須磨駅前から出発し鷹取町までが前回の記事でした。次の本庄町を過ぎればトライアングル交差点、大橋九丁目です。ここから北方向に板宿線が分岐します。
下の地図は1967(昭和42)年人文社発行、京阪神市街詳細地図です。左(西)の須磨駅前から海岸に沿い、南東向きに進み、右端(東)下部に大橋9丁目が見えます。中央に国鉄鷹取工場がありました。余談ながら中央上部(北)に上細沢町がありますが、筆者が11歳から27歳まで過ごした所です。鷹取工場の操車で蒸機の音が昼夜を問わずによく聞こえたものです。ここは、神戸市の西部、須磨区です。
▼同じ地図帳から、神戸市電の西部地区の運転案内図です。須磨事業所(鷹取町)管轄の1、2、15系統が今回登場します。
▼大橋9丁目で、図のA地点に立ち、3方向を眺め撮影したのが下の画像群です。▼【左車輌】左手後方(北)の板宿を出発、左折して東尻池方面に進む2系統循環板宿行き900型901。【右車輌】東から交差点に到着、右折して板宿にむかう2系統循環800型814号、右手が須磨駅方向。正面奥に信号塔が見えます。1963年3月10日撮影 06308
▼同じく右折する15系統(往復)板宿行き、900型934号。右はダーク・グリーン・カラーの神戸市バス、同日撮影。 06311▼上と同じ角度。こちらは、右手(西)鷹取車庫を出、交差点で左折して北方向の板宿に向かう回送車。行き先表示板を掲げていない、500型589号。市電が通過中のこの上下2線は、鷹取車庫から板宿へ、板宿から車庫への回送車のみが通過する線で、営業車は通過しない。同日撮影 06310
▼同じく回送車の1000型1009号が板宿に向かいます、同日撮影。 06307▼現在の大橋9丁目交差点。ひとつ上の画像後方に写る『北野表具店』は、現在『北野雅陽堂』として、『ニチガク』は『日本額縁画材(株)』として、共に同じ場所で健在でした。
2017年7月22日撮影
▼交差点北側。左手(北)の板宿を出発し、この右手先で左折して東尻池方面に向かう市電の停留場。右脇に大橋九丁目の駅名表示板があります。乗客は結構沢山な数の様です。 1963年3月10日撮影 06312▼同じ停留場で北方向を眺めます。【左車輌】板宿に向かう2系統900型924号、【右車輌】右手先で右折して高取車庫に向かう回送車、900型902号。同日撮影 06309▼現在の同地点。『中川水道商会』は同じ場所で健在。上の画像『朝日生命』の建物も残っています。2017年7月22日撮影
▼国鉄山陽本線のガード下が常盤町停留場、安全地帯無く道路に白線を描いただけ。
板宿発鷹取車庫行き回送車、700型720号。1963年3月10日撮影 06306
▼現在の同所、2017年7月22日撮影。▼同じ場所を反対の西側から眺める、板宿発1系統(循環)900型902号。
1963年3月10日撮影 06305▼現在の同所、日曜日とあって車も少なく殺風景。2017年7月22日撮影。▼南向き。大田町交差点の手前大池町付近を板宿終点に向かう2系統900型901号。左の煙突に『第一大池湯』と大書されている。すると『第二大池湯』もあったのか、銭湯がまだ多数営業されていた時代。また市電左には、『コーヒー』ではなくて『コーヒ』と壁に書かれた喫茶店がありました。06304
▼北向き東側から見た板宿終点。停留する市電、奥に『板宿本通』と書かれた商店街 のアーケードが見えます。その手前に山陽電車の踏切があり、左に板宿駅がありました(現在は地下駅)。06302
▼現在の同所から北方向を眺める。山陽電車は地下線になり踏み切りも消滅、瓦煎餅屋は同所に健在。板宿本通のアーケードも立派な姿に様変わりです。
▼西側から見た板宿終点。この時点では乗客はまだ結構いた様子が伺える。和服姿の乗客も。ビルが少なく看板の立てる場所がないのか、看板立てに集中した看板は、大きな文字で書かれ格好が大きい。1963年3月10日撮影 06300▼現在の同所、右も左も奥もみんな高層ビルで、山がすっかり隠れてしまった姿は、『神戸の街』とは言い難い雰囲気です。
▼渡り線を通り出発する2系統500型589号、背後は高取山、どこに居ても山が見え、少し高台に上がると海が見えるのが『神戸の街』でした。同日撮影 06301▼現在の同所。『神戸銀行』も幾多の変遷を重ね、現在は『みなと銀行』になっています。次回は、須磨区の東、長田区尻池、長田神社付近に移動します。
懐かしいですねェ。神戸高速鉄道、山陽電車の地下化、阪神高速道路等のため、都市計画道路が沢山つくられ、国道2号線も拡幅されましたが、地図ではまだ山麓線すらもないですね。国鉄鷹取西から南に分岐する貨物線は、海岸の米軍接収石油基地につながり、国道2号線・市電須磨線と平面交差していました。米軍のGE製電気式ディーゼル機関車(のちのDD12)が鷹取-石油基地間タンカーを牽引していたと記憶します。鷹取駅西のカーブは今でも街路にその面影を残しています。鷹取工場の広大な敷地も再開発され、公園、ラグビー場、小学校、病院、スーパー、高層住宅、集合住宅等々に取って代わり、昔の面影も薄れました。山ほどあった安い飲み屋も鷹取工場廃止で顧客が消え全滅し、鷹取駅前附近にお印だけになりました。
湯口 徹様
コメントありがとうございます。南へ分岐する貨物線はおよそ1km強あったようですね。掲載の地図(1967年発行)には、海岸沿いに、シェル石油、丸善石油、スタンダード石油、寺下石油など往年の石油会社の名前が見られます。
昭和26年に尼崎から上細沢町に引っ越してきました。その当時は夜中でも蒸機の音が1kmほど北の我が家まで聞こえていました。海岸から運ばれたタンカーを操車していたのですね。残念ながら市電と交差する地点の写真はありません。和田岬線同様、一度は撮っておくべきでした。
tsurukameさま
懐かしい神戸の街並み、拝見しました。と言っても、神戸には何の縁もないのですが、以前に編集・取材した「神戸市電が走った街今昔」からもう16年も経ち、神戸の街を歩き回った当時のことを思い出しました。「大橋九丁目」、私も交差点で現況を写しました。その本を見返すと、旧景はtsurukameさまが撮られたものでした。その節はありがとうございました。私の写真キャプションでも、額縁店が営業中とのことを書きましたが、今でも盛業中なのですね。ひとつ西の「本庄町」での市電と貨物線の交差ですが、同書の140ページにズバリの写真が載っています。またご覧になってください。
総本家青信号特派員 様
ありがとうございます。これまで3回の投稿に、『神戸市電が走った街今昔』を拡げて参考にしておりますよ。今後もそうですよ。140ページの風景も何故撮っていなかったのか残念でなりません。あの辺は小学校の5年生(昭和27年)時分からしょっちゅう通っていたところです。日曜日の早朝に若宮、駒ヶ林海岸に家族と出かけ、漁船から直接取りたての魚を買ったものです。行き帰りに通っていたのです。
『近くだから』、『いつでも取れるから』、『また、後で』が結局、撮らない、撮っていないの一番の原因ですね。下関や長崎、熊本、鹿児島など、電車と共にある程度街の風景も併せ撮っていたのに、神戸市電や、通学に使った山陽電車には思ったほど画像が残っていません。
これに比べて現在は、カメラの持ち合わせさえあれば、何処でも、何でも撮っておけます。フィルムの残り枚数の心配など要りません。ところが、画像が多すぎて、今度は整理がおっつかない。いつだったか、何処に保存したのか探すのに一苦労です。上手く行かぬものです。
tsurukameさま
コメントを頂戴し、ありがとうございます。“近くだから”“いつでも撮れるから”のお気持ち、痛いほどわかります。私の場合は、京都市電に当たります。数はそこそこ撮っていますが、直前のものばかりで、一年を通じて普段着の姿が撮れていません。
それと比べて、現在のデジカメ全盛の時代も、たしかに考えものです。たくさん撮りますから、もうそれだけで満足してしまい、見返したり、何かに役立てたりという活動が、ウンと少なくなりました。
やっぱり写真の世界でも、腹八分目がちょうといいのかなと思っています。
大変貴重な写真。地元に住んでいる者として、懐かしさと感動にひたっています。御写真をを拡大して見ながら、あったあったと心のなかで叫びながら一枚一枚拝見させて頂いております。感謝感激です。
ちなみに、最後の神戸銀行、みなと銀行のカラー写真ですが、みなと銀行の奥に半分木に隠れて写っているのが神戸銀行です。みなと銀行は当時、阪神相互銀行、のちに兵庫相互銀行と合併してみなと銀行になりました。