今朝の中国新聞1面トップは三江線廃止のニュースでした。2年後の2017年度に廃止の方針のようです。2006年7月に豪雨により不通となり、この時点で廃止の声も聞かれましたが、約1年後の2007年6月に運転を再開し なんとか生き延びました。沿線にこれと言った観光地もなく、陰陽連絡の役にも立たず、いくら活性化、利用促進を叫んでみても 1日の利用客が50人では成り立つ筈もありません。三江線の次は木次線でしょうか。因美線でしょうか。陰陽連絡の高速道路が次々と開通するなか、過疎化には歯止めがかからず 中国山地の山あいをクルマで走ると人よりイノシシ、鹿、猿に出会う方が多い昨今です。
平成19年に三瓶に観光旅行に行く際に浜原駅に立ち寄っていました。浜原は三江北線の終点だったように思います。新聞の写真にある石見川本駅と同じく 沿線での主要駅です。立ち寄った際は水害で分断されていた時だったように思います。レールは錆びたままです。
水害から復旧したあと 平成19年7月28日に「三江線運転再開号」という臨客が走りました。以前本掲示板に投稿したかもしれません。
なにしろ本数が少なく、走行写真を撮ったのはこの列車だけです。少し遠いのですが、これからは頑張って県北へ足を運ぶことにしようと思います。三次の尾関山公園は桜の名所で、今年の春にも出かけました。公園から三次の町が一望できるのですが、足元に尾関山駅を見下ろすことができます。まずは来年の桜の頃に このアングルでキハを狙ってみようと思います。
西村雅幸 様
三江線の廃止ですか。数年前にその地域の線区に乗った経験からも、止むを得ないような気もしますが、ファンとしては寂しいですね。三江線が廃止対象になるなら、次は仰るように木次線でしょうか。さらに芸備線の新見~備後落合間、福塩線府中以北も危ないと思われます。
ここしばらく各線区ではダイヤ改正毎に少しづつ運転時分が延び、理由を計りかねていました。乗ってみて、要するに保守費をかけていないことによる徐行区間の増加のようでした。また沿線の樹木伐採もしていないようで、車輛が枝に擦れる箇所も多数ありました。
まさか廃止前提の保守費削減ではなかったと思いますが、利用客減少の結果であることは想像に難くありません。特に芸備線の同区間が廃止になれば、接続している木次・福塩もアウトになります。どちらが先でも鉄道空白地域が生まれることになりそうです。木次と三江北は小生の好きなC56が活躍していた思い出の多い線区です。地味ですが味わい深い線区ばかりなだけに、廃止となれば本当に残念ですが、時代の流れで仕方ないのでしょうか。 1900生
1900生様
おっしゃるように速度低下の一因は保守費の削減だと私も思っています。昔 エアコンが無い時代には夏には窓を開け放し、黄害覚悟で
窓から顔を乗り出して流れる風景を楽しんだものですが、今そんなことをすると 顔中傷だらけです。晴れの日と雨の日でも速度が違います。呉線ですら雨天徐行区間がたくさんあります。三江線や木次線に今もキハ02が走っていても こういう結果にはなったことでしょうが・・・。地方再生と景気のいいことをブチ上げるだけで全く中身が伴わず、リニアのようなものに莫大な金をかける愚がまかり通る この国はどうかしていると思うこの頃です。
木次線、廃止反対!
昨日のNHK「こころ旅」で火野正平さんが可部線の延長区間を走っていました。
一旦廃止された線区が復活するのは初めてだとか聞きましたが、こんな路線もあるのですね。
米手作市様
コメントありがとうございます。先の広島の土石流災害でもわかるように広島市は意外と平地が少なく、北の山の方へ宅地化が進んでいます。可部線広島・可部間は昔の広浜鉄道で、駅間が短く単線で時間はかかるものの、以前は横川で乗り換えだったのが広島へ直通するようになって利便性が向上し、可部からまだ北の方へと宅地化が進んでいます。廃止された可部以北の非電化区間の路盤がそのまま残されていたので、用地買収の必要がなく 延伸が決まりました。ところがすぐにでも延伸されるかと思いきや、新規に敷設する鉄道には踏切を設けてはダメで立体交差にせよとかいう法律?があって、生活道路の踏切を廃止するという話になって地元と紛糾したり、なかなか前に進まないようです。
私も「こころ旅」見ました。復活工事が進んでいるような、進んでいないような感じですが、地図でみると延伸先に住宅地があるので広島市中心部への利便性を考えると延伸の必要性を感じました。また「とうちゃこ」のかつての可部線今井田駅までの場面を見ていると何やら三江線と似ているような感じがしました。私は三江南線の終点までしか乗っていませんが、三次駅三江南線0番ホームの写真を見てみると、よく今まで廃線にならなかったのが不思議だと思ってしまいます。12月の広島旅行に西条へ行くルートとして陰陽連絡ジグザグ旅をしてみようと思ってみたのですが、とんでもなく時間がかかるので断念しました。しかし、分割でもいいからジグザグ旅を実行してみたいものです。西条行でもう一度考えてみようかな・・・
どですかでん様
西条行きは海路ではなかったのですか。陰陽ジグザグは容易ではありません。木次線出雲坂根の峠越えは雪が降り出すと冬季運休に入りますので、雪が降り出す前に通っておいた方がいいですよ。三江南線に乗っておられたのですね。多分口羽が終点だった?昨日の当地ではNHK,民放が三江線廃止問題を一斉に取り上げ、また今朝の新聞も多くの紙面を割いて記事があふれています。広島県と島根県がどうせ財政負担を強いられるのなら、いっそ第三セクターの三江鉄道でも立ち上げて存続させることはできないのかと思ってしまいます。福塩線府中・塩町間も風前の灯感がありますが、福塩北線も一緒に3セク化して一部芸備線に乗り入れて、浜田発府中行きあるいは浜田発福山行きを走らせるとか つい夢をふくらませてしまいます。車両は新造ではなく、各地の3セクの中古車で良いのです。ただ保線の手を抜くわけにはゆかないので、鉄道を維持してゆくのは大変だと痛感します。北丹鉄道のように15Km/h以上出すと脱線するようでは困ります。立派な駅舎も不要です。北海道には簡易乗降場がたくさんありました。お年寄りが転落してはいけませんが、バス停に毛が生えた程度の乗降場を点々と作って、必要なときにだけ停車するので良いのです。存続させるなら 柔軟な頭の人が音頭をとらないと難しいと思ってしまいます。
西村雅幸 様
関連記事を検索しているとC56108が整備されたとの記事を発見しました。懐かしいですね。探せば何枚か写真があったと思います。
さて今さらSLを維持してやっていくのは大変でしょうが、今から思うとなぜⅭ56160を一度も走らせなかったのか不思議です。縁も縁もない湖北を走らせるより、木次線の方がよりふさわしいと思うのは私だけでしょうか。
尤も三江線では20年ほど前に数年間ですが、沿線の秋のイベントとして走ったことがありましたね。このときは元の運転区間を越えて、川本~口羽にも乗り入れ、新たなSL走行シーンを提供してくれました。残念ながら警備を担当する沿線自治体から悲鳴が上がり、数年で取りやめになったと聞きました。イベントとして走らせるのも、現実には言うは易し行うのはの類で、中々苦労が多いようです。
ところで木次線の冬季運休の件は全く知りませんでした。地元では当たり前でも、遠来の18きっぷの客にはHP等できちんと案内してほしいですね。JR西日本社内における木次線の地位を象徴しているようです。
そろそろ18きっぷで、姫新の津山付近、因美、芸備の新見~落合、木次、三江各線の乗り納めを計画しないといけませんね。
1900生さま
コメントありがとうございます。C56108は地元の熱心な人たち(国鉄OB=高齢者)がおられるから整備されましたが、行政も後ろ向きですから いつまで維持され続けるかは不透明です。三江線問題は今日も新聞紙面を賑わしています。すべての記事を紹介しきれないので、のちほどコラムだけをアップしましょう。18きっぷでの乗り納めを是非計画してください。何泊かしないと回れず、効率が悪いですが仕方ないですね。智頭急行や若桜鉄道も乗るとなると18きっぷは使えないし不便です。昔なら山陰均一周遊券1枚で済んだのに。
ところでまだお知らせしていませんが来る11月24日が呉線三原・呉間開業80周年(昔の三呉線、要するに呉線全通80周年)にあたり、11月21日(土)には瀬戸内マリンビュー号を記念列車として、マリンビューの時刻に合わせて呉駅や三原駅で記念行事が行われます。そしてマリンビューの乗客には記念品が配られる筈ですが、この記念品は何とクローバー会の特派員氏、tsurukame氏、そして私が提供した写真を使ったハガキのセットです。記念入場券セットにもこの写真が使われる筈です。残念ながら18きっぷの期間中ではありませんが、呉線の乗り鉄にお越しになりませんか。まだJRから正式な連絡がきていませんが、JR西日本のホームページの「ニュースリリース」には予告記事は出ています。
福塩線の名が出てきてどうなるか心配している。老人の連れ合いの父親は福塩線備後安田出身で、結婚の翌年GWには墓参りを兼ねて駅から徒歩20分の叔父宅に行ったのが最初で、その後も交流が有ったが叔父死去の後、叔母は従弟に引き取られ千里NTにやって来たことで福塩線とはは関係がなくなった。20年ばかり前、府中が本社工場の床材メーカーの招待を受けた時、ゴルフ族以外は観光となったが、それから抜け出し三次往復をDCでやってきたが、峠越えの上下を出ると乗客は5人となってしまった。備後庄原に今も頑張っている従弟に話したら、中国道開通後は車世界となり「兄さん、だれも汽車に乗るのはおりやーせんのう」と言われてしまった。千葉県市川に住む義弟も小学校までは田舎育ちだが時折、田舎に行くときは当家の自動車で中国道利用である。義父は田舎から大阪に出てくる時は、府中まで徒歩、府中から軽便で福山へ、そこから官線に乗ったと、大正時代の話をしてくれた。
乙訓のご老人様
コメントありがとうございます。義父様が備後安田でしたか。備後安田から府中までと言えば直線距離でも40~50Kmはあり、歩けば1日かかります。軽便鉄道とて それはそれは有難い交通手段だったことがよくわかります。義父様が乗られたであろう両備軽便鉄道について このところ現地をウロついて調査を進めております。三江線と同様福塩北線もせっせと写しておかねばなりません。備後安田あたりは稲刈りも済んで、あちこちに柿がたわわに実り、ススキも穂が出始めて秋の風情が一杯の頃だと思います。