50年前の撮影地を歩く-3- 余話その1

新幹線記事を切り抜く(1)

-3-で扱った新幹線開業のことで少し横道へ。
大阪のデパートに「夢の超特急展」を見に行ったところ、当時のパンフ、新聞記事などの紙資料も多く展示されていた。さらに、ピクの最新号「東海道新幹線50年」を見ると、高名な鉄道研究家の名を採って△△コレクションとして、当時の新聞記事が載せられていた。なるほど、新聞記事の切り抜きでも、50年も経てば立派な資料として展示・掲載されるのか、と改めて思ったものだ。
私も鉄道関連の新聞切り抜きは、中学生、高校生時代には熱心にやっていた。鉄道の成長期だったから、新線開業や車両新造も多く、“△△で電車とダンプが衝突”と言った、当時は日常茶飯事の鉄道事故まで、こと細かに切り抜いていた。いま見返しても、鉄道雑誌には決して載らないローカルネタは貴重な記録で、不鮮明ながらも添えられた写真にも注目である。
その時代の鉄道の注目株は何と言っても新幹線だった。新聞にも、大きな扱いで記事が載り、私も“新幹線ができるまで”とタイトルを付けた特製のスクラップブックを作っていた。そのなかから、京都を中心とした新幹線関連の記事を時代順に抜粋してみた。sy371027初めて切り抜いた新幹線の記事。従来の狭軌のスピード記録175キロを、初めて広軌の新幹線が190キロを出して追い抜いた、と言うもの(昭和37年10月27日)。

sy371110大阪駅は、既存駅への併設をあきらめ、淀川を渡らず、山陽方面への延伸も考慮に入れて東淀川駅付近に新駅を造ることで決着した(昭和37年11月10日)。 

sy371122東山トンネルの掘削の模様、トンネル西口付近は、新幹線トンネルでは唯一のオープンカットで進められた(昭和37年11月22日)

sy380210その東山トンネルの貫通。両方向から掘り進んで、貫通地点でガッチリ握手、バンザイの嵐は、この時代によく見られた新聞写真の構図(昭和38年2月10日)。

sy380330試作B編成によって行なわれた高速度試験で、当時、世界最速の256キロを出した。B編成につけられた記念の銘板はリニア・鉄道館に保存されていると言う(昭和38年3月30日)。

sy380524山科~大津の音羽山トンネルの貫通。新幹線では3番目の長さ(昭和38年5月24日)。

sy380704最速で結ぶ「超特急」の停車駅は名古屋のみで、京都は、大阪から近いため停車駅には入っていなかった。しかし、地元から停車への運動が活発になり、当局も次第に乗り気になってくる(昭和38年7月4日)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

50年前の撮影地を歩く-3- 余話その1」への1件のフィードバック

  1. 新聞記事の切り抜きでリクエストをいたします。それは新幹線が開業前に新幹線の線路を阪急電車が走ったという記事です。もし、あれば紹介してください。どうも新幹線の線路上を走る阪急電車に乗った記憶があるのです。どうして乗っていたのかわかりませんが、新幹線の線路上を走っているから、さぞかし乗り心地がすべるような感じでいいだろうと思っていたが、それほどでもなくがっかりしたような気がしています。どうも微細な振動と音があったと記憶してしています。今から考えてみると新しいレールであるため表面が微妙に凹凸があったのと、台車が空気バネでなかったのが影響していたのではないかと思っています。しかし、左右動はなかったのでさすがに新幹線の線路はしっかりしていると思いました。

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