西日本の豪雨災害は、鉄道の被害が甚大で、復旧までには相当日数を要しそうです。馴染みのある線名や駅名が出てきて、とくに心が痛みます。なかでも、「坂町小屋浦から中継です」などと聞くと、思わずテレビに見入ってしまいます。そう、小屋浦と言えば、呉線にC59・C62が走っていた時代には、よく訪れた場所で、本欄でも、西村さんから小屋浦で写した客車が報告されています。改めて、ネガをひっぱり出して、昔日の穏やかだった光景に思いを馳せていました。
この地域で土砂災害を大きくしたのは、花崗岩が風化した真砂土が原因だと言われています。花崗岩は、とくに中央構造線の北側に多く分布していて、緑の山に、ところどころに白っぽい巨岩が露頭しているのは、関西以西ではよく見る光景です。この光景が、小屋浦で撮った写真にもあって、災害の要因が鉄道写真にも映り込んでいたことに、さらに思いを深くしたのでした。
▲山と海に挟まれた呉線は、短いトンネルを何度もくぐり抜けていた。朝、広島へ向けて、客車12両の列車が何本も通った(小屋浦~坂、昭和43年3月)。
▲小屋浦駅構内を通過する上り荷物列車、背後の山を見ると、花崗岩の露頭が見られる。未風化となって残った、コアストーンだろうか。今回の災害は、右手奥の山間部から発生して、駅手前まで押し寄せて来たようだ(昭和44年3月)。
C59、C62が走っていた時代の呉線、小屋浦は、本数の稼げる撮影地と名を馳せていた。呉と広島の中間に位置するため、朝のラッシュ時には、広発広島行きの客車列車が多数運転される。近くの天応駅の駅長が、蒸機ファンの方で、その方の撮影地ガイドを参考に小屋浦詣でをする撮影者が多かった。ただ、蒸機の本数が多いものの、沿線は国道と人家と並行していて、お世辞にも優れた風景とは言えない。当時、われわれは、撮影に不向きな場所を“クサイ”と言って揶揄していた。小屋浦は、その代表のようなところだった。しかし本数の多さには勝てず、夜行で早朝に広島に着いたあとは、小屋浦付近で稼いで、一段落すると、景色のいい、呉線の東部へ移動するのが常だった。
だが、こうして改めて見ると、“クサイ”と言ったら、罰が当たりそうな、平和で穏やかな光景だ。これも時代なのだろうか。小屋浦付近に、もと通りの生活が戻り、そして呉線が一日も早く復旧してほしいと祈るばかりだ。▲代表的な“小屋浦的景観”、国道、人家をいかに避けて撮るかがポイントだった(坂~小屋浦、昭和44年3月)。
C62は、まだほかの線区でも見られた時代で、呉線への撮影目的は、ここだけのC59だった。196両もいたC59だが、見たのは呉線を走っていた糸崎区の3両だけの私にとっては、C59と巡り会うのが念願だった。▲C59161 国道に沿って走る。その当時は、呉~広島は、この国道31号しかなかったと思うが、いまは何本もの高規格道路があるようだ(坂~小屋浦、昭和44年3月)。▲C59162 まだヘッドマークなしの「安芸」を牽く。軽量客車の多い「安芸」には、よくC59が使われていた(坂~小屋浦、昭和43年3月)。▲C59164 糸崎発西岩国行き621レを牽く(坂~小屋浦、昭和43年3月)。▲勾配の多い本線を避けたのか、D51の牽く貨物も多かった。こうして山側から低く構えると、海が入って、なかなかの風景となる。676レ(坂~小屋浦、昭和43年3月)▲小屋浦駅を通過する上り「安芸」、駅は二面二線の対向式ホームだった(昭和43年3月)。▲「安芸」には昭和44年の始め頃からヘッドマークが装着された。急行にヘッドマークは、賛否両論があったようだが、当時は、C62「ゆうづる」のヘッドマークも無くなっていた時代だから、その再来と正直に喜んでいた(坂~小屋浦、昭和44年3月)。▲再び、ポールが建つ前の小屋浦で「安芸」を待ち受けた。今回被害が大きかったのは、この付近を流れて呉線が越していた天池川の上流のようだが、過去にも、明治期に大きな災害があり、慰霊碑もあるそうだ(昭和44年3月)。▲再び電化直前に訪れてみると、架線・ポールも建植済みで、列車は電蒸運転になっていた。以来、何回か通過することはあっても、もう小屋浦に下車することはなくなった。今回、呉線が開通し、地元の邪魔にならなくなったら、もう一度、小屋浦を訪れてみたいと思っている(昭和45年9月)。
総本家青信号特派員様
半世紀前の小屋浦駅の様子をご紹介頂きありがとうございます。小屋浦駅を通過する「安芸」や荷物列車の写真が如実に語ってくれているように、山肌に点在する巨岩が麓の民家を直撃し、甚大な被害をもたらしました。流れ下った巨岩が現地の復旧復興の妨げになっていて、作業がなかなか進まないようです。削岩機で穴をあけ、その穴に膨張剤を充填して巨岩の内部から割れ目を作って小さな岩塊に分割したうえで重機で搬出と言う煩わしい手順を踏みながら、徐々に道を拓いているようです。広島・呉間の国道31号は開通し、代行バスも走り始めていますが、大渋滞のため早朝5時前に家を出る通勤客も多く、また自転車が例年の10倍ぐらい売れているそうです。長期の断水や避難所生活を身をもって経験し、ようやく東北の震災被害者のご苦労やボランティアの有難さに思いを馳せているのは皮肉なことです。
西村雅幸さま 総本家青信号特派員さま
たまたまですが昨日のTVニュースで広→広島間の代行バスを見ました。5時半の始発前に長蛇の列でしたし、補助椅子まで満員の風景でした。まだ道路が渋滞するようで、乗客から渋滞解消を望む切実な声が上がっていました。普段は何本もの113・115系8連で運んでいたのを代行バスでは焼け石に水でしょうが、それに頼らなければならない現実に心が痛みます。一日も早い復旧を願わずにはおれません。
蒸機時代の呉線には行きませんでしたが、現代の小屋浦・天応には3~4年前に湘南色を撮りに行きました。線路と海との間に道路が走る構図は今も変わらないものの、周辺は工場やロードサイドサービス関係の建物が建ち詰まって、海を入れてとの構想は中々思い通りにゆかず苦労しました。小屋浦駅ではどうにもならず、不本意ながら駅撮りをしてお茶を濁しました。一方で「かるが浜駅」のような新しいビューポイントも出来ており、少し遠くはなるもののなんとか絵になるように撮れたこともありました。
鉄道インフラも災害が少なかった時代のままでは済まなくなってきたようです。普段からの整備・強化が求められる時代になってきました。
西村様、1900生さま
コメントをいただき、ありがとうございます。小屋浦の災害は、写真にあった山ではないものの、すぐ近くで、露頭していた巨岩が原因で、大きな災害を引き起こしたのですね。
呉線は、記しましたように、蒸機時代、朝ラッシュ時、12両編成の客車列車が、20分ヘッドぐらいで広・呉から広島方面に向かっていました。相当な輸送量があったと思いますが、今回、代行バスの混雑もよく分かります。車内混雑はまだしも、渋滞に巻き込まれ大幅遅延は、何とかならないのでしょうか。一人乗りの自家用車などは徹底的に抑止して、公共交通を最優先する方法は採れないのでしょうか。かつて阪神大震災などでは、バス優先時間帯が設けられていたと思います。
糸崎発、呉線回りで岩徳線西岩国駅行きと言う列車があったことに、驚きました。岩国は叔母が居るので、ときどき会いに行きます。西岩国は岩徳線建設時に、現在の岩国駅は麻里布と呼んでおり、本来の岩国の中心近くに建設されました。当時浮上していた「弾丸列車」計画で、岩国駅を作る予定地で、入線出線のカーブがゆっくりとしたスケールなのに、今でも感心いたします。
西岩国駅は瀟洒な駅舎や跨線橋を含む構内の雰囲気がいかにも本線仕様の贅沢さを感じさせる駅です。昨今の機能一点張りの無味乾燥な駅とは大違いです。現在は2面2線の交換可能駅ですが、本来の副本線は撤去されています。この有効長の長い1線を利用して客車が昼寝していたのでしょう。平成23年7月27日 跨線橋から撮影した西岩国駅構内の様子です。
K.H.生さま
ご無沙汰ですが、お元気なようで何よりです。細かいところまで見ていただき、ありがとうございます。糸崎発呉線経由西岩国行き、たしかにありましたよ。糸崎5時20分発の一番列車で、呉線西部では通勤列車の役目を果たしたうえ、本線、岩徳線経由で西岩国へ向かっていました。もともと呉線は広島止めばかりと見られていますが、蒸機時代は、広島をスルーして、徳山、岩国まで行く列車も設定されていました。ただ西岩国行きは、この一本だけでした。理由はよく分かりませんが、客車留置の関係ではと思います。時刻表を読み解くと、戻りは、西岩国17時14分発の広島行きで、日中、客車一編成の留置のために西岩国が終着に選ばれたと考えます。