竹薮の傍から

このところ、話題が明治に及び、顧問も「すまんけど、私も仲間に入れてんか」と、草葉の陰から現れそうである。京津電軌開業80年を直前に、1992年8月14日が命日だから16年の歳月が経過した。顧問は、吉川文夫さんとは絶えず「京電」のことを中心に文通しておられたようで、1993年秋の彼岸を前にして「お参りに行きたいが、案内して欲しい」と電話があった。2人でお伺いしたら奥様から「主人は吉川さんからのお手紙を全部残していました」と、段ボール箱を取り出された。そして「京電関係はこちらの箱です」。2人は顧問の遺品となったものを整理の上、紙袋などに詰め合わせ、頂戴して辞去した。鹿島さんの事務所で荷造り、宅急便で鎌倉へ送った。「関西の鉄道」32号には吉川さんが顧問を偲び、お二人で探索した「京電」の話が掲載されている。ぜひ購読してほしい。DRFCとの「絆」はここにもあったのである。

 インドネシアの孫(2年7ヶ月)が里帰り中である。藪を通して阪急が行きかいする光景がお気に入りである。その阪急、98日朝やって来た7400先頭の8連、8300系新を垂直にしたようなマスクの持ち主であった。車内扉上3ヶ所に薄型テレビの案内装置がある。扉間座席は323で肘掛の区切り付。1週間後、9300系の5本目に出会った。近々6本目も登場するらしい。そしてさらに増備を重ねると噂されている。正雀で観察している「鉄」に、桂で休車となっていた6300系が1本見当たらないので去就を尋ねたら、それは事故編成の代替となり、事故編成1本をあの世へ送ったらしい。9300系増備により2300系の終焉が近づいてきたようである。そしてもう一つ、洛西口駅の前後、東側の田圃や道路で工事の準備が始まっている。道路付け替え工事となっているが、地元紙乙訓版では洛西口駅の踏み切り改良工事のためで、阪急は高架線になるとのこと。この踏み切り前後だけで、川岡、山陰街道の踏み切りは関係ないようだ。勿論、東向日駅高架化も関係なく、向日市民としては寂しい。

月代わりと共に水泳列車の話も陰を潜めた。高校入学するや新聞局に入局したが、6月に入ると水泳バスの切符売りをやらされた。青柳浜往復で朝7時に校門前出発だったと記憶している。料金は忘れた。校下の京都帝産バスの重役さんが安くバスを提供してくださる、とのことで新聞局をはじめ水泳部や他のクラブでも主催し、クラブ運営費の足らず前を稼いでいた。往路は良いとして、復路は帰校がいつになるやら?となり、卒業後は話をきかなくなった。その年、江若鉄道に1957号登場。大鉄車両なる聞き慣れないメーカーにつき高山師匠に尋ねてみたら、「あぁ、あれなぁ向日町駅の東北隅の掘っ立て小屋でごそごそやってるとこや」と、教えてくれた。まだ下鴨の住人で親のすねかじりであった頃で、自転車で向日町へ行った。木造トタン張りの建屋があり、2線引き込まれていた。1958号となるべし車両が工事中。その傍らでタンク車が整備中であった。察するに大鉄車両とは、私有貨車の定期検査を主たる業務としていたようであった。

その年、195810月は阪神の小型車を追いかけている。一段落したところで近鉄名古屋線へ。ジェットカー登場や改軌の事を師匠から教えて貰ったからだ。1225日には和歌山へ。発端は阪急甲陽線の7,8号の姿が消えたからだ。師匠から「和歌山に行けば阪神700と共に頑張っている」と聞かされた。このころピクとTMSが頼りだったが、ローカルのことなど報じられることなく先輩に教えられ行動したものだ。その和歌山ではガソリンカーの成れの果てを7両も見る事ができた。車庫で形式図を見せてもらったら205206の2両が江若から流れ着いたものであることを知った。そして珍車、片ボギーの801。元は8001なる高松琴平顔負けのインフレナンバーであったとか。片ボギーを見たのは初めてで、伊太祁曽~貴志間往復してきたが、2軸貨車より乗り心地は良かった。こうした電車の部類に入れられた気動車については須摩の大人の銘著を紐どいて頂くと、故事来歴がよく分かる。なに、高過ぎて買えなかった、どなたか解説をよろしくお願いします。

本来、彼岸の日に顧問を偲ぶ一端として「新規投稿」とすべしが、またしても新機軸となりスカタンを恐れ遅延してしまった。

竹薮の傍から」への5件のフィードバック

  1. 乙訓ご老人も新掲示板にすんなり馴染まれ、大慶至極に存じます。しかも挿入写真がバッチリ。クリック拡大すると、トリミングもまたバッチリ決まっているじゃないですか。能ある鷹は何とやら。老人は何を隠そう、パソコンの隠れ達人ではあるまいか。

    和歌山鉄道は上田丸子電鉄には及ばないが、旧気動車を好んで集めた。この片ボギー車は、元来が口之津鉄道が日車と2両契約し、1両が納品され試運転もしたが、結局受領せずにキャンセル。恐らくフォードA2基の協調がうまく作動しなかったと思われる。

    返品された日車本店は、同じ設計の芸備鉄道キハ1、2は何とか納品。口之津返品1両と、未納品1両を片ボギーに改造し、機関をウォーケシャ6XK1基にして芸備キハ3、4として赤字納品した。

    敗戦後和歌山で再再起したこの片ボギー車を見た先輩は、単軸側にも心皿跡があると記している。

    そこで乙訓老人様へお願いが。和歌山での気動車成れの果てクハの写真を、老い先短い須磨老人に何とかプレゼント頂けないか。

  2. 貴志川線の写真を拝見させていただきました。長老が撮影された昭和33年というと和歌山電軌の時代です。私が初めて訪れたのは南海と合併後の昭和40年1月17日で、車両は、パンタ化されていたものの和歌山鉄道時代のままでした。クハ801は車庫の片隅で休車中でしたが、この車のみかつて阪堺線のモハ200形で使用していたようなボウがついており、恐らく試験的なものだと思います。天王寺~東和歌山間は、行きは70系の快速、帰りは阪和形4連の直行でした。

    貴志川線の経営主体が両備グループに代わって以降「いちご電車」「おもちゃ電車」「ねこ駅長」等で少しずつ乗客が増えているとかで大変結構なことだと思います。特に「ねこ駅長」は本が出版されたり、映画にも出たとかで大変な人気のようです。これからも是非地域の足として頑張っていただきたいと思います。

  3. 稼働中の片ボギー車両の写真は珍しいと思います。私がこの手の車両のことを知ったのはTMS増刊の中村汪介さんの作品特集ではなかったかと思います。
    芸備の最初期の気動車たちは直線的デザインで試作車要素も強く、大型車両を作る前の「技術夜明け前」といった風体で興味が尽きません。使用側からみれば中途半端な性能で故障も多く大変だったのでしょうが。

    地方交通線の車両情報というのは昔(昭和50年代以前)はホントに少なかった。朝日新聞社の「世界の鉄道」をバイブルにしていた私が「私鉄車両めぐり」特輯(昭和52年)を手に入れた時はどんなに嬉しかったか。この第1分冊の巻の4に藤井信夫さんの記事(1963現在)が載ってます。同じ号には懐かしい尾道鉄道の記事も出ていて芸備時代の仲間車両キ61の写真も出ています。
    高校生が小遣い貯め、小倉の書店で取り寄せた本は一生の宝になったのかもしれません。
    いまネット上でこういう場所に書ける幸福をしみじみと感じております。

    あと芸備線も未だに非電化で姉が住んでる戸坂までの区間、わずか2駅ですが時々使います。
    途中には短い「最初の」トンネルもあり、社線時代のキハたちの活躍を偲んでいます。
    貴志川線も2年前に行きました。また到来した地方交通淘汰の時代によく頑張っていると思います。
    若輩が言うのも可笑しいですが、鉄道趣味は年をとるほどに面白いもの、過去の経験や知識が生きる「正統な」ホビーではないでしょうか。

  4. K.H.生さま
    いい話聞かせてもらいました。「鉄道趣味は歳をとるほど面白い」は、リタイア寸前の私にとって、至言として映りました。
    鉄道趣味は現状を楽しむ道と、もうひとつ過去を楽しむ道がありますね。その過去の蓄積を、いかに整理して楽しむか、いま考えを巡らしているところです。これは、ニワカ鉄道趣味者には真似のできない、鉄道趣味を永く続けてきた者にだけに与えられた楽しみ方です。
    こんな意味もあって、過去のカビだらけのカラーを取り出して、掲示板でその余韻を楽しんでいるところです。今回はK.H.生さんの故郷がネタですので、またご愛読ください。

  5. 初めまして
    ダベンポート製の蒸機を検索してたまたまここへ辿りつきました。
    丁度本日まで、昭和40年の貴志川線を小ブログでアップしてきたとろです。
    雑草に埋もれたボウがついた片ボギー801の廃車体をブログに取上げたのですが、
    まさか現役時代のお写真がネットで見れるとは! 驚きで飛び上がりました。
    私の歳では見る事の出来なかった時代の光景です。
    出典元提示でお写真を小ブログで紹介させて戴けないものでしょうか。
    これほどの貴重なものを厚かましいお願いで大変恐縮ですが。

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