交通科学博物館で時空散歩

 今月の6日で閉館する交通科学博物館へ行って、展示物の写真を撮ってきた。展示物のなかで以前に見た自転車を撮りたかったのであるが、今回は残念ながら展示していなかった。それでも写真を撮りながらじっくりと見てみるとなかなか面白く、しだいに忘れていたものが思い出してくる。博物館を見ることの意味の一つとしてこういう点もあったと考えさせられる。

 訪れたのは3月28日(金曜日)でちょうど春休み中であることもあって賑わっていた。今回はまもなく閉館するとあって、年配男子がいつになく多く来ていた。そういう私もその中に含まれるのであるが。館内はそんなに展示物が見られないほどの混雑ではなく、いつもの休日に家族連れが少し多い程度でいい雰囲気であった。

交通科学博物館館内

 撮影をしながら見ていくと「あっ、あの時こんなんあったんや」とか「へ~、こんなぐあいになってたんか」というのがある。そういうものを少しばかり。

 かつて、大阪市内の中学生の修学旅行は当時東京方面で、「きぼう号」に乗って行った。私の場合は大阪駅を朝に出発して、夕方に小田原に到着し、箱根の旅館で一泊をした。翌日は箱根から富士五湖を巡って河口湖近くで宿泊をする。最終日は東京へ行き東京オリンピックのあった国立競技場などから東京タワーへ、そして品川駅より夜行の「きぼう号」で大阪へ帰った。大阪駅から8時間あまり乗っているので、事前に時刻表を買ってグラフ用紙にきぼう号が走る時間帯のスジを引いて、どのあたりでどんな列車とすれ違うか調べたりして楽しんだことを思い出した。

 きぼう号

 そのようなことを思い出される情景を再現した展示であった。

 また、その修学旅行といえば大阪の小学校は伊勢方面と決まっていた。伊勢までは近鉄電車で行くときは修学旅行専用電車「あおぞら」であった。

 近鉄あおぞら号

  この電車は3両固定編成で、オール2階建てであったので、床下に取り付けられる機器は中間車の1階部分に機器が設置してあった。私が乗ったのは記憶によると中間車のドアと連結面との間の座席であった。3人掛けをした記憶がある。車体の色は国鉄のこだま号と同じような色であったのも特別な感じがしたし、2階席ではなかったが普通では乗れないのでうれしかったことを思い出す。しかし、帰りはロングシートの電車あったが、結構早く走っていたように思う。考えてみれば、その頃は修学旅行という特別の行事のために特別の電車が造れる時代であった。

 近頃は日常の鉄道旅行(単に所用で移動する旅行)で客車列車を使うことがほとんどなくなった。DRFC現役時代に「国鉄で通学すると京都から大阪までノンストップの客車列車に乗れるで。」という甘い言葉に誘われて国鉄で通学したことがある。(当時の京都-大阪の定期券がいまだに存在している。)確かに北陸線から来る大阪行の普通列車は新大阪も停車せずに京都から大阪まで走っていく。しかし、新快速と比べると客車は古く、下の写真のようであった。

客車内

 さて、もう少し前の時代であるがこのようなものがあったことを今は知らない人が多くなったと思う。それは「汽車土瓶」である。

 汽車土瓶と客車内

  この「汽車土瓶」を見ると昭和30年代に放送されていたある番組を思い浮かべる。それは毎日放送のテレビ番組で「大阪屋證券提供 日本の鉄道」である。15分の番組であったと思うのだが、国鉄線を中心にした鉄道紀行番組である。線区ごとの放送であるが、そのなかでも題名が「汽車土瓶と子供たち」という番組だけが、なぜかよく覚えているのである。知的ハンディを持った子供たちの社会的自立を支援している福祉施設信楽学園の子供たちが自立に向けて「汽車土瓶」を作り、販売していることを描いた番組であった。ぼんやりと覚えているだけなので、そのような番組があったかどうか自信がなかったので調べてみると平成21年3月1日に行われた信楽学園の演劇発表会で上映されていることがわかった。題名は「汽車土瓶と少年たち」といい、日本の鉄道100回記念であったことがわかった。「汽車土瓶」は全国にいろいろあったが交通科学博物館に展示してあったものは形、色、模様などから信楽学園で作られたものであると思う。2008年(平成20年)に復刻されて話題となっていた。さて番組のスポンサーである大阪屋證券は現在の岩井コスモ証券である。名前が“大阪屋”ということなので印象が強く、覚えていたのである。

 宇高連絡船がなくなって20年あまりになる。写真を撮るときはじっくりと被写体を見る。ただ、展示物を見ているだけであればここまで見たのであろうかと思ってしまった。それがこの展示物を撮影した時である。

貨車を積んだ艀と汽船

  ご覧のように貨車は艀にのせて、その艀を両側に従えた汽船がさらにもう一隻の艀を曳航している。私はこのような方法で貨車を航送していたとは知らなかった。以前から展示されていた思うのであるが、見過ごしていた。さて、調べてみるとこの展示物と同じように航送している写真を見ることができた。それは乙訓の長老様邸より引っ越してきた「新日本鉄道史(下)」にあった汽船が艀を両側に抱き込んだ状態で航行している写真である。このようなことは何かのきっかけがないといつまでも知らないままでいてしまう。本州と四国の貨物輸送は当初は船に積み替えていたが、1921年(大正10年)より貨車を艀にのせて航送するようになった。ところで日本最初の鉄道車両航送は関門連絡であった。川の流れのような潮流が速い関門海峡を、貨車をのせた艀を引っ張って航行するのはどのようであったのだろうか。そして、宇高航路では艀を曳航していたときの航行時間は3時間もかかっていた。“春の海 ひねもす のたりのたりかな”という感じで1日4往復をしていた光景を見てみたいと思う。1930年(昭和5年)に貨車10両を搭載できる自航式貨車航送船の運航が開始された。そして宇高航路の貨車航送は1988年(昭和63年)に廃止される。その時に運行していた伊予丸は高松-宇野間を艀による貨車航送時間の3分の1である1時間で航行していた。その伊予丸に私は1975年(昭和50年)に乗っている。高松から宇野への伊予丸発行の連絡船用グリーン券(自由席)が手元にあるので間違いない。どのような旅行をしたのかわからないが、琴電に乗って金毘羅へ行ったような記憶があるのでその時の物であろう。そして1977年(昭和52年)には同じく高松から宇野へホーバークラフトに乗っている。列車の接続が悪く、普通便の船でも岡山に行くには同じであった。このときはホーバークラフトに乗ることが目的であったのであるからそんなことはどうでもよいことであったのである。

 

1時間で航行した伊予丸(オレンジ色の船)と3時間もかかっていた艀曳航航送並んでいる。

宇高航路の時代を超えた展示
1時間で航行した伊予丸(オレンジ色の船)と3時間もかかっていた艀曳航航送並んでいる。

 今は夜行高速バスが数多く走っていて、よく利用されているが、高速道路を利用する夜行長距離バスはこの1969年(昭和44年)6月より運行開始したドリーム号が最初である。車体をよく見入るとリベットで外板を接合している。

ドリーム号

 私は1972年(昭和47年)2月25日に大阪を23時発のドリーム号に乗っている。東北旅行に行く為だった。翌日は上野から急行八甲田で八戸へ行っている。東京では何をしていたのか思い出せないが、多分交通博物館に行ったのではないかと思う。東北均一周遊券を利用したので、高速バスの運賃も含まれている。大阪市内発の切符には裏面に“2月25日大阪発23時00分 増①号4番B”とある。これによると利用者数によっては増車していたことがわかる。そして、現在は高速夜行バスが各方面へ運行されている。大阪からは仙台、山形へ、そして長崎、宮崎、鹿児島へと走っているのである。この夜行バスは利用者が多く、休日の前日であればすぐに満席となることが多い。料金が安いのが魅力で、最近は車内設備もよくなっているからであろう。これから考えてみると夜行列車も従来にこだわらずそれなりの設備でエコノミーな列車にすれば復活できると思うのだが妄想だろうか。サンライズ出雲・瀬戸のノビノビ座席がよい例で、このような設備で運賃を安くすれば乗る人が増えると思う。この列車も乗車日と寝台のタイプによってはプラチナチケットとなっているようだ。豪華ツアー列車もよいが普通の利用者を掘り起こすことも必要であると思う。

 交通科学博物館から京都鉄道博物館になるようだが、鉄道だけでなく交通全体を考えてみることができる博物館としてこの交通科学博物館の存在は交通博物館がなくなった今では貴重な存在であった。

交通科学博物館で時空散歩」への5件のフィードバック

  1. どですかでん様
    交通科学博物館のレポート楽しく拝見させていただきました。私が同館へ行った時は開業間もないころでして復活運転したC5345が目玉で屋外に展示されていました。小学校の遠足は伊勢で乗ったのは2200でした。車内のスナップ写真から近鉄に詳しい方に判断をいただきました。小学校の修学旅行は関西は伊勢、関東は日光方面が多かった様です。中学校は私も「きぼう号」でした。安保闘争で国会議事堂見学が中止となったことは以前どこかで発表させていただきました。安倍首相のお爺さんが総理大臣の頃ですから私も相当高齢者です。ところで大変驚きましたのは大阪屋証券提供の「日本の鉄道」です。15分という放送時間やスポンサー名をよく覚えておられましたね。勿論白黒テレビでしたが、一番最初はC59の列車とすれ違うシーンのように思いましたが、如何でしたでしょうか。鉄道物ではもう一つ「公安36号」というのを見ていました。影山泉さんという方が主役で一度飲み屋さんでサインもらったことがあります。また、懐かしい話をお聞かせ下さい。

  2. 老人も2月22日お別れに行ってきました。当館は1962年開館直後に納品した製品のクレーム処理に富山から行ったのが最初で、1986年6月最終日曜日に「吉谷先輩」の遺言?に従い、
    「鉄復活」で第一歩を記した館であります。海外鉄研関西支部例会に顔出し、鹿島雅美氏の手引きを受け復帰いたしました。あれから22年余が経過いたしました。

  3. 準特急様
     コメントありがとうございます。思い出しました。「鉄道公安36号」という番組もよく見ていました。それから鉄道ものでありませんが、海上保安官を主人公の番組も思い出しました。これもよく見ていました。NHKの「みんなの歌」で「線路は続くよどこまでも」という歌で映像が東海道線を走る特急の運転台から撮影したものであったのでいつも楽しみにしていました。多分、「特急こだま」だと思います。運転台が高い位置にあるので運転台のうしろに立ってみるのと違っているのですごいと思っていました。そして、交通科学館でこだまの運転台に座ってテレビの画面をダブらせて楽しんだことを思い出します。
    乙訓の長老様
     1962年の開館直後に仕事で行かれた時、私は小学校5年でした。開館してすぐに叔父に連れて行ってもらいました。この時はまだ完全につながっていなくて、途中で乗り換えた事を覚えています。その後、みなと遊園にも行きました。それが最初ですが、それから時々わからないことがあれば一人で行って調べたことを覚えています。たとえば、蒸気機関車のシリンダーに蒸気を送る弁とリンクの動きを展示してあるものを動かして、なるほどと思った次第です。とにかく気軽に行くことができるところでした。

  4. どですかでん様
    ご無沙汰しています。実は私も3月6日に交通科学館に行って来ました。子どもが小さかったころ一度行って以来機会がなく、今回20年以上ぶりの訪問でした。当時と比べると展示内容はかなり変わっていて初めて行ったような感じがしました。以前は正面の階段を上がったところに劇場があって、鉄道関係の映画をやっていたのを見た記憶がありますが、先日行ったときは階段の下にチェーンが張られていて、2階は使われていないようでした。どですかでん様が、ご自分の記憶とダブらせて、展示を紹介されていますが、私も同世代で、同じような経験があり、どの展示も懐かしく感じました。どですかでん様と少し違うのは修学旅行のくだりで、行き先は小学校は伊勢、中学は箱根から東京と同じものの、伊勢はその前年まで草津線経由鳥羽行き快速だったのが私の年からバスになってしまい残念な思いをしました。また、東京へは出来たばかりの新幹線に乗り、家族の中で初めて新幹線に乗ったと皆にうらやましがられ、こちらは大喜びしました。

    • 大津の86様
       こちらこそご無沙汰しております。ぶんしゅうさんや諸先輩と一畑電車へ行かれたそうで、それはよかったですね。最近はあまり遠出はしていませんが、近場でチョコチョコ行っています。飯田線風?を走る221系や聖武天皇がおられた大極殿前を走る近鉄電車を撮ったりしています。東京への修学旅行の時は新幹線ができていたのですが、「きぼう号」でした。ところで、鳥羽行の快速は残念ですね。その時はディーゼル車であったのでしょうか。客車列車であれば加太越えは機関車は何であったか興味深いですね。そういえば、今思い出したのですが、小学校6年の時に行った臨海学校で紀伊田辺へは客車列車で蒸気機関車が引いていました。面白がってトンネルに入るときに窓を開けたままにしたりしていました。こんなことを思い出すのも歳をとったからですかね。

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