賀正 秋保電車懐古

「拙老にチョッカイが出た」と須磨が書き込んだ。それに「乙訓は沈黙である」と応じたら、「敵前逃亡まかりならぬ」と、須磨からアームストロング砲による弾丸が乙訓めがけて飛んできた。未だ破裂していないから、どうにか生き永らえている。そこで須磨の大人提供の十六景について知ったかぶりをしてみよう。

 一景目。こんな侘しい風景の中をがったんごっとんと秋保街道沿いを走っている1407号、その兄弟406号の車中で乙訓はどんな思いを持って乗っていたのか、半世紀前のことだから全て忘却の彼方である。まして車庫へ行って在籍車の要目、来歴を教えてほしいとやっていないからピク誌369号が頼みの綱である。和久田氏の調査を下に受け売りを試みる。

二景目、電関はED1011925年日立製、122両あったとか。1両は1938年に福博電車へ譲渡された由。残る1両(旧2らしい)は廃線まで使われたとあるが、記憶にない。見たかどうかも? 花巻にもこんな小型がおったな、の程度。出力は22.4kw×2、運転台には蒲鉾形のコントローラーとハンドブレーキのハンドルしかなかった、ということだ。ブレーキは人力のみに頼っていたのか。電制はどうなのか。重い石を積んだ貨車を従えて大丈夫だったの? と問うてみたい。

三景目(車庫内)は開業時の電動車マハ13の後身、ボギー化されなかったマハ2→モハ402である。さて今も分からないマハなる称号である。「マ」とはなんじゃい。モをマとしたのは、モーターは“マワル”からなのか? 1925年大阪鉄工所製、出力は電関と同じ。兄弟のマハ13はボギー化されモハ14011403を名乗った。ボギー台車は都電の中古品で、ブリル27GEだったと言う。402はブリル21E系そのまま。

四景目(車庫内)。後で出てくるダブルルーフの木造ボギー車と車体形状が異なる。何号なのか分からない。最後まで在籍したモハ8両、サハ4両を消却法で残る車号を探してみたらモハ405号となった。だとすると1912年名古屋電車製造で、新三河電軌に納品されたものだと言うことになる。新三河16→名古屋市電123を兄弟17号と共に193812月に譲り受けたことになっている。出力18.7Kw×2。折扉が付いているのは当地へ来てからのものであろう。

五景目。一景目の延長線と判断する。

六景目。ホームがカーブしているから長町駅であろう。一景目の1407と違い窓が2段上昇型になっているモハ1408である。トレーラーはサハ406のようだ。それにしてもシングルポールは長いなぁ。

七景目。モハ411404の編成。404は自社製、19520126付竣工となっている。

八景目。モハ140319510414付でボギー化の届けが出ている。1401の方12

日遅れての竣工となったようだ。

九景目。モハ410は仙台市電になりそこねた2両のうちの1両である。バッファー、連結器がない。

十景目。同じく仙台市電なりそこなったもう1両である。モハ411は連結可能車である。4104112両は日本鉄道自動車、19466月製造で、19461213の入籍となっている。

十一景目。モハ1408.であろう。14071408は兄弟車両で、元は常南電気鉄道のものであった。峡西電鉄(後の山梨交通)を経て19420108日付けで譲渡された。19261月蒲田車両製の木造4輪車がプロトタイプ。これよりピク誌167号の受け売り。

常南電鉄は根崎(常磐線土浦の0.5km手前)~阿見(霞ヶ浦辺り)間4.1kmを1926(大正15)年109日に開業した。1928322日、根崎から土浦への延長なり全線開業となった。軌間1,067粍、直流!600Vであった。柿岡の地磁気観測所に近い地なのに直流電化が認められたのはどうしてなのか。であるのに利用者は少なく、1938228日に終焉の日を迎えた。もう少し頑張ることができたなら、ガソリン統制にあった代替バスのお世話になることなしに、霞ヶ浦海軍航空隊の足になったであろう。

 開業にあたり蒲田製木造4輪電動車5両(15)と付随車2両(67)新造した。電動車は最大寸法(L×W×H7,925×2,134×3,653粍、自重7頓、定員44人であった。1928年に5号は脱線大破しているが、車籍は残したままであったとか。廃線後、145(車籍のみ)、67の全車が峡西電気鉄道に売却され、15107111(順序不明)と改番された。672両は峡西電鉄では使用されなかったため無番号であったようだ。これらのうち3両が温泉電車となった。

先達の調査によると、

峡西?(常南・付6)→秋保マハ7→モハ1407(ボギー車改造19510414

峡西?(常南・付7)→秋保サハ5→モハ1408(電動ボギー車化19510426

峡西モハ110→秋保サハ3→サハ406 となる。

十二景目。当線オリジナルの付随車サハ1→サハ4011925年1月丸山車両製。19250601日認可とあるから開業以来のものだ。同型にサハ402がある。

十三、四景目。十一景目と共に何処の駅だろうか。電車の運転本数の割には交換可能駅が多かったのは、それだけ石材運搬列車があったのかな?

十五景目。秋保温泉終点の姿で、今もこの光景の雰囲気が残っている。

十六景目。サハ406であろう。

須磨の大人よ、ありがとう。

仙台市電あれこれ話

作並から山を下り仙台市電となった。tsurukame君の2年前に1日半うろついている。その話に入る前、作並機関区の区宝となった筈の物をご披露申し上げる。

 

仙台2日目、11時前に北2番丁車庫を訪問した。2階事務室に案内され、佐藤技師さんから仙台市電30年史を下に講義を受けることが出来た。昼食も御馳走になった。この時のメモ中心にあれこれ話を展開しよう。

1.都電の中古車:モハ70形(707910

19484月、東京都より4輪車10両を譲り受け、改造(整備?)を東京鉄道工業に発注、10月に完成、同年111日付で竣工届が出されている。帳簿価格は300,000円。194946日付で車両設計変更の認可を得て、台枠(ベスチビュール部分か)改造と共に折畳扉設置、窓構造、車内照明を始め外部灯具などの改造も施工している。窓はこの時、70号を除き2段窓になった。1957518日付で7375が廃車、配置は北2番丁に70.71.77、長町に72.76.78.79.となっている。76は衝突事故で休車、これと70724両は次期廃車予定。可動車は予備車的存在で、市内の本線上で見ることは出来なかった。

2.都電、その他の中古車:6169、形式称号なし。

6162)モハ70形の原型である都電400形の車体を購入、61は鶴見臨港の4輪車11号の、62は当局の撒水車の台車と電装品を転用して19417月竣工した。簿価は14,500

6364)江ノ電112122を購入、22の車体に11の台車を組み合わせ63とした。その台車はドイツ・マイネッケ社のものであった。64は都電から譲渡された予備台車を組み合わせた。こららは194212月竣工した。以上4両は東京三真工業所が改造した。簿価は16,100

6566194210月、竹鼻鉄道(19433月名古屋鉄道と合併)から木造4輪車2両(78)を購入した。車体幅が狭いため座席を食い違いにしたタイル張の床を持つ車両であった。これを改造、改修の上、1945年竣工した。このタイル張とはどんなものであったのか、気になる。この頃はアスタイルやPタイルは未だ世になく、あるとすれば高級品のリノリュウムタイルぐらいである。元貴賓車ならわかるとして、庶民の電車にタイル?となったのは当たり前のことである。まさか瀬戸や常滑のタイルを使ったのではなかろうと思うが……。後にこの2両は美濃電岐阜市内線のものであることが、廃車後の解体の時に判明したとか。

676919426月、都電4003両の譲渡をうけた。日本鉄道自動車で整備され19475月竣工となった。6569の簿価は記載なし。

以上9両は19488月:61636566を秋保電鉄に譲渡、19492月:6264が廃車、19551月:6769も廃車となった。NEKO RM90には6268の写真が掲載されている。

3.流線形:モハ43形(43453

これがお目当てであった。1955年、初めて松山に行った時、古町車庫に留置されていた鋼製4輪車、なにか曰く因縁があるに違いないと思っていた。それがTMS7886号で解決したのだが、仙台に行けばその原型に出会えると期待に胸を膨らませていた。初日に仙台駅前で出会い宿願を果たした。

因縁については、佐藤さんから聞くことが出来た。メモでは1938年、18両(4360号)増備の認可を得た。この年の8月に3両、梅鉢車両で完成した。簿価は16,800円であった。43号は北2番丁、4445号は長町所属であった。

次の年は製作割り当てがなく、1940年3両、1941年1両の割当てを得た。当初、製作は木南車両担当であったのが、1941年には日本鉄道自動車に変更となり、19429月竣工の筈が実現しなかった。結果として60形が代替車となった。1946年に購入を断念した結果、日鉄自で完成していた鋼体を秋保電鉄が引き取り、2両を電動車として完成させたが、1両は伊予鉄道に譲った。過去に仙台市が財政難に陥り購入を断念したと紹介された記述もあるが、佐藤氏は原の町線建設が急務であり、市は路線延長に資金を投入したのだ、とおっしゃった。東京から中古車400形購入の目途が立っていたからだろうか。戦中、終戦直後、物資不足に振り回された姿が垣間見える。

 

秋保電鉄の本社は市電長町車庫の南隣で、線路は繋がっていた。北2番丁車庫で撮れなかった70型をキャッチするや表通りに出て302号を待つことにした。300形は前日、仙台駅前で一度キャッチしたのだが他車と重なり、そのことを車庫で言ったら「間もなく帰って来るよ」と教えてもらったからだ。301号は北2番丁所属、302号は長町所属のため動静が掴めたのだ。長町駅前で土佐でも話題となった4輪車の連接車化の姿を、無事にキャッチ出来たが乗ることは出来なかった。それは秋保温泉までの一往復を頭に入れていたからだ。

 

1520分過ぎに秋保電鉄長町駅ホームにモハ411号が到着、伊予の兄弟と対面出来た。当車は194612月竣工時マハ10と名乗っていた。同型410号は当初マハ8号であったが後にモハ408を経て現番号になった。こうしたことはピク誌369号:和久田氏の記事の受売りである。本社へ行って形式図拝見と、居座れば最低1時間粘ることになるから明るい内に沿線観察とはならない。

411号は高校生を10人ばかり乗せ、折り返し月ヶ丘行きとなり直ぐに出て行った。1610分発の温泉行きに乗車するため待つうちに、単車をボギー車に改造したモハ1407号が到着。乗り場の奥に引き上げ、代わって乗り場向かいの車庫からモハ1408+サハ406号が出て来て乗り場に横付けになった。乗ったのは4輪車のサハの方である。市電からの乗り換え客のほとんどは高校生で、サハはゆったりした車内で出発した。16㎞を60分ぐらいの行程、田舎電車そのものである。25馬力×2でトレーラー牽いてだから最大速度は25/hがやっとか。田圃の中をがったんごっとんと走る。そのうち山裾に取りつくや車内灯は一段と暗くなってきた。東北の秋の夕暮れは京より早いなぁーと思っている内に終点到着。

温泉駅は川べりで、温泉街は川の対岸のようだ。電車は入換作業をして直ぐ長町へ戻ると言う。今度はモハの方に乗って温泉電車とはお別れにした。

以上で車号が出てきたのが電動車4両、付随車1両だが、和久田氏の記事では4輪車をボギー車にした開業以来の140114034輪車のままの4023両に1938年に名古屋市電譲受けの405の電動車があり、付随車はいずれも4輪車のサハ4014041959年には在籍していることになっている。車庫で見かけたのはモハ1403とサハ402のみで後は分からない。本稿が誘い水となり、須磨の大人のお出ましを期待している。

 

かって1994年夏、35年ぶりに栗原電鉄へ行ったことを紹介したが、秋保温泉へは1995年秋に行くことが出来た。泊まったのは「勘助」で、翌朝ベランダから川を見下ろす内、対岸はかっての温泉駅であることに気付いた。フロントの年寄りに尋ねてみるとやはりそうであった。朝食前に行ってみたが36年前は夕闇の中でのこと故、何も記憶に残っているものはなかった。平泉へ移動するバスは左側の座席を確保、温泉街を出て名取川を渡ってから山裾を注視した。電車用地とはっきり認められる個所があり、バスはそれに沿うルートを辿っていた。茂庭バス停を過ぎると東北高速道路に入り、一路北上であった。

竹薮の傍から

このところ、話題が明治に及び、顧問も「すまんけど、私も仲間に入れてんか」と、草葉の陰から現れそうである。京津電軌開業80年を直前に、1992年8月14日が命日だから16年の歳月が経過した。顧問は、吉川文夫さんとは絶えず「京電」のことを中心に文通しておられたようで、1993年秋の彼岸を前にして「お参りに行きたいが、案内して欲しい」と電話があった。2人でお伺いしたら奥様から「主人は吉川さんからのお手紙を全部残していました」と、段ボール箱を取り出された。そして「京電関係はこちらの箱です」。2人は顧問の遺品となったものを整理の上、紙袋などに詰め合わせ、頂戴して辞去した。鹿島さんの事務所で荷造り、宅急便で鎌倉へ送った。「関西の鉄道」32号には吉川さんが顧問を偲び、お二人で探索した「京電」の話が掲載されている。ぜひ購読してほしい。DRFCとの「絆」はここにもあったのである。

 インドネシアの孫(2年7ヶ月)が里帰り中である。藪を通して阪急が行きかいする光景がお気に入りである。その阪急、98日朝やって来た7400先頭の8連、8300系新を垂直にしたようなマスクの持ち主であった。車内扉上3ヶ所に薄型テレビの案内装置がある。扉間座席は323で肘掛の区切り付。1週間後、9300系の5本目に出会った。近々6本目も登場するらしい。そしてさらに増備を重ねると噂されている。正雀で観察している「鉄」に、桂で休車となっていた6300系が1本見当たらないので去就を尋ねたら、それは事故編成の代替となり、事故編成1本をあの世へ送ったらしい。9300系増備により2300系の終焉が近づいてきたようである。そしてもう一つ、洛西口駅の前後、東側の田圃や道路で工事の準備が始まっている。道路付け替え工事となっているが、地元紙乙訓版では洛西口駅の踏み切り改良工事のためで、阪急は高架線になるとのこと。この踏み切り前後だけで、川岡、山陰街道の踏み切りは関係ないようだ。勿論、東向日駅高架化も関係なく、向日市民としては寂しい。

月代わりと共に水泳列車の話も陰を潜めた。高校入学するや新聞局に入局したが、6月に入ると水泳バスの切符売りをやらされた。青柳浜往復で朝7時に校門前出発だったと記憶している。料金は忘れた。校下の京都帝産バスの重役さんが安くバスを提供してくださる、とのことで新聞局をはじめ水泳部や他のクラブでも主催し、クラブ運営費の足らず前を稼いでいた。往路は良いとして、復路は帰校がいつになるやら?となり、卒業後は話をきかなくなった。その年、江若鉄道に1957号登場。大鉄車両なる聞き慣れないメーカーにつき高山師匠に尋ねてみたら、「あぁ、あれなぁ向日町駅の東北隅の掘っ立て小屋でごそごそやってるとこや」と、教えてくれた。まだ下鴨の住人で親のすねかじりであった頃で、自転車で向日町へ行った。木造トタン張りの建屋があり、2線引き込まれていた。1958号となるべし車両が工事中。その傍らでタンク車が整備中であった。察するに大鉄車両とは、私有貨車の定期検査を主たる業務としていたようであった。

その年、195810月は阪神の小型車を追いかけている。一段落したところで近鉄名古屋線へ。ジェットカー登場や改軌の事を師匠から教えて貰ったからだ。1225日には和歌山へ。発端は阪急甲陽線の7,8号の姿が消えたからだ。師匠から「和歌山に行けば阪神700と共に頑張っている」と聞かされた。このころピクとTMSが頼りだったが、ローカルのことなど報じられることなく先輩に教えられ行動したものだ。その和歌山ではガソリンカーの成れの果てを7両も見る事ができた。車庫で形式図を見せてもらったら205206の2両が江若から流れ着いたものであることを知った。そして珍車、片ボギーの801。元は8001なる高松琴平顔負けのインフレナンバーであったとか。片ボギーを見たのは初めてで、伊太祁曽~貴志間往復してきたが、2軸貨車より乗り心地は良かった。こうした電車の部類に入れられた気動車については須摩の大人の銘著を紐どいて頂くと、故事来歴がよく分かる。なに、高過ぎて買えなかった、どなたか解説をよろしくお願いします。

本来、彼岸の日に顧問を偲ぶ一端として「新規投稿」とすべしが、またしても新機軸となりスカタンを恐れ遅延してしまった。