糸崎とガソリンカー

糸崎や尾道がらみの投稿連発で恐縮です。鉄道とは関係のない郷土史のことを調べるために図書館で古い新聞記事を丹念に見ていると、自ずと鉄道関連の記事にも目がとまります。昭和8年8月8日の中国新聞備後版にこんな記事を見つけました。

昭和8年8月8日 中国新聞備後版

昭和8年当時の時刻表まで調べていませんので 列車の頻度がわかりませんが、幹線なので急行列車は多いとしても通勤、通学に地元の人が利用できる列車は限られていたのでしょう。「三呉線の開通」とありますが この新聞が発行された昭和8年8月時点ではまだ三原から竹原までしか開通していません。三呉線はまず昭和5年3月19日に三原・須波間の1駅間の開業から始まります。この時 盲腸線用にと糸崎機関区に新製から半年余りの新車である2軸車のキハニ5000が2両配置され、1日7往復 糸崎・須波間の区間運転に使われたようです。糸崎機関区に隣接して明治40年開業の中国地方では数少ないニューヨーク・スタンダード石油会社の油槽所があったことも関係しているかもしれません。

姫路駅のキハニ5002 湯口大先輩の「日本の内燃動車」パンフより無断拝借

キハニ5000は制式ガソリン動車のさきがけとして昭和4年7月に12両が誕生し、各地に数両ずつ配置されました。しかし15Tonの車体に48HPの舶用ガソリンエンジンという非力なしろものでした。ちなみに我が家のガソリン動車(軽自動車)は自重0.8Tonで57HP 定員4名です。現代の軽自動車より非力なエンジンなのに車体は18倍も重いのです。そこに定員48名と荷物1Tonですから信じられません。苗穂工場に復元されたキハニ5005が静態保存されてはいますが、実際にはどんな加速でどれぐらいの音と振動だったのかを体験してみたかったですね。

三呉線は昭和6年には安芸幸崎、昭和7年には竹原と順次開通してゆきます。この新聞が出た昭和8年にはもう糸崎からキハニ5000は姿を消しています。ではこの新聞記事に出てくる「ガソリンカー7台」とは何かということになります。昭和8年3月にはキハ41000が36両製造され各地で走り始めます。ほぼ同時にひとまわり小さいキハ40000も登場します。新聞記事のガソリンカー7台とはこのキハ41000かキハ40000を指していると思われます。鉄道省の担当者の大風呂敷を新聞記者が真に受けて記事にしたのかもしれません。

ここで興味深いのは糸崎・尾道間の数箇所に駅員を配置しない簡易停留所を設けるという点です。もちろんこれも実現していませんが、これはあながちガセネタではないように思います。昭和4年にキハニ5000が配置された仙台の塩釜線にはガソリンカー専用の駅として三百人町、行人塚、小田原東丁という3駅が設けられたようです。ただキハニ5000は早々に姿を消し、専用駅も廃止されたようです。

もう一つ意外に思ったのは定期客にアンケート用紙を配って希望を聞いたというくだりです。内燃車両に対する技術が未熟なこと、逼迫する燃料事情などのため簡易停留所やガソリンカーによるフリークエントサービスは全く夢物語に終わり、結果として利用客のニーズには全く応えられなかったわけですが、昭和ヒト桁代ではまだ真面目な取り組みがなされていたという印象を受けました。残念ながら「大いに機運は熟しつつある」というのは希望的観測でした。

小さな記事がいろんなことを考えさせてくれました。それにしても当時の文章の長いこと、長いこと!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください