って、和歌山市駅に着いた。そのあとは、和歌山ラーメンの評判店に行き、噂ほどでもない味に落胆し、あとは市内の近代建築巡りに歩き出すと、市堀川に架かる中橋を渡った。その姿、明らかに鉄道橋くさい。きれいに塗り替えられたばかりで、ペンキの匂いがプンプンする。

あとでネットで調べると分かった。なんと東海道本線桂川に架かっていたものを、明治時代に徳島県勝浦川に移設し、戦後、空襲で焼失した、現在の中橋に再移設されたと言う。南端側の「昭和28年3月竣工」の銘は、その移設時期のようだ。鉄道橋の再利用はよく聞く話だが、近くの橋が回りまわって、こんなところで生きていたとは驚きだ。やっぱり鉄道趣味は足で稼ぐものと認識した次第。

加太紀行 〈下〉」への6件のフィードバック

  1. 総本家氏は何処で「和歌山ラーメン」を賞味されたのか?老人は1958年12月25日に和歌山電軌の車庫を訪ねている。毎度ながら事務所で在籍車両の要目を筆写させていただき、京都へ帰ろうと思い乗り場に行ったら向かいに小さな店舗のラーメン屋があった。塩小路高倉下がる市電伏見線の跨線橋、道路沿いの「高倉ラーメン」は京都で味と煮豚の薄切りの量では一番と言われていたが、こちらの「車庫前」は如何かと比べに入った。あっさり醤油味でうまかった。1960年5月には連接車2000型の図面を筆写させていただいた。「昼や!飯食いに行こう、学生さんどうや」と誘っていただいたのが2年前の「ラーメン屋」。富山から大阪に転勤して1年後1964年秋、埋立地に建設中の花王石鹸の現場へ行った帰り道は、タクシーで「車庫前ラーメン」と言って連れて行ってもらった。あっさり味は京都人にあったようだ。15年ばかり前、JTS(路面電車同好会)の面々と和歌山電軌の保存車撮影に行ったとき、この「らーめん屋」の話をしたところ、まだ「車庫前ラーメン」でやっているといって連れて行ってくれた。記憶では海南市へ向かう元電車通りを南下、トンネルの少し手前の東側、三井寺への参道近くだったと思うが、電車道とは関係ない住宅地の一角に案内された。この本店では巻きずしをやっており、これが美味いというので注文したが、本日予定完売で口にすることが出来なかった。海南から帰路、車庫前跡地に寄ってもらったが、車庫跡はビルになっており、ラーメン屋は道路幅拡張で何もなかった。

    • 乙訓の老人さま
      ラーメンの思い出話、ありがとうございます。
      老人の入られた店はなくなったのかもしれませんが、お書きの車庫前には、いまも名店があり、“車庫前系”として、和歌山ラーメンの中の一派を構成しているようですね。
      和歌山ラーメンの主流は、濃厚だが、あっさり系で、こってり系好みの私には、少し合いませんでた。

  2. 最近の皆さんの鉄橋や橋桁などに対する研究熱心さに感心しております。2008年4月27日、磯ノ浦の名につられて途中下車し、海が見えないかと高い所に駆け登ったりして撮影したことを思い出します。その時の写真が鉄道ピクトリアル2008年8月臨時増刊南海電鉄特集に出ています。この時は元南海ホークスファンで阪神タイガースの名の入ったサングラスをつけた古老と話し込み、とうとう終点加太に行くことなく帰ってきました。磯ノ浦の先にあるトンネルを抜けた所が終点加太のはずですが、総本家さんの写真や説明でよくわかりました。今度改めて行ってまいります。

    • 準特急さま
      磯ノ浦の写真は、私も鉄道ピクトリアル南海特集で拝見しています。わざわざ海の見える場所まで歩いて行かれるのは、準特急さんならではと思いました。2点載ったカラーの日付が同一日でなく、2日間違うのは、もう一度リベンジされたのでしょうか。
      同号では、サハ4801後部の列車など、準特急さんの貴重な記録も見ました。準特急さんはかねがね、関西の大手私鉄について「東京から撮りに行くヤツは、行きやすい阪急・京阪へはよく行くが、南海まで足を伸ばすヤツはおらん」と言っておられます。
      加太線など、関西から見れば、東京から離れた銚子電鉄のような位置関係です。南海で、あれだけの記録を残されているのは、さすが準特急さんだと思いました。

  3. リベンジするほど時間がなくて2008年4月27日のみの撮影です。29日は間違いです。関西の人でも東京に行く時に乗る新幹線や東海道線から見える小田急や京浜急行の方が東武や京成、京王、西武などより多少馴染みがあるのと同じようなもので南海は東京の人には馴染みが薄いと思います。阪急、特に京都線は昔新幹線の上を走ったことがあり、新幹線や東海道線から今でもかなりの時間併走や行き違いを眺めることができる電車で、東京やその他からの人にも比較的馴染みのある関西の電車だと思います。これに対して南海は関西の人でもその沿線に住んでいない限りほとんど乗ることがない電車でした。但し、昔から歴史のある名門電鉄でして、楠トシエの京阪特急の歌がラジオから流れる時代に「なーん、なーん南海電車、緑の何とか」という曲が流れていたと思います。それにサハ4801やキハ55による南紀直通や淡路連絡、四国連絡の列車があり、何となく旅に誘うようないい雰囲気がありました。

    • 準特急さま
      その“なーん、なーん、南海電車”ですが、調べますと、「南海電車の歌」が正式な題名で、歌っているのが、伴久美子という人です。
      「京阪特急の歌」もいいのですが、こちらも、力強くて、いかにも鉄道会社のコマソンらしくて好きです。
      YouTubeで「南海電車の歌」で検索しますと、ちゃんと、今でも聞けることが分かりました。

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