1954年3月高校修学旅行 その3

先回急行「筑紫」で博多まで乗車したように記したが、長崎には翌朝到着している。すなわち門司で「筑紫」を下り、門司港発22時20分(門司22時33分始発)の長崎行各停夜行列車411レ(大村線経由)に乗車したとしか考えられない。我々の高校は普通科、商業科併せて1学年11クラス、当然500人を超えていたから、客車も6両は必要で、全員が同じ行動をしたのか、日をずらしたのかは全く記憶がない。


C51253 門デフが珍しかった

長崎終着は7時10分で、全員下車と思いきや、かなりの乗客が残ったまま、列車はそのまま走り去った、と記憶する。はるか後年島原鉄道で諫早経由、長崎大に通学された山城正一氏に伺うと、三菱造船所への通勤者輸送だった由で、長崎以遠は勿論時刻表に記載のない列車だった。

長崎では島鉄バスでグラバー邸やらの名所を廻るのだが、小生は教師に申し出て観光を辞退し、バスを下り一人長崎交通の電車を撮った。所定の時間・場所に必ず居るから、と誓約したのは当然だが、今から思えばよく教師がOKしたものである。当時大学受験万能の指導に反発し、突っ張って(別段暴力を振るっていたわけではない。ただ全く勉強をせず、映画館に入り浸ってはいた)おり、担任教師からは間違いなく問題児扱いだったから、いくら止めてもこいつはやりたい事をするだろうと諦めたか、しばらくでも問題児の顔を見ずにすむと思ったか。両方かもしれない。

で、先ずは長崎駅構内でC51253を撮る。その後有名になった「門デフ」装着機関車を見たのはこれが初めてで、門デフに尋常ならざる執念を燃やした関 崇博氏がその後鉄道ファンに連載した折にはこの時の写真も使って頂いた。最近ネコ社から刊行された同氏の「門鉄デフ物語」にも56頁に1枚、C51253がある。


長崎電軌61 長崎駅前
同 51

同 54

長崎電軌は別段撮りたくて撮ったわけではなく、他にターゲットがなかったから。時間も余りなく、撮影も、バスにピックアップしてもらったのも、記憶は定かでないが長崎駅近辺ではあった。それから雲仙へ。このとき丁度「君の名は」のロケと重なり、確か雲仙のどこかで岸 恵子様の麗姿も寸見した。行く所ことごとく「君の名は」で埋め尽くされ、イヤというほど「君の名は饅頭」や「真知子漬け」が氾濫し「真知子岩」やら「真知子橋」やらが雨後の筍さながらに満ち溢れていた。マフラーかストールかを「真知子巻き」するのも大流行していた。


同 124

同 131

同 213
同 307

1954年3月高校修学旅行 その3」への2件のフィードバック

  1.  またまた素晴らしいC51化粧煙突の門鉄デフ装備車。尤も小生が素晴らしいと感じるのはいつも国鉄型蒸機ですが。以前の北千住もそうですが、湯口さんの後を凡そ10年後に追うこととなり、昭和37年11月の修学旅行で同じように長崎駅で早岐行きのC57195を撮っております。湯口さんのように引率の先生に堂々と別行動を申告すればいいのですが、とてもそうはいかず、長崎から大阪に向かう夜行の団体修学旅行列車に乗るまでに若干の自由行動があり、こそこそホームに入り込んで撮影した次第です。撮影後、人の居ないがらんとしたホームを戻る時に大きな拡声器で注意されて冷や汗をかいた覚えがあります。 ただ、長崎と言う所は日本で一番最後に日が暮れるところなのでしょう。三角屋根の駅舎の時計が写っていますが18時半をまわっていました。続編を期待しております。

  2. 湯口さんが昭和29年、準特急さんが昭和37年に長崎へ行かれているのですね。私が初めて長崎へ行ったのは昭和42年ですから、見事に年齢差を表現していますね。私の長崎での思い出は、C60の牽く臨時急行「第二玄海」を駅構内で発車を撮り、これが鉄道ピクトリアルのトピックフォトに掲載されたことです。当時、長崎本線の優等列車はDD51の牽引で、蒸機の牽く急行は臨時列車でしか見られなかったのです。ホントに嬉しくになって、友人に見せて回りました。他の号は綺麗に残っているのに、その号だけがボロボロになったまま今もその時の感動を伝えています。

総本家 青信号特派員 へ返信する コメントをキャンセル

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