杉津 半世紀後の眺め

tsurukameコンビの杉津越えの写真、うらやましく拝見しました。準特急さまのコメント通り「もうちょっと早く生まれていたら」です。昭和37年4月と言えば 私はピカピカの中学1年生。ようやく意を決して一人で京都から遠出をしたのが、中3の昭和39年5月10日。柳ケ瀬線の廃止の日でした。木之本から当時の終点疋田(無人駅)まで柳ケ瀬トンネルを越えての往復乗車でした。キハ521単行は満員で、途中中ノ郷駅(有人駅)で乗客が入場券を買おうと出札口に殺到し、列車が発車できないひと幕があったことを思い出しました(私もそのひとり)。勿論北陸トンネル開通後で、鳩原ループも出来ていて、旧線である柳ケ瀬線が廃止されたわけです。従って北陸旧線はかろうじて柳ケ瀬越えを知るのみで 杉津越えは狩勝などとともにあこがれの線区でした。

前置きが長くなりましたが、時は流れて平成24年10月に浜大津で江若ジオラマ展示をしたのですが、土日のみのイベントだったので 平日を利用してクルマで北陸方面に出かけました。大津から湖西 白鬚神社にお参りし、敦賀に抜け、もう列車が来なくなっていた敦賀港駅を訪ねたあと北陸自動車道で福井方面に向かったのですが、そのとき杉津サービスエリアに立ち寄りました。まさに旧杉津駅跡にあるSAです。tsurukameさまのキャプションに「天気良ければ眺望抜群の筈」とありますが、この日は幸いなことにまずまずの眺望を堪能できました。

杉津SAからの眺望(1)

杉津SAからの眺望(1) 白く光っている海が敦賀湾。左手 湾の奥が敦賀の町。海に飛び出したこんもりした山の手前が杉津の集落。

杉津SAからの眺望(2)

杉津SAからの眺望(2) 正面の浜辺は横浜海水浴場。国道8号線は海岸を走っている。右手奥にかすんでいるのは越前岬。

この杉津SAには展望所もあり、またこの景色を眺めながら食事もできす。山側の駐車スペース側には多分鉄道時代のものであろう石積みの擁壁が残っていました。この駅で交換待ちをする際にはこんな景色が楽しめたのだろうと しばらく感慨にふけったのち 越美北線に向かいました。多分半世紀前の景色もそう変わっていないように思えました。

5 thoughts on “杉津 半世紀後の眺め

  1. クローバー会メンバーの中で北陸線と縁ある会員といえば古参兵の一人に数えてもらえる乙訓の老人なのだが、夜行列車で関西と越中の地を往復していたことが多く、葉原、杉津など懐かしい地名が出てきても、その駅や周辺で歩いた事なしで印象に残っていることがありません。1961年4月2日に513レで大阪駅、京都駅からDRFCメンバーに送られ任地に向かった3週間後、大阪営業所での会議参加の時も夜行往復。塚口の大人宅での電気車研究会への対応協議の時に旦那から北陸トンネル開通予定日を教えられ、やっと帰路を531レとし、学生時代は何時も夜行であった区間に眼をやって車中からスナップを撮った事を今思い出しています。葉原-杉津間の大カーブ、須磨の大人のピク誌コンテストで知りましたが、その頃は電車の事しか頭になく、未だに現地知らずですが、杉津のSAは自宅近所の友人と越前蟹で20年前ぐらい前に行った時に見つけ、坂を上がってもらい眺望を楽しんだことがあります。ありがとう。

  2. 半世紀前、曇り空で眺め、記録することが出来なかった風景を今、カラーで拝見でき『生きていてよかった』です。大変ありがとうございます。ネット上で旧北陸線のトンネルやカーブ、築堤の画像などをよく見かけますが、上のカラー2枚のような周辺の風景紹介はありませんでした。さすがに西村さんだと思いました。

    あまりみんなが知らない半世紀前の画像を、一人よがりに投稿するのも気が引けていたのですが、皆さんが、昔・少し前・近年の話題とそれぞれに関連した話題を提供してくださるのを観ていますと、少しは話のとっかかりになったのかなと、安心しました。

    安心すると、調子に乗るのが悪い癖で、遠慮も年甲斐もなく、意を強くして『半世紀前』を続けようかなと思います。SLはさて置き、鹿児島市電、熊本市電、西鉄各線、長崎電軌、山陽電軌、神戸市電、などなど。SLは布原(伯備線)、宮津線、和歌山線あたりです。2、3年分はありそうですね。

    • tsurukame様
      「半世紀前」大歓迎です。どうぞ調子に乗ってお続け下さい。私だけではなく 多くのtsurukameファンが(tsuru)首を長くして待っていると思います。

  3. 鶴さん、老人は貴方が神戸市電の在籍車一覧表を作り、私にプレゼントしてくれた事を今も覚えている。「玉手箱」の何処かに保存されている筈だ。貴方はてっきり「電車屋」だと思っていたが、ドンキホーテであちこちをうろついているうちに「汽車屋」であること認識するようになったが、過去にあまり発表しなかったから大変楽しみにしている。車庫や駅撮り専門の老人だが、復活後は背後の景観を時々気にするようになった。依然として電車専門で雄大なバックの場を求めて歩いていなかったから、今後の貴君の半世紀前を楽しみにしている。

  4. 「杉津SAからの眺望」から半世紀前の記憶が蘇りました。

    祖父の親戚が鯖江に住んでおり、そこに父の弟(つまり叔父)が勤務地の関係で下宿していました。
    そんな関係で、昭和30年代の前半に祖父か父と年に2回位行きました。
    場所は福井鉄道の西鯖江駅から10分位の処で、急行、準急で行ったときは武生から福井鉄道で、普通列車の時は鯖江で降りて20分位歩きました。
    昭和31年小学校2年の時、作文に「急行上野行」の乗った時のこと書いたことを思い出し、時刻表復刻版昭和31年12月号で確認すると、大阪~富山間の急行「立山」と福井~上野間の急行「北陸」に分割されていました。多分この年の11月19日の東海道線全線電化によるダイヤ改正で分割されたと思います。

    当時、京都から北陸線に直通する昼間の列車は、8時6分発青森行、11時14分発準急「ゆのくに」、12時44分発急行「立山」、14時51分発金沢行の4本しかなく、よく利用したのは、父と行く時は準急「ゆのくに」、祖父と行く時は金沢行で、普通列車の方が頻繁に交換する列車(貨物列車が多い)をゆっくり眺められるので好きでした。

    帰りの列車の記憶は余りないのですが、祖父と一緒の時、武生から乗った「立山」が満員で、米原で隣の2等車(オロ40)が少し空いたので、そちらに移り、私は座席の端に座らせて貰えましたが、祖父は京都まで立ちっぱなしでした。

    その後、叔父は結婚を機に福井市内に転居後、程なく転勤で明石に転居と、祖父の他界で鯖江に行くことはなくなりました。
    もう一つ思い出は、親戚のおばさんが「福井にも綺麗な電車ができた」と言ったことで、元南海の木製車を鋼体化した80形のことでした。

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