鉄道介護士氏から難題を突き付けられて、それでなくとも熱帯夜で眠れない上に あの鉄橋が気になって熟睡できず 睡眠不足が続いています。改めて問題の写真を再掲します。先日の大阪特派員氏のコメントは「このC12 全く記憶におまへん」でした。
まずこの写真からわかることを整理しておきます。①機関車はC12に間違いなさそう。②石積みと思われる橋脚の形状から画面右側が上流側のようである。石積みか煉瓦積みの橋脚ということで明治から昭和初期に開通した線区か?③鉄橋にかなり近い川沿いに高台があって俯瞰できる地点④ハエタタキの電線の多さから幹線または亜幹線ではなかろうか⑤貨物列車の編成は前からワ10000かワ12000+ベンチレーターが並ぶツム+幌をかけたトムかトラが5両+幌をかけたトキ+幌なしで白い鉱石?を積んだトムかトラの9両、通風車は主に野菜などの輸送?⑥川幅は広く中州もあり対岸も平地のように見える(山が迫った山峡ではない)。あるいは2つの河川の合流点?
さて私の手元にある最も古い動力車配置表は1963年(昭和38年)4月版です。これによるとC12は全国に104両が散らばっていたことがわかります。なお全国の私鉄・専用線にもC12が20両弱活躍していましたが、この写真は国鉄だとして私鉄・専用線は除きました。そこでこの104両の配置区から推理を進めて行くことにしました。まず104両から工場配置の16両を除外します(苗穂1、土崎3、郡山2、長野3、大宮2、大井1、浜松1、鷹取2、後藤1)。これで残るは88両となります。次に 明らかに入換用と思われるものを消去してゆきます。小樽築港3(手宮線も兼務)、羽後本庄1(矢島線にはこのような長い鉄橋はないので入換用と考えた)、福島2(川俣線には長大鉄橋はなく、混合列車だった)、磐越西線管理所2(日中線も同上)、原ノ町1、小山2、宇都宮運転所白河支所3、田端1、浜川崎2(工業地帯の中なのでこんなのどかな風景ではない)、直江津3、糸魚川3(大糸北線にこんな地点はない)、新潟3、東新潟港1、柏崎1、軽井沢2、上諏訪3、松本2、甲府3、木曽福島2、中津川4(明知線ら陶土輸送があるが、にこんな長大橋はない)、稲沢一1、奈良1、岡山1、小郡1、下関1、厚狭6(宇部・小野田線は工業地帯で電化)、高森線運輸区2(こんな広い川はない)、鹿児島3、宮崎2、南延岡2(日之影線は急峻な五ケ瀬川沿いで風景が違う)。とりあえず以上の64両を除くと、残りは24両に絞られました。
北から桐生4(足尾線)、西舞鶴5(松尾寺の補機も兼ねて)、加古川線管理所4、宇和島4、小松島2、西戸崎5の24両です。順に見てゆくことにします。心強い武器はGoogleストリートビューです。まず足尾線です。あの無蓋車群がふさわしい線区なのですが、足尾線にこのような長大橋がありません。次に西舞鶴ですが、該当するような川が見当たりません。加古川線管理所ですが、加古川線、三木線、鍛冶屋線、北条線と高砂線が守備範囲なのですが、該当箇所が見当たりません。宇和島線は急峻な山間なので広い河原は見当たりません。小松島は鳴門線や牟岐線に該当箇所が見当たりません。西戸崎(香椎線)にも該当するような鉄橋が見つかりません。
ということで、C12の配置区から消去法であの鉄橋を特定しようとしたのですが、全部消去されてしまいました。川のそばにこれだけ俯瞰できる高台がある場所が見つかりません。入換用として消去した64両の中に間違いがあったのか、更には昭和38年よりかなり以前の撮影だとすると、上記以外の線区だったのかということになります。
私にはこれが限界です。私は鉄道介護士にも介護助士にもなれそうにありません。誰か助けて下さい。
西村さん、
ありがとうございます。大変な作業をさせてしまいました。罪作りな通信員氏の代わってお詫びとお礼を申し上げます。
写真の整理をしていて分かったのは、通信員氏はなかなかの忍耐力の持ち主です。雪の線路端で長時間座っていたり(それが原因で痔になったようです)、山に登って列車を待ったり、と一枚を大切の撮られているのが分かります。従って撮影場所は全国にわたり、他人が見て分かる限界を超えています。ご本人に思い出して頂くほかはないようですね。
西村雅幸さん
断水は直りましたか。ご不便があったことお見舞いいたします。
鉄道介護士さんのお世話になってますが、ソノラマぐらいの記憶容量のため思い出せない写真が多々あります。水害や猛暑のなか介護補助ありがとうございます。
さすが有識者の西村さまで、いろいろな角度から推定いただきました。機関車配置から詳細に探していただいたのには驚きです。良く資料がすぐ出てくるものですね。
京都の介護士さん、古い童謡を聞いたりして昔の記憶を戻してみましょう。あっ!お薬、きょう飲むの忘れました。
大阪通信員様
お礼を申し上げるのが遅くなりました。と申しますのも、断水が続き食器類が洗えなかったのですが、以前大量に頂いておりました割り箸や紙ナフキンが大活躍し、家内にも感謝されました。我が家は断水も解消し、普段の生活に戻っていますが、同じ三原市内でも地域によってはまだ断水し、避難所生活を送っておられる方も多く、心が痛みます。貴殿の撮影場所調べは下手な推理小説やパズルより楽しく、お礼代わりでもあります。ただまだ正解にたどり着いていませんので、引き続き調べを続けることに致します。
西村様
詳細な調査をありがとうございます。
別稿で報告させて頂きましたが、この写真に関して東京在住のSN様から特定のご連絡を頂きました。以下、西村さんにご覧頂きます。
1. 写真902
この写真は足尾に向かうC12牽引の貨物列車で両毛線の渡良瀬川橋梁を渡っているところを撮影したものです。
① 足尾線の列車は渡良瀬川橋梁の部分は両毛線を使用し、川を渡りきった下新田の信号所から足尾線に入ってゆきます。
参考として鉄橋の下流側からC12の貨物列車を撮影したものが、わが国鉄時代2鉄道ホビダス「変則三重連」http://rail.hobidas.com/kokutetsu2/archives/0040-8/掲示されていますのでをご覧ください。
橋脚の形やハエたたきの設置形態を確認できます。背景には②で説明する小山も見えませんか。
② 俯瞰撮影になっているのは、桐生を出発した列車が渡良瀬川橋梁にさしかかる直前右側に川べりから立ち上がる小山があり、そこから撮影したためと考えています。国土地理院の二万五千分の一の桐生の部をご覧ください。小山の頂上に174mの表示があり河原から約60mの高さがあります。
③ この写真のはるか彼方にうっすら見える横に細長い建物は、桐生機械の工場で現在は再開発でショッピングセンターになっているようです。
④ 貨物列車は足尾の銅採掘・精錬に必要な関連する原料・資材を運ぶため多くの無蓋車は丁寧にカバーされています。
米手作市様、SN様
足尾線でしたか。最も下流部分の渡良瀬川を見落としていました。ご教授ありがとうございます。これで朝までゆっくり寝られそうです。
SNさま 米手作市さま 西村雅幸さま
お三方には介護ならびに鑑識いただき恐縮いたします。一人で行ったのか同行者はいたのか、高いとこにどうして登ったのか、撮影地ガイドに載っていたのか、ホンマに忘れてしまいました。面目ないと切符や入場券の収集にも手を出していたのを思い出し、入場券の収集帳を繰ってみると「41.-2.16」の日付刻印のある「桐生駅」の10円の赤線入り普通入場券が残っていました。同じ日付の「新前橋駅」もありましたので、あの辺に足跡を残していたのは間違いないでしょう。
皆さんのお陰で、暑さを忘れて楽しいひとときを過ごすことができました。ぐっすり寝て、良き週末をお過ごしください。
クローバー会の皆様、いやはやすごいですね。「だいもけいうんてんくゎい」の時に写真を持ってこられて、模型運転をそっちのけで(しかし、総本家青信号特派員さんの急行出雲はそんなん関係ないと走り続けていましたが)みんなで写真を見ながらどこで撮ったのやろかといていたのですがデジ青に写真を公開するとすべての撮影場所がわかり解決したとのこと、ご同慶の至りです。わたしもO君の年賀状にあった写真の撮影場所やあわやゴミ箱から焼却炉行きになるところだった作りかけの荷物車と思っていたのが戦災復旧車でオエ70と教えていただきありがたいことです。
わからないことのあれば合言葉はデジ青、鉄道介護士さんへ。