山科電化当時の記憶(その4)


暖房車5輌を加えた牽引試験列車 もうD51やD52の姿はない 機関車の次位は試験車

先回の最後の写真はEF15が単機で走行しているが、やっと試験や試運転列車から蒸機が抜け、電機単独での試験走行が開始されたことを示す。暖房車を含む客車牽引での試験列車は1956年10月10日―電化開業が11月19日だから、約1か月前である。暖房車は前にも記したとおり、冬場以外用がなく失業中の上、適当に重量もあるというところから、電化の直前の試験列車には必ず登場した。

電車の試運転も始まった。モハ80系300台=窓枠がアルミサッシュになり、窓の四隅もRが付き、一段と斬新さがまばゆかった。


山科の大カーブに初めて姿を現した80系300台 

そして11月19日。二浪中で(表向き)撮影を自粛していた小生も、流石に京都駅に出かけた。生憎と薄く霧が立ち込め、その中に現れた電化最初の上り特急「つばめ」は、何と何と、EF58、客車とも草緑、屋根は銀色に塗られているではないか。現在と違い事前に情報も流れず、当然報道もなかったから、この色彩作戦には並みいる者すべてド肝を抜かれたといっていい。EF58には大阪と東京のマークをあしらった、記念のヘッドマークがついており、このマークはその後長らく神田の交通博物館に展示してあった。

霧の中にやたら明るい色の列車だから、現像したネガは真っ黒で、粒子がやたら荒れている。参集したファンはそれでも15人ぐらいはいたか。大方は顔見知りだったが。今なら考えられないのんびりムードではあった。

この後間もなく、この草緑色列車には「青大将」なるあだ名が付いた。


電化完成の記念乗車券と準急行券

山科電化当時の記憶(その4)」への6件のフィードバック

  1. 新塗装のEF58に80系300番台。読んでいるだけで心が明るくなるような記事です。
    もはや戦後ではないと言われた昭和31年、老は2浪中でございましたか。
    拙生も浪人中は幡生ー下関間によく行きました。
    いま転居に向けて古本の山と格闘中です。その頃の鉄道ピクトリアルは
    お持ちでしょうが、「旅」なんかも持っていますよ。
    この日は記念切手も出ました。多分持っております。

    NHKでやった無縁社会の特集に随分反応があったようですが、溜め込んだ本や
    史料は流れ流れてやがて何処かへ辿り着いてくれればいいですね。

  2. カメラアングルの高いのは、秘密のご馳走ならぬ秘密の腰掛があったのです。そこで旗やカンテラを振った方もいらっしゃいました。代返です。

  3. 新年度から始まった「山科電化前後の記憶」を毎回興味深く拝読させていただいております。昭和31年といえば小学校2年生の時で多少の記憶が残っています。
    「その3」の「鳥羽快速」は京都市内の小学校の修学旅行列車で、修学旅行の団体が乗車する時は増結されました。私が乗った時、行きはオハ35、帰りはオハ61で、座席は3人掛けでした。基本編成はオハフ+オハ×2+オロ40+オハフの5両で京都~姫路間はラッシュ時間帯にかかるため増結車が5両付き、元スロ32、33のスハ37がよく入っていました。スハ37はオハ61と同様の背擦り板張り座席で定員は96名でした。

    今回の「その4」で80系電車が急行ヘッドマークの「急」の部分を「試」に取り換えた写真は非常に珍しく貴重な写真です。重箱の隅をつつくような話で恐縮ですが、キャプションで勘違いされていると思われる部分があると思いましたので書かせていただきました。

    今回の写真は、昭和31年本予算で新製された湖東線(東海道線の京都~米原間)電化開業用の新車、クハ86100台、モハ80200台が正解です。
    この時、5両編成(クハ86+モハ80+サハ87+モハ80+クハ86)×7本=35両と予備車(モハ80)3両の計38両が新製されました。
    車号はモハ80208~224の17両、クハ86119~131の奇数車7両、クハ86122~134の偶数車7両、サハ87108~114の7両、計38両です。
    窓のサイズは以前の車両と同じですが、窓枠のアルミサッシ化、巻上げカーテンの取付け(それ以前は木製の日除け)、クロスシート間隔の800㎜拡大が行われました。また、寒冷地を走行するため、スノープローの取付け、警笛をヘッドライト横に移設、床下機器に防雪被いの取付けが行われましたが、モハ80208と209の2両は暖地仕様で製作されました。塗装は、在来車と同じ大鉄急行色で、翌年に増備された300台から湘南色で登場し、以降順次在来車も湘南色に変更されました。(但し先頭車の前部の塗り分けは関西方式に統一)

    尚、80系300台は昭和32年本予算で新製され、第1次車が同年7月から8月にかけて竣工し、車体の全金属化、窓サイズの拡大、座席間隔の拡大、蛍光灯、扇風機の取付け等が行われアコモデーションが格段に向上しました。

  4. 失礼を致しました。藤本氏のご指摘、まことに汗顔の至りであります。小生には80系アルミサッシュだと300台だという思い込みがあったようです。

    なお鳥羽快速はまさしく修学旅行列車で、当初はオハ31系ばかりの綺麗に揃った5両編成、牽引はC51だったと記憶します。その後20メートル客車になり、編成も増え、山科唯一のC57牽引に。シーズンには増結され、その折はC51の補機がつき、ともかく早い列車で、本文に書いた通り上りでは特急とこの鳥羽快速の時だけ拙宅2階の小生の部屋の窓ガラスが共鳴したのです。

    そういえば、1956年10月15日、参宮線六軒駅での快速243レが信号無視(離合駅変更無視)で安全側線に突っ込み脱線転覆、そこに246レが突っ込んでの大惨事(死亡40、負傷95人)がありました。その無残にぶっ潰れた4両の機関車の残骸が、裁判の証拠として亀山に長らく残存しており、確か米手作市氏が以前にこの元祖青信号に写真を出していたはず。小生も撮っていますが、その中にC57110があって、前回の山科での鳥羽快速の主機なのです。

    我々の仲間ではこの快速列車での修学旅行団体添乗補助アルバイトを経験した人が少なくありません。柘植で特大ヤカンでお茶を受取って水筒に配ったり、そのまま一緒に伊勢で泊まった人もいました。当時伊勢のお土産に赤福餅とお福餅が猛烈な競争をし、児童が寝静まったのち、付き添い教師に誠にけしからぬ8mmムービーを競争で見せ、その結果で教師がどちらかの餅に決めるという、言語道断のサービス合戦が展開され、アルバイトもその余得?に与ったと漏れ聞きます。小生は経験していませんので念のため。

    田野城氏が?と思われたのは、下り線の信号機の根本の鉄箱上からの撮影であります。今なら立派な犯罪になり、新聞でたたかれましょうが、当時はおおらかでした。鉄箱に這い上がれなくて、居合わせた保線区員に尻を押してもらった手合いも居たぐらいですから。

  5. 秘密の腰かけの種明かしはチャックにしておきます。
    旦那に連れられ失業中の1966年5月、伊勢海老快速で2回添乗員をやらせてもらった。もっぱら旗持ちで、列の後押しであった。堅い旦那であったから、8ミリはなかった。旦那は酢、おっさんは酒、2人分たっぷり飲ませてもらった。赤福とお福の両方を貰った。その他持ち切れないほど頂いたが、半分は駅前全観営業所において帰った。1950年10月31日、11月1日の修学旅行は二見館、姫路からC51以下スハ32系6連でやってきた。2両スハ32を増結、後押しは「梅」C51100.万歳とやったらクラスメートが口々に「なんや」と聞いて来た。「この機関車はお召の予備機やぞ」と言ったらみんなびっくりしよった。この時の土産は生姜糖で、まだ餅はなかった。米類が菓子に使えるようになったのは1952年からではなかったかな、賀茂のみたらし団子の復活はこの年で、老人の夏のアルバイトが始まった。昔話。

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